2022年11月8日火曜日

政治の履き違い

エネルギー問題で石炭回帰が起きてるそうな。
人は生きてる訳で、死活問題に直面したら規制だ何だとは言ってられないということだろう。

環境団体とか脱炭素団体が猛反発でもするのかと思いきや、「解決の糸口を探っていかないといけない」とか、誰でも知ってるような、ただの問題の表面をなぞったようなことしか言わないから逆に呆れてしまう。
当初の勢いはなんだったのか?他人にまで有無を言わせず押し通したあの勢いは、一体一瞬でどこへ行ったのか?
もしも理想がそこまで純粋なのであれば、これから石炭を使おうとしている現場に行って、使おうとしている人を説き伏せるなり(無論暴力は許されないが)お得意の力によってなり、何とか止めようとはしないのだろうか?(まぁ環境団体の半暴力行動は皆の知っての通りだが。)

この辺にあちらの思惑とか、壮大で崇高な理想とはやはり「そういうこと」だということが透けて見える気がする。

あちらの地域一体を1つの組織とみなした場合、自分たちで脱炭素をすると言っておきながら、なんでいきなり自分の言ったことを反故にするのか?と言ったところ。
脱炭素推進しクリーンエネルギーを使うようになれば、当然出力や安定性は低下するということを分かった上での話ではなかったのか?
つまりエネルギー生活はより細々となるし、安定性も低下して停電が日常茶飯事になることも厭わないのではなかったのか?(当然の二次作用としてクリーンエネルギーの研究開発も当然遅くなる)
その壮大で崇高で献身的な理想は一瞬でどこへ行ったのか?(三日坊主もいい所だろう)

既述「技術革新に対する反発」も参照。

ーーー
今回は、そう言った細かい話ではなくて、もう少し抽象的な話。
まぁ当の昔から言われている通りであるが、所謂民主主義と衆愚政治の履き違いなのだろうな、ということ。

一番の大きな弊害は所謂左であろう。
冒頭で書いたのはある意味瑣末な事象である。

そして解決には対話のスタンダードであろうということは既述のとおりである。
(「対話のスタンダード」についてはGoogleで検索してもヒットしないので、本ブログの右側にある「このブログを検索」で検索していただければと思う。→検索した時のリンク


冒頭で書いたのは瑣末な事象であるが、問題としてはむしろ分かりやすい。
原子力発電とか、何万年、何十何百万年単位での地球の温度変化問題とか、専門性の高い事柄も、全て民衆に議論させれば正解が得られるはずだ、という安直さが祟ったと、一言で言えばそれだけのことだろう。
(人権とか動物ひっくるめて生命の権利とかいうのであれば、権利理論・理想に則ってどうぞ核のボタンでも動物に与えてればよろしい。)

現在の政治を例にとるまでもないが、所謂野党はまともに「対話」さえできるような人が「本当にいるのか?」という状況で、そんなところに繊細な原子力発電の話でも放り込もうものなら、まともな話になるはずがない、ということは火を見るよりも明らかだろう。
(政治家まで感情で動く始末。。「リーダーが感情的になってはいけない」という最低限のたしなみさえ知らないのだろうか?)
とそう思うのだが、そう思うのは私だけなのだろうか?それともやはりもう少し将来になって、過去を振り返らないと分からないものなのだろうか?

「議論の場(土俵)のセッティング方法が下手」とかいう方法論もあるだろうが、それは本質ではなかろう。(いくらこちらが丁寧に対応しても、本能反射的な相手がすぐに嗅ぎつけて噛み付いてくる。)
あえて風刺すれば、せっかく清く舞台をお膳立てしてあげたのにも関わらず、恥も理性も持たないものがやってきて、価値も分からないのに持っていって味噌も糞も一緒くたに餓鬼や畜生まで(この並びで言うと修羅も入れておこう)呼び寄せて、利己の享楽のためだけに浪費する図であろうか。
(果たして彼らは「なぜ清いものは清いのか」ということを一瞬たりとも考えたことはあるのだろうか?(続く言葉としては「否、ない」である。そんな気配すらないので言うまでもないが。)
(こういう風刺も嗅ぎつけて「この人たちになんて事言うんですか」とか自分の事を差し置いて騒ぎ出すのだが、「いやその人たちではなくて、あなたのことなんですけどね」と言う滑稽極まりない状況が展開されるという。。)
(明治時代だと思うが、いつかどなたかが「パンドラの箱を開けることになる」と言われたが、まさにその通りということだろう。)

つまり解決法は対話のスタンダードであり、政治3.0 なのである。

ーーー
以上はこれまでのただの総括であるが、それでは世界情勢にどう当てはまっていくかを少しだけ考察しておく。以下の3シナリオが考えられる。
①西欧で広がる
②アメリカで広がる
③日本で広がる

まず①については、西欧は現代政治・思想・哲学の一日の長がある訳で、私の対話のスタンダードを取り入れて、それこそ「規制化」して広まっていくシナリオ。

②については、少し前までの「一極・世界の警察」であり、今では多極化と言われてはいるものの実質世界のNo.1である実績と誇りがあるであろうから、この「左による浪費時代」を終わらせることについても、世界のトップとして私の対話のスタンダードを真っ先に取り入れて先駆者となるシナリオ。

③については、日本は言わずと知れた「和」の国で、私の対話のスタンダードも当然そこで培われたものであるため、自然さから言えば当然日本で広まっていくもの。(正式に取り入れてくれるかは分からないが)私の対話のスタンダードを取り入れるシナリオ。(ちなみに「放っておけば日本であれば所謂左さえも「中和」してしまうかもしれない」と思うかもしれないが、おそらくそれは楽観的観測かもしれない。)

ただし③については、日本が先陣を切ってしまうため、とりあえずアメリカはそれを傍観はしないし、許してはくれないだろう。
なので可能性としては①か②と思われる。

今回はここまでとしよう。



2022年10月29日土曜日

言葉の語源

言葉の語源には、はっきりしたものとそうでないものがある。

例えば語源がはっきりしているものとして、「お母さん」の「かあ」というのは、太陽を表す「カッ」「カッカッ」という音から来ている、というものである。

他方の語源がはっきりしていないものについては、将来的に研究によって語源が「発見」されるものもあるだろうし、発見されないものもあるだろう。

語源を辿ろうとすると、どうしても意味付けをしたくなるものであるが、おそらく中には深い意味はなく、なぜかみんなが使うようになって定着したもの(デファクトスタンダード)もあるだろう。
例えば運よく、ある言葉を最初に使った人が見つかって「なぜこの言葉にしたのですか?」と聞けたとして、その人がもし「特に意味はありません」とでも回答したとしたならば、その言葉の語源は「意味はない」ということになってしまうのだろうか?(近代以降は映像・音声としても残る時代なので大いにあり得る話。)

明治時代に近代西洋化の推進によって新しい言葉が続々と作り出されたが、それらは無論語源がはっきりしている。(証拠まで辿れる。)
他方で、証拠まで辿れない言葉があり、むしろそちらの方が大半なのではないだろうか?

そもそも言葉とは、誰か一人が勝手に考えてその人だけ使っても誰にも理解されないし広まらないものである。
言葉とはいわば集団から「醸し出されて」生じるものであるといえよう。
よって前述の「最初にその言葉を使った人」に聞いても、その人が「よく分かりません」と答えるのも逆に当然であろう。
語源を辿るというのは、特定の犯人を探し出すようなものではなく、どうやってその集団からその言葉が醸し出されたか?と研究するものであろう。
(多分当然言語学的な教科書には載ってるのだろうけど)

現代でも新しい言葉が生じて、現代では映像や音声として記録も残るため語源もはっきりして残るとは思うのだが、これが数百年後、数千年後になって将来人の間でももしも使われているとしたならば、違う意味で使われているかもしれない。
そして興味のある人たちは、映像や音声を見て「当時はこういう意味で使われていた(笑)」とか言われるのだろう。

つまり、現代の我々の言葉も含めて言葉とは、知らず知らずのうちに大きな釜のようなものの中に入れられて勝手に醸成させられていくのである。(言葉に限らないのだが、敢えて言えば「知恵の釜」とでもしておこう。)

ということで、我々は知恵の釜のお陰で生きていけるのである。
(もしも知恵の釜がなくて、「オギャー」と生まれてから、両親や祖父や兄妹と意思疎通するのに、一からコミュニケーションツールとしての言葉を作らなければならなかったら大変である。おそらく家族間のコミュニケーションツールとしての言葉がようやく不便なく使えるようになった!と言ったくらいで一生が終わってしまうだろう。。)

