2017年12月28日木曜日

足掛け9割

最近びっくりしたのは、いよいよNの全決で入の9割に上ることになるのだが、いざこれまでの擁護側ももはや何も言わないことであろう。
ちゃんと計算して9割くらいと出すか、他で出してるならチラ見して自社で出すか、などなどこれまで茶番の如き大きな大人にも関わらずの議論はどうぞお好きに、なので勝手にちゃんばらでもすればよろしい。(おそらくそういう世代だったのだろう、くらいに総括されるので安心して滅すればよろしい。)

2017年11月3日金曜日

何とか主義とは何ともうまいこと命名したこと。ということ

ついでに書いておくが、初期に書いた
「現代制度ではS主義は早すぎた」
ということ。

つまり現代はM主義とS主義みたいになっているが
そもそもこちらではとうに両立していた。

で、何だか気づいたら世界的にM主義と
S主義の対立になってたと、いうだけ。

今はあまり踏み込まないが、M主義の象徴としての貨幣。
その優位性あまたと。
その状況ではS主義は、というかその中の人々は
かの地の貨幣文化を見て本能的に羨ましがってしまうだろうと。
(何ともはかないことと。当時私は十代だが十分に想像できたことだが。。ふぅ)

突っ走ってしまったのだから仕方がない。
どうぞ落とし前をつけていただければと。

以上は単なる総括。
そうではなくて、むしろSだかMだか知らないが
とうの昔にそれら土壌があって、(ある意味
上記のある種馬鹿げた論理さえも、もちろんのことだが
吸収して)、今現在も存在している
土壌があるということ。

確かに世界メディアに惑わされていると
あたかも人類はよほどの阿呆の寄せ集めでしか
なかったのであろうなと感嘆してしまうのであるが、
それは寧ろ世界メディアを欲しに欲したものが
手に入れたもの。リスク分散とか都合良くは
何とでも言えるが「所有」は突き止められるが
「牛耳り・胴元」は突き止められないと。あなさかしと。
(それらは第三、第四のメディアが出るにつけ
囲い込みに必死であろう。)

S主義とM主義は理論がちと幼すぎた、というのが
今から、及び今後の総括。必然として。
(こちらとしても総括するが、当事者として
双方とも厳粛に総括していただければと。)

「知って語らぬは阿呆」というのがよく聞く現世だが
「知って見て嘆いて忍んで醸す」が流行りそうである。

何度も書いた通り、民間でもであるから、国家間であれば
それ以上に、「とうに」進んだことであろうが
S・M問題は自明であるのでいよいよ次の話となってくる。


2017年11月2日木曜日

遡るが

遡るが、かの地は天命という架空に
踊らされて幾千年を、現代でいう
土台さえ醸成できずに浪費してきたと
自覚さえできなくなってきた、
と捉えるのが先決。

現在の云々カンヌンはこの派生。
この世はこの世からできているので
全世が途端に納得できるとは
こういうことであろう。

(つまり、やれやれなのだが。
さすがにそこまで愚かではないと
思いたい。)

つまり残るのか残らないのか。
残りようがないのに今まで残ったのはなぜか。
総合するにやはり次をどうするかになる。


総合は簡単だが、そうではない。
例えば力による征服と、事大のお隣と
結局巻かれる大陸と、最後に残った
本国と。とほほ。

コントロール以上の力を手に入れればそうなろう。
が先ず。
巻かれてテンプテートされた。
が次。
誇張に聞こえると癪なので何も言わぬ。
がその次と。

フィードバックで学び直しているのが
せいぜい現在と。

これは完全に先手なので、ここで主導権を。
と考えるのは稚出。
既に負けの後まで本性的に動いてるし、
それにとりまく「取り巻き根性」も際立っている。
それらはるかに得意なものたちに任せておけば良い。

こちらは何も正道を。
層理論でいう、次の層を堂々と実行すれば良い。
言い過ぎるとまた、分かりもせぬのにたかり始めるので
困ったちゃんだが、層がわからぬそれらたかりは
分からぬからこそたかるのである。
ドシンドシンと巨人が歩けば、わけのわからぬ
それらはそれにたかってゆく。