ーーー
最後にいつもの通りあちらの話で申し訳ないが、所謂あちら側の人はこう言ったことも根本義において理解できていないのだろう。
知恵の釜のお陰で「人として」生きていられるのにも関わらず、「全てオレのもんだ!」「全てオレのおかげだ!」「全てオレが正しい!」と臆面もなく言っているのだから、現代の本物の「裸の王様」である。しかもうじゃうじゃと大勢いて増殖する始末。(まずはおとぎ話の「裸の王様」でも読めばよかろうに。)


2022年10月9日日曜日

音楽同期機構 Sound Synchronization System

2人で2台のパソコンを並べて同じゲームなどをしていると、BGMがそれぞれのパソコンから非同期で流れて耳障りである。
よって、端末間の音楽同期機構を発表する。

上記例で言えば、2台のPCそれぞれにおいて、スピーカー入力からフィードバックして自分のPCからのBGMなのか、他PCからのBGMであるかを判定し、自PCのBGMを他PCのBGMにタイミングを同期させる機構である。
よって、本機構はPCに限らない。また同期台数も2台とは限らない。
また、タイトルを分かりやすく「音楽」同期機構としたが、無論音声としては音楽に限らない。

BGMを管理しているのはゲーム本体であるため、本「音楽同期機構」対応ゲームであれば、PCを並べて同じゲームをすると、自動で他PCのBGMと同期してくれるのである。
※効果音は自端末のタイミングで発生した方が自然であるため、基本的にはBGMのみを同期する。この辺は細かい設定次第である。

本機構を用いれば、ショッピングモールや町内放送など、これまではお互いの距離(とそれによる音量の減衰)を元に、つまり「これくらい離れれば他音源の音量も人の耳には雑音となり、つまり人間の「認識特性」を頼りにして、本音源(主流音源)が聴き分けられる(だろう)」という非同期ありきの設計するしかなかったのだが、同期放送の設計も可能となるという点がブレークスルーである。

※または、これまでは、「音響のプロ」に任せて、ショッピングモールなりホールなりのレイアウト情報など音響特性をもとに、その場に適した音響環境の構築をするしかなかった、とも言える。
設計当初は良いのだが、レイアウト変更や、それこそ壁とか仕切り1枚追加しただけで、その空間の「特性」が変化してしまうという、環境依存性がどうしても高くならざるを得なかった。そうすると再設計するか「若干の音響の変化なので許容する」と判断して目を瞑るしかなかった、ということ。本機構はいわばその辺も自動調整できる仕組みと言えよう。

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併せて本アイデアの簡易版として、音声発生ホスト指定方式も挙げておく。
これは、本機構対応ゲームを2台とか並べてプレーする時に、どちらかをBGM発生端末として、他方はミュートするだけの機構。
よって、どちらをホストとするかの初期設定が必要で、一手間があるため、あまりスマートなアイデアではない。(が、アイデアはアイデアなので発表しておく。)

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特にeスポーツでは、観客用、対戦相手用、自分用とか多数の音源があるが、プレーヤーは普段通りのアクションに対するレスポンスとしての効果音は必須な訳で、つまり大抵は自分専用にヘッドホンをしてプレーするしかないのが現状であるが、本アイデアによってその光景は一変し、プレーヤーと観客の一体感はものすごく増すのである。

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現代では友達とゲーム機とかスマホやiPadを持ち寄って遊んだり、人によってはパソコンとかノートPCとか並べて遊んだり、それこそDiscordとかで通話しながら遊んだりする訳で、本機構の需要はかなりある。
特許でも取れば結構お金持ちになれるのだが、まぁ公共の利益優勢というオープンソースの精神で、勿体無いけどアイデアをこの通り公開する。

2022年9月14日水曜日

しっぽを持つ感覚

猫や犬のしっぽを見て思ったのだが、もしかすると人でもしっぽを持つ(持っていた)感覚を備えてる人がいるのかな?と思った。

尾てい骨が尻尾の名残と言われているようなので、先天的にしっぽの感覚を持っていた人がこれまでの有史以前まで含めて、誰かしらはいたのかもしれない。(無論記録には残ってないだろうが。)

また、後天的にも練習によって耳や鼻を動かすことはできるようになる人もいるので、もしかなり頑張れば、(仮想的な)自分のしっぽを動かす感覚も身につけることができるかもしれない。

「仮想的な」というのは、何かで見たのだが、腕とか足とかを失った方でも、感覚だけは残ると言うので、その逆の発想である。つまり無かった物もあると「仮想」できるのでは?と言うこと。(幻肢)
※なお、この腕や足を失われた方の話だと、失った手や足が仮想的に水とかに触れると、水に触れたり、濡れたりする感覚だけ生ずるようで、不思議である。
これは人が主体となって、外界を「迎え入れる感覚」とでも呼べるだろうか?(もしも「迎え入れる感覚」が研究領域として未開拓であれば、このアイデアが初端となってくれれば幸いである。
(もちろん幻肢・幻肢痛などの研究はあるのだろうが、それはあくまで「名残り」に主観を置いた研究。ここで言ってるのは、それを拡張して幻肢に限らず、人が外界を主体的に感覚として迎え入れるという点がブレークスルーとなっている。これは触覚に限らない点も含まれる。)

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そう考えると、「仮想感覚」「仮想感覚器官」というのは、もしかするともっと自由度の大きいものなのかもしれない。
(例えば触手でも何でも良いのだが、ちょっと自分からは離れたテリトリーでも知覚できるとか。なお注意点としてはこんなことばかりしていると、自分本来の感覚構造も崩壊してしまうかもしれないので、十分注意は必要であろうが。。また、仮に仮想触手を備えたとして、知覚するのは便利かもしれないが、気を付けないとドアに挟まったり、車に轢かれたりして日常的に痛みに見舞われる危険性が高まるかも知れない^^ 見えないものが見えてしまう人のように、その能力があるがために知りたくもないことまで知ってしまうのと同様で、その感覚を備えてしまったことの代償であろう。しかもこの仮想触手を備えた例の場合は自分からすすんで獲得している訳だから文句の言いようがない^^)

そしてそこまで行くと、別に触手とか具体的な器官も想定する必要もなくなってきて、正に「感覚を研ぎ澄ます」ことによる、「人並外れた感覚を備えた人」の話につながっていきそうである。
話が行ったり来たりになってしまって申し訳ないが、逆にいうと「人並外れた感覚を備える」ための練習として幻肢・仮想感覚器官を想定する、ということで習得方法が整備・確立可能かもしれない。

2022年9月4日日曜日

まずは敷かれたレールを知ることから

まずは敷かれたレールを知ることが肝要であろう。

つまり今や一億総中流となって全員が何となく「幸せに」暮らしているかも知れないが、行先にはライオンが口を開いて待っているとすればどうしようか?ということ。
ライオンの存在に気づいた時点では手遅れである。

一億総中流とはよく考えたもので、それくらい大きな電車であれば、もはやそれが敷かれたレールの上を走っていることさえ忘れてしまうのである。
危機感の持ちようがなく、まさに現代社会の現状であろう。

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今や大学に行くのが当たり前と言われつつも形骸化しており、ニュースでも大学の先生が生徒の学力の低さを嘆いているとか聞く訳だが、(その為に例えば理系であれば大学入学後に大学側で生徒のために高校数学から教え直してあげる、という始末。。)
大学に行く側としては「みんな行ってるから行ってるだけ」くらいの意識で行ってるのだろうから、もう立派な「レールの上を無感情で呆けて運搬させられる人」であろう。(どこかで誰かが「一丁あがり!」と言って拍手してそうである。)
(無論そんなふざけた動機で行ってるわけではない方もいるだろう。むしろそういった方はこんな指摘に怒りは覚えず、現状認識として「確かにそうだ」と冷静に分析していただければ良いこと)

そんな人たちが世の中に出ていく訳で、一億総中流とはつまり一億総インテリということであろう。
インテリなだけあって、自分が正しいと信じて疑わず、他者の批判を聞き入れず、どこの入れ知恵か知らないが、批判されると人権だ差別だと騒ぎ立てる始末である。
かような集団が、斯様に自己本位な集団が、自分達が住んでいる空間がまんまとレールの上を走っているとどうして知覚・認識することができようか、ということである。
(その癖いざライオンの口が見えると、先頭切ってギャーギャーと騒ぎ出す。騒ぐだけ騒いで「何でみんな無能なんだ!」とか言ってのけるのだろう。)

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一応過去を遡ってみると、分かりやすいのは明治維新であろうか?
つまり身分制度を廃止した訳だが、誰かが何かの時に「パンドラの箱を開けることになる」と言われた通り、一方で優秀な人材も輩出されるだろうが、他方で「訳のわからぬ」ものも出てくる訳で、そこまで含めてそう言ったものの責任や面倒を見るしかない状態にいずれなる、という意味合いだったのだろう。※かといって、時代の流れとしてこれは必然であり決して批判の意味はない。

時間的(慣性の法則的)なこととか、様々な要因があって、その辺は諸先哲の研究を参考していただくとして、かなり端折ると、戦後になっていよいよ「何の垣根もなくなった」と言えるだろう。(あるはずなんだけど実行力を失った、というか。)

そこにまんまと個人主義(という名の利己主義)とか都合の良い権利とかプライバシーとかが入り込んで(または直接的な工作が「しめしめ」と入り込んで)、また左右対立に明け暮れて(明け暮らされて、というべきか)、その下のレールは本当に誰にも気づかれずに敷かれた、と言ったところだろうか。

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最後に発破だけかけておくと、たとえにわかインテリだとしてもインテリには変わりないので、どうかその頭脳をフル活用して、この現状を少なくとも認識してもらいたい、と言ったところだろうか。
SNSのこの時代、「表の顔」しか持ち合わせない人もいるようだが、こう言ったことこそ裏で、つまり自分の土台で考えるものである。(裏アカとかもあるようだが、アカウントを作ってる時点で「表」である。)(こんなことは日本に限らず世界中の、老若男女を問わず持っている感覚であろうが。まんまと何の疑いもなくレールに乗っている人がいるかも知れないので、敢えて言っているだけである。「はっ」としていただければ幸いであるが、斯様なことは本来は自分で気づくべきことである。)
知識をひけらかす訳でなく、主流に迎合する訳でなく、地に足をつけて考えるものである。

2022年9月1日木曜日

嘘もつき続ければ真実に?

「嘘もつき続ければ真実」というジョークがあるが、ひょっとしてこれを本気でやっている輩がいるのでは?と思った。

実際現時点でも性懲りも無くしょうもない嘘をつき続けている輩がいる訳である。
そして、ひょっとして例えば100年くらい言い続ければ、少なくとも足掛かりとかになる、とか思っているのだろうか?

そこで、彼らには「いくら嘘をつき続けても、嘘を出処としているのであれば真実にもならないし、いくら長く言っても足掛かりにもならない」ということを理解させれば良い。

現在進行形で頑張って嘘をついているたちがいる訳だが、それを100年待って「無駄だった」と分からせても良いのだろうが、要は「そこに費やした資源は全て無駄だった」と気付けば、もうやらないだろう、という単純な理論。

※もはや「普通」という感覚さえ持ち合わせていない方達なので、もしも無駄だと気付いたとしても、その事を知覚できなくて平然と続けるということも考えられるのだが^^


2022年8月25日木曜日

はいという素直な心

今回はざっくばらんな話。

何についてかというと、人についてということ。

何かの言葉に「はい、という素直な心」というものがある。
子を持たれた方であれば、なお一層つくづくその通りだなと思われるのではないだろうか。

「子を思う気持ちは、どんな親でも一緒」などと言われる通り、我が子には立派になって欲しいとか、少なくとも「曲らないで」育ってほしいと思うものであろう。
※下手をすると現代においては「曲がってもいい」「曲がるべきだ」と確信犯的な親までいたりする始末であるが、その辺はむしろ既述のあちらの構造理解をすればいいだけの話。哀しくもそちら側に毒されてしまった親御さんは、「自分は毒されてたのだ」と気付けばいいだけの話。今日はそちらの話ではない。

よく例えられるように子供ひいては人とは植物のようなもので、または人類の叡智による「三つ子の魂百まで」という諺の通り、根っこや初期に伸びた茎はとても重要なのである。
だからこそ親は心血を注ぎ、自ら休むこともせずに我が子の成長を見守るのである。
裏を返すと「本能」と言ってしまうと単純すぎるのであるが、我が子を持って(以て)親たらしめられる、ということであろう。(親の自覚)
(確かにここで外部からアクセスされてしまうと大切な根幹(まさに根と茎ですね)がぐにゃぐにゃになってしまう。下手をすると、えげつない極みであるが、あちらも馬鹿ではないのでそこを集中工作している感さえある。(今回はこの話でないと言っておきながら、どうもそちらの話になって申し訳ない。美しい話でまとめても良いのであるが、それだと実態が伴わないので、どうしても現代の病巣を考察せざるを得ないのである。))

ーーー
ちょっとだけ具体に踏み込むと、現代において果たして真っ直ぐな話をできる人は身の回りにどれだけいるのだろうか?という点。
見聞して驚いたのだが、実際に10歳にも満たない子供でも平気に友達を騙くらかして、彼からしたら「世間知らずの」友達からおもちゃを「合法的に」取ったり(これも彼らの論理というか倫理観からは「合法」と思っているのだろう)、それについて何ら悪気もない人までいたりするのである。(ここまで行くと子供ではなくて既に立派な人であろう)※1

これは一体どうなっているのであろうか?

想像はいくらでもできるのであるが、これが現実と受け取らなければなるまい。
そして、むしろあちらの人(あちらの影響下に育った子供)は、そういう境遇でとても可哀想なのであるが、幼くして早くも反面教師として受け取らざるをえまい、ということ。
(これくらい具体的に筋道つけて、論理立てて説明すれば分かってくれる人が大半であるが、これまた恐ろしいことであるが、あちらに焚き付けられて自分の非を認めない、認めないことだけが目的だ、という方もおられるのである。
また、もしも子供の人権を高らかに言ってる暇があるのであれば、この通り「毒されている」子供を真っ先に深く考えなければなるまい。「三つ子の魂百まで」という通り、また後述の通り、小さい時に心根が曲がっていると大人になっても、やはり毒を撒き散らす人になってしまうのである。更に言うと、その人に子孫ができたとしても、やはり同じ毒を吹き込むことになるのであろう。(しかし人はいつ・どこからでも変われると言われる通り、「改心」すれば寧ろ完全理解者として真っ当になれる訳で、時々美談としても出てくるのであるが、今回はそこまでは議論に含めない。))

いわば、現代の子供たちは一度外界に飛び出すと、激流が待ち受けているようなものである。そこで切磋琢磨しなければならないのであるから現代の子供たちは大変である。
以前書いた通り、現代においては環境要因で宿命を負う人は少なくなったはずで、むしろ宿命は人が自ら作り出しているのである、と書いたが、まさにその通りということであろう。(そう言うことだと、最初に書いた「環境要因」と言うのは「自然要因」と言ったほうが良いかも知れない。)
であれば、なおさら揺るがない素直な心の醸成が必要であろう。またもし見つかるのであれば真っ直ぐに話をできる人ができてくれれば幸いである。

ーーー
もう少し大局的に見るとどうか。
結局組織は個々構成要素(構成要員)の集合であって、例えば根本がぐらついているもの同士が寄り集まって果たして真っ当な、真っ直ぐなものが出来上がるのか?ということ。
これを危機と捉えるのであれば何かしなければなるまい。(現状を見るにつけ、下手すると大半が「そんなの自分には関係ない」とか言い出しそうであるが。)

皆さんご存知の通り、役所のお仕事は素晴らしいもので本当に親身になって相談に乗ってくれるのである。役所に限らないのだが、一言で言うと「日本を良くしよう」という、(ものすごく当然のことなのであるが。付け加えると、政治をものともせず、と言うか^^政治家よりもよほど足が地に着いている)人々がいらっしゃり、実際に現場で実践してくださっているのであるが、それを少なくとも下支えしなければなるまい、と言うこと。
※財務官僚についてはまた別観点での考察が必要だろうが^^

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またしてもあちらの話になってしまって申し訳ないが、あちらはいいどこ取りする(だけな)ので、数さえ勝ればいいと思っている節があるが、ではこちらも揺るがない根幹を持った人がいれば良い訳である。
少なくとも現場は、現代の正攻法たる数の論理でやってくるので、「日本を良くしよう」と言うベクトルが基底にあるのだとすれば、数の論理の手助けが必要であろう、と言うこと。
(表には出てこないが、もしも「日本を悪くしよう、馬鹿国家にしよう」と言う輩だらけであれば残念であるが。ただしそれも「表層」であろう、と言うこと。またもしもあちらに毒されていて「それが総意だ」と幻覚を見ているのであれば「早く目を覚ましてね」と言うだけのこと。まぁ罠は巧みなので、そうそう「自分を見つめ直す」時間は与えてくれないだろうが。あなおそろし。)

つまり結論すると、日本を良くしようと思っている現場を救いましょうと言うこと。
家庭であれば、我が子を目に入れても痛くないくらい愛情を注ぎましょうと言うこと。
(現代においては付け加えると「加担即悪」を心がけましょう、と言ったところかと。。「加担即悪」も既述の通り)

ーーー
※1 そういえば私も小学一年生か二年生の頃こんなことがあった。同級生と放課後か休日に遊んだのだが、その人の家に行きその人は親から遊ぶために千円をもらっていた。最初はその人の家で遊んでいたが、その後近所の駄菓子屋へ行った。その人が私に好きなの選んでいいよというので、私は申し訳なく思いつつも2、3個選んだものだろう。ありがとうとか言って駄菓子を食べたりして遊んでいた。
しかしその日の夜か次の日の夜とかに、その人の親から電話があったか直接家に来たかで、何とその人は私がその人をそそのかして「その千円使おうぜ」みたいな筋書きのことを言い出したのである。
私は突然の不意打ちに対して、小学1、2年生だったため泣くしかなく「そんなこと言ってない」と反論するだけしかできなかった。結局私の親はその人と親に謝罪して千円を返金しその件は終了した。
当時であっても10歳にも満たなくても「どうしようないもの」はいた訳であり、これはどこまで過去に遡ってもそういう輩は存在していたのであろう。
この件の考察ポイントは以下であろう。
①私がそそのかした筋書きにしたのは、その人の意志によるものか、または外部か。
②百歩譲って私がそそのかした事として、その人の親はその人からそう言った報告を受けてどのように対処したのか。

過去のことであり、済んだことなので事細かに追求はしないが(しかし私は当時子供なりにも、かなり自分の中で理論的には完全勝利できるくらい突き詰めて考えたりはしたが)、世間を知っている人であれば「あぁそういうことね」とご理解いただけるであろう。(それとも「世渡り上手」な人たちばかりである現代においては、むしろ取り敢えずあちらの肩を持っておく人の方が多い?)