もしも利用するならばそうやって誘導すれば
良いということ。
それらからすればただの力の原理だから、
何ら文句もあるまい。
優位を背景に何世代も優越を満喫できたのだから
何ら文句もあるまい。
次に手のひらに乗るということだけ。
幸いかの罪を憎み云々はとうの昔に明文化する
必要さえなく肌身で理解しているので、
別にリベンジ的なことは誰も欲してはいない。
つまりあるがままに次なる手のひらに乗るだけ、
つまりそれが本来あるべき姿であるだけ、
ということだけの話であった。

低層は勘違いしやすいが、誰彼の話ではない。
ちょっと切り口が良くなかった。
また何れ。


2017年10月27日金曜日

次なること

歴史として切り取ってしまえば
経済として発展した彼方と文化で栄えた彼方くらい。


前述の通り、自然現象として文化論として指数関数的に
頭が出てくることになる。

いくら面白くなかったとして歯どめしようとしたとしても
初速を和らげることでしかなかったということ。
むしろそれは彼らの方がよほど知っていたはず。
経済の裏も含めて。

ということは、経済の裏も含めてこれからは必然となる。
だけ。
ということ。
無論賢しい彼らはとうに先手を打っているということ。
※ちなみに開眼バブルは埋まってるので、
先手とはその次の現象のこと。

あえて止揚

根と葉の止揚。
経済と精神の止揚。

洋の東西において土壌が確固と培われてきた面がある。
所謂西洋文化、一方、どこまで集約すれば良いかは
分からないが例えば和の文化。

お互い(無論これ以外にも培われてきた文化は
あるので、それぞれめいめいにだが)、前を
引き継ぎ土台として培ってきた。

片やそれに反するもの、側面がある。
個人であれば良いが徒労となり組織となり、
時として都合の良いものとして誘導もされ
きたのであろう。

人形となって未だに土壌も持ちえずに
踊らされているでくの姿を見るに
悲しいが、逆に誘導としては
これほど扱えるとはおそらく120%くらいの
いやそれ以上の期待を上回る結果となって
いるのであろう。

これは今となっては誰でも知り得ること。

次はそれら「知らされなかったもの」の開眼なのである。
まんまと左よろしく何億だか知らないが
めいめいの小脳に従わされていただけだが、
境界を越えれば相転換するということは
無論アホでもわかるが、それら聡明なる
機関は知りえてなんと未来まで予想して、
そうなることを予見して、大陸の何億だか
知らない良民の開眼を待ち受けている。

そこで生ずるのは、言うなれば「開眼バブル」とでも
いうのであろうか。数年か数十年後かに流行る
大賞でも取れそうである。

しかもそれも既に既得権の手は伸びていて、
これを知るものは既にそのおこぼれ程度ということ。

彼らはいかに主導権を取るかに長けているので、
こちらの極としてむしろ後塵でもなんでもないのだが
(たどり着けばむしろ先陣だが)、いつの間にか
レンズの焦点としての此方の方が彼方より
そうとして相として層として重厚であり
最終的な手のひらに乗るを自ずから知るという
状況が醸成され、「され」というと
おこがましいのでおのずとなる、くらいの
表現にしか現世の言語レベルでは表現しようが
悲しいかなない。
(余談だが、これを突き詰めるて発展させようと
するならば、記述のいかに知覚を直接伝播させるか
という過去ブログを参照。)



直接的に書いたつもりだが抽象的かもしれない。
まあそういうものだ。

あえて具体を言えば、この対象の根源をどこまで
辿れば良いかは知らないが、例えばもったいなさが
わかる我らからすれば、例えば積み上げた家が
崩れる現象を見て空虚を覚えるのである。
多文化に例えてなんというかは知らないが
汗水流して稼いだ金を親や親しい人その人が
目の前でドブに捨てるような感覚であろうか。
「あぁ残念」ではなく、尾てい骨から響いてくる
類の狂気である。
(数多世界を見渡せば優雅に「恨」の文化を
堂々と掲げる領もあるらしい。よほど
狂気も知らぬ恵まれた類の寄せ集めなのであろう。
というとそれらの寄せ集めの見せかけの
狂気を繰り出して、やれやれという
見せくれが繰り広げられるのであろうが。)

当初の通り隣人であり、よろしくお付き合いをする。
(最近見事に隣人であれども突き放す風潮が、
Nは置いといて、ではKやCはと一言で迫られると
一言では言えないが、というのがさすがなのであるが。)

分かってきたのは、彼らはかららの特色を見ればわかる通り
また大陸がやり込められたことを見ればわかる通り
である。(行間はどうぞ。)