この一件に限らないのだが、こう言ったことを通して一つ気づいたことがある。(これもお陰様といえばお陰様。誠に有り難い事である。)
こういう性質を持った人の特徴として、学校行事とか保護者活動において、その人の「親の顔」が全然見えない、ということである。
インテリぶって「お前たち下級市民と交流などできるか」とでも思っているのか、または数々の工作活動への後ろめたさなのか知らないが(まぁやってることの厚顔ぶりからして後者は可能性は低いが、どこか深層心理領域で何かしら影響しているかもしれないという意味において)、学校生活を通してその人の親だけ、どういった性格とか分類の親か全く分からずじまいだった。

ちなみに、この人は中学校卒業まで一緒だったのだが、中学校ではその人のグループがあり(もちろん「ワル目」の)、その人がトップ的存在だった。しばらくはみんな仲良くやっているのだが、ある日突然その人のグループの一人をシカトしてグループから外すということを中学校生活を通して2〜3人やっていた。
おそらくその人の「気に入らないやつ」は、その人としてはどうしても「排除」するしかなく、一旦その気になると完遂するまでは誰が何を言っても止められない人なのだろう。
私の件も彼の意のままであったし、小さい頃から「自分の意志通りに世の中従ってきた」とでも思っているのだろう。実に平和である。

私の一件に戻ると、元あった千円で駄菓子を買って私と半分づつ使ったとすれば、その人は正味500円得したことになるが、何ともみみっちい話ではないか。どうぞ皆から500円ずつかすめ取って生きて行けばよろしい。
恐らくそういうことではなくて、その人はどうも罠を作って罠にはめて、それを以て自分の快楽を満たしていたのではないだろうか。いずれにしても器の小さい話である。
ちょっとだけ踏み込むと、自己承認欲求から来るものだろう。親から物質的なものは与えられいたのだろうが、肝心の愛情はどうだったのか?と言うこと。見方によっては当時の「純粋な」私から、私を利用して、それを得ようとしていた訳で、何とも可哀想な人ではないか。(これは無意識かも知れないが、その人も「純粋なもの」と一緒にいると何かしらの「安心」を感じていたのだろう。しかし彼の「素地」として、どうしても悪巧みをしてしまう事に抗えなかったのであろう。)

また親サイドから見るとどうか。こんなわがままボーヤは成長するにつけてどんどん手が付けられなくなっていくだろう。(子供サイドとしても「これまで僕/私のことを見向きもせず何も言わなかったのに、後になって色々指図してくるとは何事か」と言うことだろう。)
親は我が子に「今まで物質的に満たしてあげてたではないか」とでも臆面もなく言うのであろうか?(下手すると言うことを聞かせるために子供に「貢ぐ」構図。)成人するまでは何とかそれで成り立つかも知れないが、成人後は2択になりそうである。一方は親から離れていって、寧ろ親を疎む方向。他方は親が子供を力などによって精神的に完全コントロールする方向。何れにしても子供側の見えない反発は透けて見えている。
最終的に子供が思い通りに従わず「何故子供は言うことを聞かないんだ」と思っても後の祭りということ。
・「三つ子の魂百まで」という言葉を知らなかったのか?聞いたことはあるけど字面を眺めただけだったのか。
・本当に子供がまっすぐ育つように思ってきたのか。心血を注いできたのか、とまではいかないまでにしても、少なくとも行動が伴っていたのか。
※確信犯は、「しめしめ立派な悪が育ったな」とでも言って一人寂しく去っていくのだろうか?(それはそれで悪としては潔いけど。とは言っても元々が曲がった話であって、世間を履き違えているので、暴走老人として第二の人生を歩みそうではあるが。)

後の祭りと言ってはそこまでなのだが、もしも反省する気持ちが残っているのであれば、論理立てて振り返って頂きたい。
人それぞれ人生を通して、子供を持つまで色々経験しているはずなのであるが、どこか「子育ては別物」と考えてしまっていた人もいるかも知れないが、例えばアニメやドラマでも何でも良いのだが、事を成し遂げるベースにあるのは「信頼」であって、信頼が確立した同士であれば、アイコンタクトなり「分かるな?」の一言で以心伝心できるものなのである。
その最たる相手が我が子であろう、ということ。最も心が通じ合っていなければならないし、また最も心が通じ合える関係を結べる・結びやすいものが我が子であろう、という事。
我が子をただの「物質」としか捉えられないのでは勿体あるまい。

「自分も親からそうされてきたから我が子にもそうした」という事は哀しい事であるが、それもいつかどこかで断ち切らねばなるまい。(子供であっても理不尽な仕打ちや矛盾した仕打ちについて理由を考え、「大人という力を持った存在に成長すれば、今度は自分が力を振るって良い。加えて周りの大人含めてその点を理解できる人はいない。よって誰にも分かってもらえなくて良いから、大人になるまで辛抱しよう」とか考えてしまう人もおられるだろう。※絶対に「親が悪い」とは考えないのであるからなんとけなげであり、逆にいうと仕打ちを与える側の親はその点について一瞬でも思いを馳せたことはあるのだろうか?)

負の連鎖であり、親の親はどうだったのか?その親は?と考えるととても長い連鎖になっていよう。しかし一旦それが「良くないこと」と「知る」ことができたのであれば万々歳であるし、その負の連鎖が断ち切れるのであれば一生ものの仕事をしたと言えるのではないだろうか。(一生ものというか「数世代」ものの仕事)
断ち切るとは、自分の子供には上記のような負の側面を引き継がない、と言うことである。親から負の側面を引き継がれている方は、ある意味本能レベルで骨身に染み付いてしまっているであろうから、なかなか大変かと思う。いわば自分の中には我が子と信頼関係を築くための判断基準がない訳であるから、最初は寧ろ違和感ばかりであろう。しかし、負を引き継げば結果はもう見通せる・見通す力は備わっている訳で、それを原点にして、どうしたら良いか分からなくなった場合はその原点に立ち返って一歩一歩前進していければ良いのではないだろうか。

ここまでくると自ずから分かると思うが、我が子と信頼関係の上に立って意思疎通もできないのに、どうして言う事を聞かせることができようか、と唯それだけのことである。
(自分で水を差してしまうが、どうもこの辺にもあちら側に通じるものがある。つまり自分の主義・主張に対して従わない奴は高圧的に、相手の意見を聞かず、ひたすら自分の意見だけを大声で叫んで、最後は暴力をちらつかせたり、実際に行使したり、と言うことである。。恐ろしい。。)

念のために付け足すが、(付け足さずとももうここまで分かれば自然に理解できると思うが、)どうも人を騙くらかしたり悪事をした人というのは何かに怯えている、ということ。何かということは自分であり、それこそ本性としての良心であろう。簡単にいうと、まぁそういう人たちは自分のやった事を振り返らない。
自分が正しいのだ、自分は間違っていないと自分自身に言い聞かせるために常に怒っているのである。(裏を返すと、その人の「精神的平衡」を保つためにやっている訳で、これまた哀しい人である。)
(なお、この辺も既述の「常に怒っている方が楽である」に結びついてくる。)
更にいうと、そういう人は「あなたの心の強さと度胸が必要です」とか言われて、まんまとあちら側にリクルートされたりするのであろう。