つまりそれに対しては
である。
言うまでもない。

敵、味方ではない。
土壌である。

というのはおそらくはるかかなた前に
賢しく悟っておられよう。

いかにこちらのそれを廃せようとしてきたことか。
数多の話。

恐らくこちらの指数関数的を恐れている。
というか恐れている時点で答えの先延ばし。
原子に帰れば根絶やししかない。哀れ。
ということ。

よほどエリートの、ということ。
こういうことは簡単には書かせてもらえまい。
これがごく一般から出るということ。

これまではせいぜい長くて100年だったが、
だだこねが千年とか言い始めないでほしい。
とこう書くとやりだすからキリがない。

これまでもそうだが、本質を知らないで
変に権利を持ってる輩がやるので、
これもうまく、そうさせないための
システムをあらかじめ作ろう。
(記述の「人は如何にして「恥」を
知るか」を参照。)

諦めるのは簡単だが、そうではなかたったという
現実も無論だが、数多声なき声よという
一点において。




2017年9月22日金曜日

もう一点

もう一点言っておくと、ではこういった発言を
野放しにして何も反論できないということは
左巻きとしては無能であるということ。
どうした左よということ。
お得意分野ではなかったのかと。
これがあちらの日を灯すような
弱さだが。だんまりするしかなくなるらしい。

私はあちらは当初からあまりにも
レベルが小さすぎるので
あちらの言うとおり文字起こしすることさえ
億劫なので何も言わないが、
無能の証左を何かの役に立てば挙げておく。
※左右上下は気にしていない。

すり替えであるなら大陸を叩いていても無意味。
いつも言うとおりその後、つまりその背後を
自然に大々的に考える、個人として、が大切である。

もしもあちらがすり替えをすればこちらも
のほほんとすり替えをボトムから、自然にすることが
表面的効果。

ある種あちらへの餌となるので効果的。
何どもは言わないがこれが出ているということは
全ての側も、とうに把握していることなので、
何度も言うが如何にパフォーマンスと実行をするか、
と。
逆手は無論あちらは出せないので、公で決めること。
よく読むということ。

一応補足

一応補足しておくが、主観を抜いてか主観を持ってかは
知らないが亜においてか世界においてか知らないが
自ら誇れる外部のものとして挙げられているにも関わらず
その特定近接隣国からは所謂半日でバシバシやられて
いるとうこと。

どうぞよほど左巻きでも認識の欠如でも良いが
それを目の当たりにして歪みや思惑作用を
感ずればということ。
イメージ操作とはそういうもの。
自然に見えるが、操作者はいかに自然に見えるかを
保たせて思惑をいれるかというプロであるから
自分の竿をいかに深くさせるかということ。

この層で明言された文書はないが、結局、戦後教育と
いうのは、如何に竿を深く掘らせないかということ。
ギクという音が聞こえるが。
簡単になびく浮動者を如何に作るかということ。
左巻きはそればかりに巧みになったのでよしよしと
活用しよう。

言うまでもないが出るものとでないものとあって、
ここに出るということは大したことがないのである。

つまりこれがまずは前提知識。左巻きはお得意の
お囲いがあるのでコマはこれを読むことはない。
(読める状況を作らないというのが正解。)

まずは左右が読むところにこれを自然な随筆として
出したら面白かろう。


なるほど忍びについて

なるほど彼らの本質の逆手を取って
イ問題は「左の頬を叩かれたら右の頬を差し出す」を
逸話ではなく現実に実践した最大規模の事象であると
認識されれば自ずと終わる。
つまり彼らは自ら火に油を注いでいるのであった。

問題への対処として発作的対抗や本能的恨み型が
あろうが、それを無論内包しての、相手を想った上での
おそらく高等生物であれば備えるぐらいのレベルだけの話だが
「不満があるようだからまずは耳を貸そう」という
耐え忍ぶ姿勢があるのだが、この問題を生じている輩は
もちろん論外だが、層理論を持って解釈しようと
しはじめた方々も重く認識しなければならないことである。

分かると簡単だが、分かったときに感じる、幾千年を
浪費したということに愕然とするという気づきが
大切である。


2017年9月20日水曜日

総評途中

総評の途中としては、今や大きな一面である
経済から見れば伸びた糸を引き戻してる
引き戻さざるをえない大陸を見ていると
Sの「Sを超えることはできない」という
誰でもわかる理論が本当であるということが
分かる。

科学かは知らないが経済学の発展とは
逆方向に、より単純に先祖返りせざるをえない
ありさまをしているのか、敢えて隠れ蓑として
演出しているのか。(を必死で思考中。)

ここまでは、発端が操り人形であるので
大筋は読めるから、小さすぎる問題なので
良いが、その次をどうするかということ。

方やいかに暴れさせるか、方やいかに
うどの大木とさせるか。

主柱は無論ことごとくくだった腹のように
なく、なさせられたのかは知らないが
自ら喜んで裸の王であることに甘んじておる。

別に応援でもなく、何学かは知らないが
そういう宿命であったと時間論から悲しいかな
結論づけられてしまうのであろう。
もしもこれを読んで気概を蓄えたとしても
いざどうぞ大陸を腹下りから改善しようとしても
今それを成し得るのは所謂ヘッドだが、
いつも省略が激しくて申し訳ないが
つまり如何に文字を読めるかということになるのである。
つまり如何にバカでいさせるかということになる。

一旦、総評の途中経過として。

どれくらいバカでいさせるか、それを競わせる。
とうに千年後にはありえないが、現状ではまかり通っているので
ある。問題にさえなっていない。知覚さえできていない。
虐待?差別?障害者?
言葉がないからまずは言葉を生成することから始まる。
これを発端として記しておく。

おそらく知覚できた瞬間に現世の北や大陸は終わるのだが。
文字が読めるので。

かなり前の記述に戻るが、経済を主に幸福を築いている
今の社会においては、よほど勧誘に気をつけなればならない。
大きな穴は私が言うまでもなく成功者をいくらでも勧誘できる
ことである。
せっかくの正しい方向も成功の瞬間に全く正反対に加担し
してきた、それもその本音とは正反対方向に、それさえも
知らずに加担者になってしまったということごと。
幸いこれを読んで思い当たってくれればそれで良い。

ボトムアップでいうと、これが哀しいかな限界である。
この規制、枠組みを作ることがまずは先決である。
その発端をここに記す。


2017年9月17日日曜日

流れし身として

流れし身として 天下り
地に落ち 木に起き わたに散り
ふねのり うつつ たわむれて
あまさとかえり またやそかえる

(解説)
雨、というか水に視点を持った詩。
循環から見たら、(つまり本質はその
「機構」かもしれないが、)
刹那も限りなく、または数千年も
たわいもないことなのかもしれない。

ーーーーーーーー
これの人体編や植物編や時空編や
個体編やあらゆる編が作れるのだが
これを発端にしたとしたらそれを
明記さえしてくれていれば良い。
(OSS(オープンソース)がもやは
DS(デファクトスタンダード)と
なっているのだから帰結として
必然的に導かれるが、念のため
哀しきかな明記する必要も
覚えずと言ったところ。
別の執筆で権利については明言しているが
何故どれだけ言っても怖い時代なので。
(これは権利に詳しい大手が早々に
解決すべき問題提起としてだが。
大手としては人類の権利問題回答という名目。
実木は利益と。)

詩を入れるとこのブログもわけがわからなくなるので
別ブログに移行予定。


一応起点

何でもありだから、例えば死亡も乗り越えて
奇跡を持って、これまでたかだか数世代の
人であったのを跳躍しようとしているのではなかろうか。

という戯言。
それこそ戯言、メルヘンの世界に突入するが、
かのあのあれであればやりかねないということで
一応起点として。拠り所として。発端として残しておく。

さらに一応書いておくと着想したのは、それが起きてから
すぐであった。その時書いておくことと同一としておく。

---
これが何についてか忘れないように書いておくが、
つまり息子?(行き着くところ、むしろ発端さえも
気にしてないのかもしれないが)が見るからに
いいように綺麗に手と足の糸を引かれているから
、ということ。備忘録。
さらに書いておくと、これはかなりどうでも良い話。
脱線の一つとして読んでおいてくれれば良い。

2017年9月2日土曜日

安全

よく取り上げられる、自動走行車が
最悪の二つの選択をせざるを得ない話しがあるが、自動走行を実現する途上で、いざ衝突してしまったときの安全策ももちろん発展するのである。論理的、倫理的には面白いが本当の人命を預かる開発者は石を積むように安全を必死に考えているのである。機械安全や機能安全というトピックでまずは勉強した上でぜひ論理と現実を橋渡ししてくれればと思う。