本人とその親は気づいてないだろうが、彼らからひどい仕打ちを受けた人は当然として、周りのたくさんの人たちが巻き込まれているのである。ひどい仕打ちを受けた人は怒りかも知れないし、恨みとしてかも知れない。(思えば彼らは仕打ちをした人々から一生恨まれることを承諾しているようなものなので大変だ。)
直接的な仕打ちは受けていない周りの人も、最初は温かくなじめないか努力するだろうが、手が付けられないとなると匙を投げるかも知れないが、少なくともそう言った気遣いを「させて」いる訳だし、世間話的にも「なんであの人はああなんだろう」と多くの人の目に見えない集団生活する生物の本能的な「何とか理解しよう」というエネルギーを「使わさせて」いるのである。

ちょっとだけ俯瞰的に見ると、それらは本来は親がするべき事であるはずなのに、なぜか周りの人がやってあげているという構図である。しかも仕打ちを与えた人さえも、その人からしたら、その人を救い出す側の人なのである。
これくらい明確なのだが、本人に言葉だけ、つまり「物質的」に言っても聞く耳は持たない。改心しない限りは。
よく、改心した方々の話を見聞すると、もちろん自力で改心された方もいらっしゃるが、多くは「親身になって」話を聞いてくれる人、それこそ「真っ直ぐに」話を聞いてくれる人がいて間違いを諭され、改善していったという話が多い。
「親身になって」とは正しく親みたいに、親代わりとなって、その人のために、その人を案じて話をきてあげるという事だろう。

曲がってしまった人たちは、哀しいかな「物質的」親はいたのかも知れないが、精神的な親がいなかった結果とも言える。
そして社会の有機的な作用、これもまた人類の叡智とか自然の包容力なのだと思うが、社会の作用・仕組みとして、そういった「はぐれた人」は包み込む包容力が元来からあるのである。(社会的自浄作用/集団的自浄作用。既述「寧ろ日本は昔からマイノリティに優しかった」参照)
(これまた、あちらの話になるが、これを履き違えて、というかわざと誤認して「少数意見を無視するな」とか言っているのである。ましてや、あろうことか本当のマイノリティを焚きつけて徒党を組ませて、日本を攻撃させている始末である。(ちなみに用済みになると簡単に捨てられる。なんとマイノリティに優しいことだろう。))

ーーー
話を戻すと、私としては小学校1、2年という初期に悪縁を断ち切れてむしろラッキーであった。私としてはあの件で気狂いみたいに泣き喚いて一石を投じる事ができたので、それで良かったと思う。(中学校卒業までは、というかその後大人になって風の噂で聞いても相変わらずのようなので今でも、改心はしてなさそうであるが、「自分の意志を通すために他人の意志を踏みにじると、その人は発狂したように抵抗する」という点について、「なぜだろう」と死ぬ直前でも良いので考えてくれれば幸いであり、それこそがその人にとっての救済なのであろう。)

ーーー
私は気づいているが、世の中のいじめ問題とか学級崩壊問題とかあるが、根本は家庭教育であろう。
しかしマスコミは、これだけ毎回懲りずにニュースにしているのにも関わらず、なぜその一点に気づかないのであろうか?
お偉い学者さんとかお招きしてコメントしてもらっているのではないか?しかし個人主義なのか都合の良いプライバシーなのか何なのか知らないが、「その人」にしか着眼しない。(ここまで行くと「敢えて目を逸らしている」としか思えないのではないだろうか?)

今回のざっくばらんな話の通り、子供の心棒を立てる手助けをするのは親である。
(身寄りがなくて、自分一人で心棒を立てた方の話を聞くと、それだけで泣けてくるが。)
現代においては、あろうことかその心棒を「曲がるように」、まるで悪魔の囁きのように吹き込む輩がいる訳で、そんなことで我が子が真っ直ぐな人に成長するとでも思っているのであろうか?
それとも本気で確信犯として、曲がった人を生み出そうとしている人たちがいるのだろうか?(悪魔に魂を売った人たち)
統計的、社会学的、組織論的に、そう言った哀しい確信犯が出現してしまうのは仕方ないのであるが、それは社会で見守って優しく内包していくしかない、というのが当初の話であったが、こともあろうにそう言ったことが「助長」されているのでは?という問題提起であった。

公共の役割を強く持っているマスコミはいつまでもメクラの振りをしていないで、それこそ政府を動かして「根本は家庭教育から!」とか言って一大キャンペーンでもすれば良かろう。
※もはや公然の事実となって、皆さんご存知であるから詳しくは述べないが、「マスコミがそんなことやる訳がない」ということは誰の目にも明白であろう。であればちゃんと「我が社の目的は日本をバカ国家にすることです!」とでも紙に書いて額にでも貼っておいたほうがよほど効果的な宣伝になるのに。

もはやマスコミは当てにならない、というのが奇しくも周知の事実となった。(こうなってしまったことに対して彼らは誰かをしめあげて「粛清」でもするのであろう。工作するということはイコール騙し合いの世界であり、当然スパイや二重スパイはゴロゴロいるのであろう。色々勘繰ると「日本を覚醒させるために悪役を演じ」て、マスコミの信頼を失墜させる方策にまんまと乗ったのだろう。思えば自分達の信頼を落とすためにせっせと働いているわけで、行き着く先はおまんまが食べられなくなることであり、つまり自分で自分の首を絞めている訳だが、精神構造的にMなのだろうか。)

マスコミが当てにならないのであれば、個人と現場と政治でどうにかしていくしかあるまい。(というと、またマスコミは偽善の仮面を被って忍び寄ってくるので気をつけましょう^^)

ーーー
なお、マスコミ内にも真っ当な方がいて正しい情報を発信されている方々がいることも当然知ってはいるのだが、結局やはりマスコミも組織でありそのトップの方針(表に直接的には表さないだろうが)が偏っていれば、人々はその組織のこととして捉えるのである。
よって、既述「メディアの盲点」の通り、メディア側で働かれている真っ当な方からすれば知らず知らず色付きの仕事をさせられている訳である。それら使命を持って正直に働いてこられた方からすれば勝手に色を付けられたと言う裏切りというか欺瞞というかになってくるわけで、それに対する憤慨が思いやられるし、それこそ「働く側の権利」とか人権に近い所まで話が整理・昇華されて内部崩壊するのでは?と書いた通りである。(気概があればだが。)

気概という点では、あちらも巧妙なので火がつかないように細心の注意を払っているのだろう。「直接的に関係ない」「騒いだら目をつけられる」というように内部で働いている人は気概を持つきっかけされ封じられているのだろう。
しかしお隣を見るまでもないが、「嘘も言い続ければホントになる」と本気で信じている方達たちなので、放っておくと本気で乗っ取られて、気づいた頃にはもう手遅れとなるのである。
問題はそこまで考慮した「気概」であるかどうかであろう。

2022年8月19日金曜日

左側の一番分かりやすい構図

所謂左側の言い分は、「こちらも投げ出してるのだから、そちらも投げ出せ」ということなのだろう。

何を投げ出すのかというと、突き詰めると自分の意志とかになるのだろう。
(既述の「喜んで自分の意志を投げ出す人々」参照)

彼らは精神構造的にMなのか何なのかは知らないが、そんなに自分の意志を投げ出すのが好きなのであれば、どうぞ勝手に投げ出していれば良いのだが、どういう訳か関係ない人にまで強要するのである。
という構図が一番分かりやすいかと気づいたので記録しておく。

なぜこのベクトルに力が働くのかということは、実はあちら側の当人も分からないのだろう。
例えばガン細胞自身もなぜ自分達ガン細胞は他の無関係な細胞にまで侵食するのか分かってないように。(よく例えられる話ですね。)

この辺の構造は既述「構造理解」の通りなのであるが、あちらのトップを見ても最終的に何をしたいのか不明であるし、あちらの色々な組織内でもまともに意思決定できてないことからも、「自分達は最終的に何をしたいのだろう」ということが分かってないまま暴走老人のように遭遇する人に当たり散らして世の中を徘徊しているだけなのである。

これまた既述であるが、所謂あちら側の人の目は、全く人を信じず、如何に相手を出し抜くかしか考えてないので、まるで爬虫類のように冷たいのであるが、それでは一体彼らの「組織」内ではどうなっているんだろう?と疑問に思っていた。
分かったこととしては、やはり彼らの組織内でもお互いに爬虫類の冷たい目で見ているだけで、もしかすると笑顔で会話してたりするのかもしれないが、腹の中では「こいつはいつどんなふうに出し抜こうか」とお互いに探り合っている、ということ。(よほどまともではない)
そんな組織がまともな意思決定ができないことは当然である。
こういう組織は(実際そうなのであるが)まとめるには力、つまり暴力を持ってでしかまとまらない。自然とトップが絶対権力者になって、それ以外の人はトップに従うだけになる。
元々が自分の意志を自ら喜んで放棄している人々なので、上から言われたどんな理不尽なことにも従うのは楽勝なのである。(彼らは「目的のために自分の意志は捨てて、言われた通りに付き従え!」とか、日々かなり洗脳されてそう。。)
そんな具合なので、突然「ここのチームでこれこれを決めてください」とか言われても、自分で考えるということをしていないので、まともな意見も出せないのである。