一応最初に書いた倫理的、論理的問題は、安全の一応世界標準が機械安全や機能安全としてIECやISOで共通認識されているので、そこで言うようにリスクは酷さ×発生確率であるので、開発者はそれに従ってあらゆるリスクを洗い出して、命題の問題も対策した上で、誰もが納得する数値を根拠に選択することになる。

つまり最初の命題にはアセスメントがまずは必要なのである。無論それには一生を費やすような専門知識が必要なのである、あえてそれを除外した、論理的、倫理的問題としたところに核心がある。といったところ。

2017年8月23日水曜日

アンチ生成法

確かに文脈からすれば、如何にアンチを生成するかという、裏返しになっているので、ここにアンチ生成法を発表しておく。

所謂左巻きや、それら、あやかることに心血を注ぎ、それさえも自認できないものや、その類のことごとくの原始的発想を克明でき、力学として解明するので根っこから根絶やしできることが、敢えて述べる発明であろうか。よく読んで実用して欲しい。

2017年8月17日木曜日

公的人格が備えるべきレベル

個人として理解が及ばないものや文明が遅れてるものがあることはしかたなく、それらを内包していかなければならないが、それが組織や「公」的な人格を持つ以上は野放しにはできなくなってくる。

今回のK騒動もそうだが、世界に冠たるあちらでさえも、唖然とするような理解の低さの組織を抱えてることにやれやれと思う。

最初に書いたように公的人格を有する以上は、人類の培った最低限の理解レベルや文明レベルは超えてなければならない。
おそらくこの発想が発端となる。
これを丁寧にシステム化していけば、かの国のそういう組織も、もはや恥ずかし過ぎていられなくなろうし、例えば文明のだだこね未熟者的なKやCも自らの公的存在自体の恥ずかしさによって、自ら滅することになろう。

見ても見ぬふりや、知らないふりを押し通してだだをこねるのは、個人であれば好きなだけやってればよかろうが、公的存在としては看過できないシステムを作る。
このシステムはそれらだだコネ組織は自ら自覚して解体に導くため後腐れが生じない点が良い。
おそらくさんざん外圧でどうこうしようとしたものであれば、そこの頭のいい人たちであれば、とうにこういう方向に進めていくしかないと気付いているだろうが。

こうなるように、また、今後はこの方向で進むことを念頭に物事や状勢を見ておくと納得いくであろう。

2017年7月30日日曜日

下座行せしめし頭を踏むがごとき

時間の使い方と原因の辿り方によるが、
おそらくかなりのうぬぼれから断絶を
試みようとしたことが先のこのだったのだろう。
層を読むとこれくらいまで分かる。

確かに恐るべし。
恐るべき無知というかうぬぼれで実行したものだと。
例えるならよほどの酔っ払いが、しかも悪いことに
決定権を持っててはずみでつまり配下の民衆も
変に政治が発展して民衆も土も知らずに
祭りを執り行えるくらいの隙間が決めたような、
後世が総合して判ずれば愚かすぎるという
判断をみすみす実行しえたリーダー論の未発達さ、
それを支える土台さ加減になんというべきか、
こんな薄氷の上のこの身が食い繋がっていたのかと
驚愕するではあるまいか。
確かに十分な戒めに必然としてなるだろうな。

ものでしか考えないからそうなるのである。
あさましき「層」を理解しえないものたちの
堂々巡りの層をごちゃ混ぜにした、巧言令色で
しかない。噂を信じちゃいけないという
ことわざまであるのに何千年前の巧言令色を
飽きもせずに振り回すのか。まさに左的な
やり口である。いくら時代遅れと揶揄しても
彼らは何も感じない皮の厚さを誇っている。
核が字を知ることから変化するのであった。

根付き具合

確かに大陸やお隣では巨木のように根付いて、
核の思惑通りとなったのだろうが、
ここでは入りはしたがつまり無論偏るものは
あるのだろうが大陸のようには根付かず
泥沼のような状態でおそらく手をこまねいている
のだろう。

ポリシーの上限が決まっているので終焉は
すでに決まっているのだが、さすがの
潔さの悪さで1年ぐらいを100年ぐらいに
しようとしているだけでしかない。
これを浪費と呼ぶ。