以上は既述ばかりで、既に何年も経過しており皆さんとしても分かりきったことかと思うが(私の稚拙な文章よりも、また私よりも当の昔から多くの先生たちの文章で分かっている事かと思うが)、上記の通り、自分の意志を放棄するということは、それくらい恐ろしいということである。


2022年8月17日水曜日

枠組み

多くの人は気づかないのであるが、「枠組み」というのは
その名の示す通り、人為的にできているものであるのである。
その点にただ気づくだけのことであろう。

2022年5月29日日曜日

進化か退化か

前回とかこれまでを総括すると、結局進化か退化かということだろう。

あちらの根本である利己とは、利己を満たすため本能に従って行くことであり、行き着くところはただの動物に戻ることである。
加えて自ら喜んで自己の発展とか管理とか、所謂「自由意志」を放棄していることからも、いかにも動物である。
(一応あちらに呼びかけることとしては、(もはや聞く耳を持たないと思うが)本当に自ら悦び進んで動物に退化するつもりですか?と言ったところ。)

無論あちら側は精神史とか高尚なレベルはそもそも考える頭がないためしょうがないのだが、人と人類は精神性的には向上することを目指すのであり、退化ではない。
自暴自棄になって人生を諦めた人が悪に落ちて、精神的向上を放棄した人がどうして「あの人は精神的に向上した」と言えようか。

精神的に堕落した人は、ある意味可哀想な人であるため(中には確信犯的にどうしようもない人もいるが、そういう人であっても)社会の中で「集団的自浄作用」の力でなんとか社会で優しく受け止めて行くのである。
それなのに、あろうことかそういう人を寄せ集めて徒党を組む始末、というのが前回の内容であった。(そして過半を目指して実現が見え始めているとでも思っているのであろう。)

享楽にふけるとか、常に怒って生活するとか、楽なのであるがやはり人間楽な方を選んでは成長はない。現代では宿命的に大変な環境で生きることが前提になって生まれてくる人は少なくなったと思うが、そういった自分の力ではどうしようもなく大変な目にあった人が、休憩場として一時的に、ぬるま湯に浸かるのは仕方ないかもしれないが、そうであってもやはりいつかはぬるま湯を脱して進んでいかなければなるまい。
(現代で宿命的に悲惨な人が減ったと書いたが、環境要因で宿命を追う人は少なくなったはずだが、しかしその人を取り巻く人がその人の宿命を作ってしまってるケースがむしろ多い。やはり結局人なのである。人権とか子供の権利とかいう人が、なぜかこの根本的な点を避けるのも面白い。)
(自分の過失で、自分が嫌になったりして堕落する人はただの自己責任^^休憩が済んだら前に進みましょう^^)

あちら側は恐ろしいことに、そう言った堕落した人を狙って、同情を装って近づき焚き付けて怒りを増長・継続させて、あちら側の道に引き込むのである。(更生させるどころか悪の道に引き込むとは。)そして、前回書いた通り、そういう「落ちた人」は社会的というか人間的普通の作用としてなんとか助けようとする力が働くのであるが、これもこともあろうにそれをうまく利用して、善人の善意と金を吸い上げるシステムを構築しているのである。(恐ろしや)

これもいつか書いたが、所謂「集団ストーカー」とか既に具体例があって驚いたのだが、要は現代では賢くなって「悪」さえも「分散運用」されている、ということだろう。
悪が分散されて、一つとしては小さい悪なので、軽い気持ちで乗ってしまうと、その人は良心は痛まないかもしれないが、全体的に見ると物凄い悪事になっているのである。これに対する格言として「加担即悪」を挙げた。

ーーー
全体を通して言えることは、精神性とかそいったレベルで俯瞰できるかどうかということであって、あちら側の行き着くところが利己であって退化であるということを見抜くことであろう。(既述「層理論」)
(テレビとかに出てたり政治家だったり前面でギャーギャー言っている人は完全に上記が分かってないということが窺い知ることでできるのである。これも構造理解の通りであるがそういう輩はあちら側の「先兵隊」つまり駒であるから当然と言えば当然。そして残念ながら自分が駒である自覚もない。)

現代は残念ながらどう見ても精神性の「層」に達してはおらず、その下の「層」で人々はうごめいているわけである。
(100年も誰も気づかない訳がないので、「敢えて野放しにしている」という点も既述の通り。)

あちらに与しても精神史とか歴史とか1000年単位で残るのは悪名であって、決して名声ではない。本気で脳タリンで裸の王様になりたいのだろうか?

ーーー
本ブログで書いたことはほとんどその通りになっており(理論で導いているのでものすごく当たり前なのだが)、おかげさまで、まぁ表には出る類のものではないのだが、「将来を見通す隠れたブログ」としてみなさんに読んで頂いている様である。(私としては別に隠している訳は無く、この通りオープンにブログとして書いているだけであるのだが^^)


2022年5月26日木曜日

過剰反応

何か事象があると当事者でもないのに、ここぞとばかりに騒ぎ立てる人がいる。
子供の時の学校とか、大人でも会社とかなんとなく「そういう人いる」ことは感覚的にわかるだろう。

壮大に言えば、所謂左とはそう言った過剰反応集団であろう。
一体どれくらいあちらの特徴を書いてきたかは分からなが、あちらを色々な切り口で見た時の一つの特徴と言えよう。

ものすごく遠いところにいたのに、何か揉め事があると、一体どれだけ高速移動してきたんだというスピードで割って入ってきて、むしろ騒ぎを大きくする子とか身近にいた方もおられるだろう。
または、自分とは全く無関係のことなのに、ひと刹那でまるで自分こそが当事者の先頭・代表だと言わんばかりに問題を拗らせる人。
そういう人がいるとその組織は常に大変な目に遭うのだが、個人個人としては「関わらんようにしておこう」とか「今度は違うクラス/学校になりますように」とか思いながら過ごしていくしかない。

子供であれば、ただの「困ったちゃん」(大人だったらこれまた本当に「困ったちゃん」^^)で済むのであるが、あろうことかそういう人を焚きつけて徒党を組む輩がいるから仰天なのである。つまりあちら側の方々。(多分本気でリクルートしてるのだろうか?)

ーーー
俯瞰的に見れば、それら困ったちゃんは、おそらく親からも躾とかしてもらってなかったり、そもそも関心さえ持ってもらえてなかったりと、前頭葉が発達せず麻痺・壊死してしまって(これは言い過ぎか)「可哀想」な存在なのである。
本当に恐ろしいもので、そうなってしまうとその人の一生およそ百年間は周りに悪い影響を与え続ける存在になってしまうのである。
そして周りはその人にどうにか社会生活できる道を与え続けなければならなくなるのである。(既述の集団的自浄作用)

ここで考えるべきは「救済」「援助」「更生」とか、少なくともその人で収束させる(終わらせる)ことであることは当然であるが、あろうことかあちら側はこう言った人や個人的恨みとかを逆に焚きつけて徒党を組むのである!

「頭が追いつかない人を焚きつけた」罪とか現行法ではないので余裕とでも思っているのか(でも、この様に悪の道へ先導したものは第七か第八かのかなり重い罪を持ったものが行く地獄に堕ちることになっている。無論地獄も彼らにはなんの恐怖にもならないのだろうが。もちろん地獄が本当にあるかどうかは分からない(無論本当にあるかもしれない)が、要はあちらの人はそれら高等な思考実験ができる集団ではないということ)、そもそもあちらの根本にあるのは、既述の構造理解の通り「利己」であるため、集団とか組織とか「精神性」とかといった「高尚な」概念が生まれるはずはないのである。(しかし「社会」の主義が結果的に最も「非社会」的になるのは皮肉である。あちら側の集団とか福祉とかは全てあちら側の神、つまりトップが全てやってくれるそうな。そして神から与えられた範囲で自分の好きな利己を満たしていけば良いだけというまさにユートピアではないか、素晴らしい)

ーーー
街のチンピラとかならむしろ潔くて世の中と一人で戦ってある種高尚であるが、あちら側はそういう「堕ちた人」達を寄せ集めて焚きつけて今や現代社会の過半を占めることを目標にするまで成長してしまったのである!(良心を逆手に取るのは儲かるものだ。)

「可哀想な人」「マイノリティ」とか人々は優しいものであるから助ける訳であるが、それがまさかあちら側の懐に入っているとは思うまい。100%良心で助けてあげたのに、実は結果的に悪に与してしたとかでは、助けた人の怒りは収まるまい。

現在の構図はこのように、集団的自浄作用で勝手に援助を得られるので、バレない様見えないように巧言令色を持って(私がよくいうメッキですね)私服を肥やし、世界をアホへ陥れようとしている訳である。

何度書いたかは分からないが、これくらい具体的に言えばわかりやすいだろうか?