こちらとしては最悪の毒を盛られて中和している
ところといったところ。
最大の毒を与えてくれて、ありがとうと言ったことに
早くて数2の数階乗ぐらいのあたりでようやく
分かるくらいであろう。
分かる、分かってる、分かってたが残す手段もなく、
数多声なき声を思うのみ。

現在の事象

なお、現在の事象というか大陸とか
うちの左とかはただの派生なので、
いくらそれらに直接訴えても
話さえ通じないのである。

いうなればそれらの「核」が文字を読んで
気づくまでその単なる手足が変わるはずも
なかろうということだけである。

それもまたそれらの「強固な」特質だろう。
手足など末端はむしろ阿呆の方が都合が良い。
加担された方々を既述の通り悲しむのだが、
であるから、むしろ気づかずに滅っされた方が
幸いなのである。
下手に加担したことのアホさ加減に気付こうことなら
例えばお隣の退役者の末路みたいになるのである。



それらのこのトップありきの考えは強力だが、
何かどこかと通ずるところがあることは
ここに書くまでもなく分かるものである。


2017年7月26日水曜日

字が読めることに帰着する

最近の問題について。具体的には年月日などから辿れば
おおよそ分かろう。

ニュースは見るまでもないし、この手のことはあちらの
いつもの手段なので、もはや興味さえないが、
よって何も言う権利もないのだが、一応ということで。

おそらくあちら陣営は隅つつき作戦と波状攻撃作戦で
頑張っているのだろう。

前回書いた通り、あちらは、こちらあってでしか
存在しえないものであり、如何に相手を叩くかということを
実態は考えうる「汚」をさも「清」にやるかと
日々努力しているだけである。
それがあちらの確固たる信念、理念に合致しているのだから
それを遂行することで褒め称えられるのであるから、
楽なものであろう。
いじめの心理をちょっとでも考えたことがある人であれば
いじめの麻薬的享楽は「味わってしまえば」的なものである。
それが推奨され、しかも実績を両手をあげて褒め称えて
くれるとあればこれ以上の享楽はあるまい。


話を転じて、大陸は自ずから推し進めた偽りの行為で自滅する。
牛耳られたメディアは決して報じない。
なぜ報じないかと思うこともあったが、むしろその方が
よく傷口が広がって、下手に気づいて変な軟着陸を画策される
よりはマシだと思い始めた。

我らもあちらの手法を真似てまったく気づかぬふりをして、
どうぞ自ずから裸の王様のまま華麗なるダイブをしていただければ
と思う。

これを併せると、無論当事者は苦難であるが、全体としては
自滅を見届けられれば良い。
無論現実にはそこまで明らかな自滅を見られることは
一生あってもないくらいだろう。
実際には「いい大人が本気を持ってだだこね、それにも増して
事もあろうに徒労を組んでだだこねをしてはいけない」という
数千年前の躾を身を以て体感して、改心してくれる、
ということぐらいになるだろう。


今までを見ると、むしろ申し訳なくさえ思えてくる。
というのは、たったこれだけで論破できてしまうからである。
それだけのためだけに、どれだけの大の大人のみっともない
だだこねを見ざるをえなかったことか。

何度書いてもわからないようなので、はるかに遡るが
「字が読めればそれで良い」ということに帰着する。
ふぅ。



簡単な謀略

一応、簡単な謀略を書いておく。

それは現実と異なる事象を作り、それを継続し続けること。
無論人では限界があるため近年のツールが役立つ。

最大レベルではここで言うまでもなく膨大なパラレルワールドが作成されてるが、それを最低でも知っていることと知らないことで差が出るということ。基本過ぎるため、いまさら誰が焦るような内容でもないが。

2017年7月22日土曜日

一応、左右の構造

前の投稿の前提の話だが、
この論理構造は別に数学的に証明しなくても
自明と思っているが、世にはおそらく
証明がないと分からない方々がいるかもしれないので
一応。

つまり所謂左は最大解を一時的に求められるが、
それはその時点の世の最大であるということ。
以上であるが、追加すると最大とはどうやって
レベルアップしているかということ。

無論右だけでは限界があるので左がいてくれている
ことは、ありがたいのである。

かなり前に既述だが、今の貨幣社会でいう極が
今でいう左の対局ということ。
貨幣で左右が云々できて滅せれるくらいであれば
幸いなのであろう。

その時書いた通り、向けるべきはその後の
話なのであるが、前回書いたわかった方々であるが。

ーーーー
ということで、左は右を一時的には越せるが
右よりは越せないということを数学的に証明
しておくことにする。(とうにされてると思った。)