2022年5月17日火曜日

弁が立つこと

弁が立つのは結構であるが注意が必要ということ。

何かと話題になってるようだが、彼の方は確かに弁は立つかも知れないが、それより高い位置でどうしたいのかという事が、帰納的に考えると「分かってなかった」ということになってくるのであろう。

また、弁が立つのは諸刃の剣的な側面があり、論破してしまったがためにもう自分の発言を撤回できなくなる事がある。

つまり以下のような感じがしてならない。
職業として弁護を引き受けた以上は黒を白にしてでも勝つ的な、またそれが彼らの優秀さを図る度合いとかになってるかも知れないが、確かにそう言った点では能力もあって頭もよいのであろう。
しかし肝心の「何をしたい・どうしたい」という点がない、またはあやふやな状況で世に「出て」しまって、ただ彼の「口」だけが買われて魔手に絡め取られたのではないだろうか。(あちら側のやり口が「工作」と言われる通り、どれだけ巧妙かは既述の通りであるし、説明不要であろう。)
優秀であればあるほど、勝ち続けなければならず、今となってはあの人は完全に自分が正しいと思って行動しているのではないだろうか。
もしくは表には出てこない(出せない)良心が残っているかも知れないが、これもまたあちら側の冷徹で恐ろしいやり方によって、あの人としては墓場まで持っていくしか生きていく術はないのであろう。
こうなっては本当に道化と化す。そしてこうなると選択肢は2つしかなく、生きて道化として生きるか、または…ということ。あな恐ろしや。

もしも第3として、あの人が本気で確信犯的にあちら側に傾倒しているのであれば、それは最初の問いに戻り、ただの頭が追いついてない人だっただけ、ということ^^ ある程度頭が追いつけばもののものの道理は分かる訳であって、流石にそんなことある訳ないのだが。

「わざと失敗し続けて、あちら側から見切りをつけさせれば良いではないか」と思うかも知れないが、これまた最恐に恐ろしいことにそんなことはできる訳はない仕掛けが精巧に出来上がっているのである。(全く悪いことばかりに頭を使う。)(そして加齢とかで本当に能力ダウンして、もう使い物にならないと判断されると、それこそ「冷徹に」捨てられるのである。憐れ!あちらには相互補助とか福祉とか老後とかいった生優しいものはない。構造理解の通りそんな考えが浮かぶはずはないことは既述の通り。)
これこそ、よく言われる通り、あちらに与すると骨の髄までしゃぶられる、という事である。
世の、頭が追いついて、ものの道理がわかるくらいの脳がある人がとるべき行動は、軽い気持ちで気安く近づかない事である。

話は戻るが、上記選択肢2つという話だが、あの人がどっちなのかという点では、第4の可能性として「確かに雄弁だが、おかしなことに政治とか思想になると、いきなり幼児レベルの頭しか持ち合わせてなかった。そして今でもこれだけやっても1つもレベルアップしてない。ある種特殊な人」とかである方が、よほどあの人のためであるし、ある種の諦め・救いがある、と言えるだろう。

ーーー
「力を持つということは責任を伴う」という通り、せっかく物の道理を理解できる頭を持ちながら、利己のために多くの迷える民を悪の道に誘うというのは、既述の通り罪としては大きいのである。
なので最初に書いた通り、「もう自分が正しい」と開き直って、「悪いことはしていないんだ」と頭真っ白状態で生きるしかないのである。ただしその間にも多くの迷える善人を悪の道に誘導している訳であるから、目を瞑ってばかりではおられまい。
むしろ公衆の面前で過去の誤りを認め方向転換し、あちら側からの表面的・裏面的または間接的・直接的(あちら側にはこの「直接」のもの(つまり暴力なのだが)が「公式に」あるのであるから、よほどどうにかしている)な攻撃から速やかに守って貰えば良いとも思う。
しかし他のタレント議員もそうだが「勝たせてもらった人が怖い」と正直に言った人もいる訳で、もはや自分が自分ではなく、加えて何度も繰り返しになってしまうが、あちら側は「抜けれない罠」が巧妙なので(それだけに注力してる感さえあるが。。)、ちょっとやそっとのことでは抜けれないのである。

2022年5月11日水曜日

近傍を変える

数学的にどうやるかわからないがアイデアだけ書いておく。

色々な数学の問題とか証明には、0近傍から考えるのがほとんどだが、
例えばそれを無限近傍でできたとしたらどうなのだろう?

また、無限近傍から0近傍を見たら、そこにも新しい景色があるのでは?
というアイデア。
(お互いに観測し合うイメージ)

無限近傍に限らず、注目ポイント近傍にずらすアイデアである。
(または、敢えて注目ポイントの正反対側に近傍をずらす)

そして、前回書いた「進数を変えて全て構築し直す」と同様に、
無限近傍とか、特定近傍で数学を全て構築し直すと、またそこから
新しい定理とか(少なくとも計算上のツールとか)なんなら
新しい「景色」だけでも収穫があるのではないだろうか?

ーーー
1+1=2 であるが、無限近傍から見れば誤差として0に近似される。
しかし0近傍ではとてつもなく正確に2を弾き出すことができるのである!
数学でも至る所で近似は出てくるが、そこで失われる情報を
他者・他視点であれば正確に補えるよね、ということ。

(プロからしたら「ただのXXX問題・XXX論・XXX分野」とかかも知れないが。。
あと計算機とかシミュレーションの性能問題とかのただの「応用数学」かも知れないが。。
ただし、このアイデアによって性能が格段にアップするなら、それはそれでいいか^^
ゲームとかでもマップの広さに限界があるけど、このアイデアで無限大の広さを持つ
マップも作れる、など。
・フラクタルも無限に拡大できるとか。
・微積分も微細すぎる箇所/大き過ぎる箇所に近傍変換した式を組み入れるとか(微積分に限らないが))

最初に「数学的にどうやるかわからないが」と書いたが、もしもこれができるのであれば
世の中の予想の「XXXはたかだか有限個である」とか「XはYより大きい(小さい)」とかの証明を解く手がかり(可能であれば直接的な証明)になる。

これは、つまり我々が普段使っている1とか2とか、1.1とか1/3とかの数字は完璧に
値の「定まった」ものと捉えがちであるが、無限近傍から見ると近似という
「幅を持った」値でもまた同時にある、と言えるのである!
(この辺がこのアイデアの核心かな。)

別の言い方をすれば0近傍で見る1とか2とかは近くで見てるためはっきり見えるだけ。
無限近傍で見ると、1とか2とかは観測困難なため、無限近傍では1とか2とかは
ある種統計的・確率分布的なボヤッとした「確率領域」の値となる訳である。
(普段我々0近傍の住民が無限近傍の値を近似してしまうことの裏返し。)
上記だけではただの裏返しで終わるのであるが、このボヤッとした観測状態で
各種足し算や掛け算、数々の定理や証明を再観測・再構築していけば、
「XXXはたかだか有限個である」とか「XはYより大きい(小さい)」とかの証明は
自ずから無限近傍サイドからの値の範囲・領域が見えてくるのである。
(0近傍からと無限近傍からの囲い込み漁のようなもの。)
(人類が信じて疑わなかった1とか2とか「定まった」値が、実は幅を持った
「確率的なボヤッとしたもの」であるということは相当のショックになるだろう。
しかしこれもコペルニクス的な発想の転換の類である。)

また、たとえば 1/0 と 2/0 は、(現代数学というかグラフ的な考え方では)どちらも∞(無限)である(無限の定義を間違ってたらすいません。。正確には limn→0 1 n , limn→0 2 n でしょうか。)が、その差があるかないかというと、少なくとも無限になる前は1と2の「差」という情報はある、と言えよう。
これにカオス理論を持ち出せば、カオス理論では出発点が1でも異なると、最終的な結果は大きく異なる訳である。
イメージとしては、無限に近似される前の値が、後々効いてきて無限とは正反対つまりむしろ0に近い方の値になり得る「因子」になるということである。
(または反対に、0近似してたけど、近似して消失した情報が、別要因でものすごい大きい数に「爆発」するイメージ)

数式を解く時に、部分部分で切り出したりして、まずはそこだけで無駄な情報を削ぎ落とす(近似する)というやり方があって正しいのかもしれないが、やはり全体への影響というかその辺をもう少し詳しくパラメータ抽出する必要があるのかもしれない。

この話はもしかするとプロからしたら「局所的↔︎帯域的」な問題の話だけなのかもしれないが、また現実世界としては数学分野では現状のままでいいのかもしれないが、物理学分野ではやはりこの辺の限界で影響が出てしまっている訳である。
これで数学分野がいい訳がなく、黙っている訳にはいかない事態だろう、という話。

ある分野で理論を確立するときに、重要でない・直接関係しない・直接影響を及ぼさない(と思われる)パラメータは近似させてしまって、すっきりした理論を作りがちである。(勿論ある意味当然であり、仕方ないことなのであるが。)
「その分野」だけで考えた場合はそれで良いのだろうが、他分野と「交流」する時に実はそれら削ぎ落としてしまった「情報」に実は意味があるかもしれない、という別の言い方もできる。
超統一理論とかで考えれば、何かしら超微量だが意味のある力が相互作用してるとも言えるし、宇宙際タイヒミュラー理論とかで考えれば、何かしら情報が「通信」されているはずだ、とも言える。

ーーー
宇宙の果てとか量子論の領域とか、果ては超統一理論とか、過去とか未来とか、このアイデアの応用範囲はものすごく広いのである。
(超統一理論とかは正に重力と原子レベルの力が隔たりが大き過ぎて、そこを埋める問題。)
(NHK何とかスペシャルとかで、生物の中とかの話で「そこにはXの世界が広がっているのです」とか聞いたりするが、まさにそれが正解ということ。実は至る所に多数の世界が広がっており、知らず知らずの内に宇宙間の通信をしているのである。)
(小さすぎるから、遠すぎるから分からないと言ってしまえば、そこで終わってしまうのである。しかし現実にどんなに小さくてもそこに存在し、どんなに遠くても存在して成り立っているのであるから、究極的には分からない訳は無いのである。)

ーーー
ついでに書いておくと、近年いよいよ実用段階まできたニューラルネットワークとかAIが出始めたが、そこからは、本当に仮想空間で1から社会を作って1から数学理論も「作らせる」シミュレーションを行うことになっていくだろう。
(果たして同じような理論・定理を作っていくのか?それとも新しい論理体系を築き上げるのか?そもそも10進数ベースになるのかどうか?言語や表記体系は?などなど。。。)
(仮想と現実の世界だが、果たして仮想世界に量子もつれ(エンタングルメント)は持ち込めるのだろうか?)

ーーー
2023.2.11 追記
話を分かりやすくするため、数学上に「不明」を導入するアイデアを考えました!



2022年5月10日火曜日

R対Uについて

RがUに対して踏み切った訳だが、Rの言い分とされる
行動直前の演説については既に専門家から分析が出ているため
詳細は割愛するが、そこで言われている通り、要点はいつの何の話を
持ち出して正当化しようとしているかという事だろう。
それが罷り通るのであれば、以前書いた通り「最初に降り立った人のもの」の
理屈になり、これまでの世界間の合意は何だったのか?という事だろう。
(我が国との問題も見直すと、なるほど合意などあったものではなくて、
ただの「言ったもん勝ち」という退化的人類の叡智で進んでいることがわかる。)

上記までが一般的な話。
ここからはただの希望。それも楽観的な夢物語的な話。
ただし、可能性としてないとは言い切れないので、書くだけ書いておく。

情報ピラミッドと言われる通りR側はR側に有利な情報しか流してないだろうが、
ピラミッドの頂点としては全世界見渡せるわけで、むしろ自由主義の利点も
知っていることだろう。
21世紀の現状では「資本主義」「社会主義」とか非常に固い枠で捉えがちだが、
そう言った垣根を取っ払っても自由主義の良さを、実は彼らもよく知っている。
(よほど頭が弱くなければ)

そして私も論理的にS主義は、あくまで「寄生」する宿主あって初めて成り立つもので、
いざトップになると一体何をしたいのか一気にわからなくなるものだと言って来た訳で
あるが、おそらく実は彼らのトップこそがそれを嫌というほど知っているのではないか、
と思うのである。

もう既に限界は露呈しており、C国とかを見てみるとまんまと利己に盲信し(これも
記述の通りだが「C国しっかり!」と言ったところ)、もはやC国は人の体をなして
ないのをR国は冷たい目で見ているし、利己つまり本能だけに従った動物の集まりになり下がっており(しかもかなりの堕落具合)、果たしてこれが理想なのか、文明の発展のあるべき姿なのかと虚しく思っていることであろう。

しかし「利己」つまり「欲」を中核に据えてしまったため、もう誰にも止められない、
止めようとすれば、しかも内部から声を上げようものなら現代版晒し首になる事は
火を見るより明らかなので(S主義の粛清は恐ろしい)、もう誰も何も言えない、
ということが、いい悪い・右や左・攻撃、防御などの対立を抜きにした、冷静に捉えた
「現状」であろう。

そして「敵を欺くためにはまず味方から」という通り、今回の一件でむしろ
「息の根を止めよう」としているのではないか?ということ。
R国を道連れにして。
(C国は言ってみれば真似っこしてただけで、主義思想を自分の頭で考えてこなかったため
R国がなくなれば勝手に方針転換する。)
婉曲的過ぎるため少し分かりやすく書くと、負け戦と知って始めたのだろうということ。

そして上記は絶対に世界の表には現れない類の内容である。
(真の正義として全汚名を背負って逝かれるつもりだろう。
 そして100年後とかに手記とか何とか見つかって、私の言った通りとなれば
 そこで汚名が晴れると。)

既述の「構造理解」の通り、力学的にも(何よりも人の「感覚」として)S主義が
成り立つ訳がなく、この百年の浪費を思っても、「いくら何でもこりゃダメだな」と
遂に覚醒する人が出て来たのだろう、という話。


2022年4月11日月曜日

進数を変える事でどうなるか

進数を変える事で数学体系はどうなるのだろうか?
表記だけの問題なので何も変わらない?

現在の数学体系は所謂10進数をベースに成り立ってきたが、
体系を一から別の進数で組み立てると、果たして今の
数学体系と同じ理論が作られてきたのだろうか?というポイント。

ABC予想で有名な「宇宙際タイヒミューラ理論(IUT理論)」でいう
所の、「別の数学体系の宇宙」を具体的に構築する、ということ。

2022年1月15日土曜日

「許される前提」と「恨み文化」

 前回の「許される前提」(こちらはこちらでちゃんとまとめないといけないが)と、
「恨み文化」を合わせた話。

既述「恨み文化」の通り、人の怒り・恨みというのは一体最大どれだけ
継続できるのか、という点。(先ずは既述を読んで頂きたい。)
あろうことかそれを自分ごとを離れ、または意図的に離し、子々孫々末代まで
引き継ごうとするということ。(何をしても当初の怒り・恨みは薄まらずに
当初の熱量のまま何百年、何千年と恨み続ける、というのがあちらの言い分)。

「対話のスタンダード」も含まれるが、対話とはうわべだけのコミュニケーション術ではなく、「相互理解」である。
(分かる人は分かるが、まぁ、この歴史を通してこの事だけでも世界的に共有できただけでも成果なのだろうな。浪費甚だしいが。)

「悪いことをした」「確かに悪かった。謝る」「知らん」ではただのへそ曲がり坊やであり、大人というか公式に行うことではあるまい。

世界的・歴史的成果を見ても、広く大きく培ってきたのは「許し」の文化なのであって、リスクアセスメントよろしく、その酷さがもしも「酷さ加減×発生頻度」だとするならば、むしろこちらが被った方がよほど酷い訳であって、それさえも大人らしく目を瞑って詫びたにも関わらずに、その下げた頭を踏み潰すという、この構図。(まだ許しが足りないらしい。)

無論感情論に誘導する意図でもなんでもなく、俯瞰的なことであるが、例えばキリスト教でもその根幹は「許し」であるし、仏教でも「いかにこの世の執着を捨てるか」である。
それをあろうことか組織を以って「恨みの熱量は未来永劫100で減衰しないので、みんなで共有・拡散して、みんなで恨みましょう。=未来永劫執着しましょう。」と誑かすとは。(この時点で「悪い方向に扇動した」という人になるのだが。いいのか悪いのかは知らない。)

(脱線だが、この時点で、あちらには果たして仏教徒は居なかったのだろうか?大陸を経て半島を経てこちらに着てるはずだが。)

今回は「恨文化」について語ったが、所謂左巻きも主語を変えるだけで結局同じような話であることが分かるであろう。(目覚めるの・気付くのが遅すぎ。何度も書いているが、目覚めた人・気付いた人は数多いた・いるはずであるが、言葉ひとつ違うだけで人々は目が眩んでしまうのであろう。それこそ何千年も昔に言われていることであるが、いまだにそれさえも脱却できていないのであるから、哀しいと同時に人とは愛らしいものである。(それで潰れては目も当てられないのだが。。。(あちらもバカ揃いではないので、おそらくこの辺が最終目標なのだろう)))

2022年1月9日日曜日

許される前提

広く世界と古今を見渡せば、現世に染み渡っているのは、
「許される前提」なのだろう。

そしてこれが即、現世の病魔であって、抜け出せてない点ということ。

左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...