指標:思考停止度数

結果から出現する尺度だろうが、施政者側からすれば
いかに楽に管理するかを求めて辿り着いた結論で、
それはたとえ如何に阿保と将来言われようと
今後もあらゆる手段や形態を変えて生き残り続け
発展し続けるものである。

それを知ること、もう言わなくても
重々承知してくれたことであろう。

で、今回の結果的尺度なのだが、
如何に人民の思考を停止させるか、
ということ。

ぱっと見で、簡単に言えば例えば
左的主義、強くなれば宗教。
「いるだけで良い」
「信じるだけで良い」
それで思考は止まる。
施政者側からすればアウフヘーベンを抑止する。

そこに発展はあるか?アウフヘーベンを抑止しているので
起こらない、または本来のスピードで起こることを
遅延させている。ということ。

既述の通り、深ければ深いほど、それは
例えるならはびこった神経のようなものである。
それを一気に引き抜いてしまっては、生命を
司る母体は滅んでしまう。ということ。

つまりちょっとづつ、現実に照らせば、それらに
悟られないようにヨシヨシしていくしかない。
ということ。

現状で最も停止してないものとして役割を果たして
いかなければならないが、幸い現状の極であるだけで
あるので常に気を緩めないことが肝要であろう。

憶測というか、理解さえすれば当然行き着く結果でしか
ないのだが、本当の聖職者であれば、とうにこれに
気づいていて、この流れを、というかこの流れしか
ないことは十分承知のはずだ。
そして変えようとしている、というか変えるしかないのだが、
はびこった神経がちょっとずつでも変わっていく
大きな流れの一部でいて欲しいと願う。

現世でならずともだが、せいぜい数世代しかのものよりは
ましであろう。




2017年7月9日日曜日

経過

経過として、左的弾丸を肉に埋めて発展しうるものとして
使用されたということがいよいよわかった。

いうが言わまいがそうなのだ。だろう。

何故言挙げをわが国だけするのか、との問いかけの
裏返しは自明。
あえて言わないが、しゃべる口さえ、歴史的にということだが
持ち得ないからであろう。その悲しさを負わせてくれる、
いかにも西洋的ではなかろうか。

と、言ってしまうと終わるので誰も言わないのである。

現場で実に面してるもの、裏に回ってインテを発揮しうるもの、
実に全歴史、老若男女、優劣に関わらずに思いを馳せ得た
事故の悲しさであろう。

無論臆面にも出さないが。

2017年6月4日日曜日

左右

確かに、左も自然に取り込めば良い。
早くも8割は、向こうの隠れた意図を知らずとも
自然に取り込んでるといったところか。

ただし油断は禁物と。

2017年6月1日木曜日

範囲

一応、範囲は、無論、謀略に携わるものは寧ろロボ的な方が良いので別に崇高な理想は寧ろ考えるすきさえ無いと思うので対象外。
より俯瞰できて探求を止めぬもの。つまり現状の利益構造も数世代かどうか解明するもの。前から一緒であるが討論がレベルがごっちゃになって、本質の議論をした時と比べると3割くらいにしかならないのではないか?

見極めはするが

見極めはするが、世に出す政策としては某弱無人なので成り立たない。金に物を言わせるはるか遅れた思想である。恐らく数千年前の結論も同じ。何も目新しくない。それをあたかも自ら作ったかのように振る舞うと即ちおう様である。

色んな次元を飛ぶが、それを恥ずかしずにいれるものを生み出せる世代なり環境なりの問題に行き着くのだろう。とほほ、ふぅ。

冷やす

数十、数百年スパンだと、和の寛容を歴史に刻んだことであろう。先の訪問について今更ながら。

いつも言うように、これまでの賢は賢を持って追い抜こうとしてきたが、というか未知の汁を吸おうとしたが、単純に言えばそれらにすれば屈服、それを潔く思わぬからせいぜい「理解」ぐらいに取り繕って影で汗を拭く構造。こちらは別にのっけから許容してるのでどこふくかぜ。手のひら具合が現実の事象で、物理現象で見られる世代に生まれてきた事もまた有り難し。

彼らの教義。こちらの教義。
おエラは教義の遷移は時間がかかることを見抜いている。
経済の裏パラメータも伝播速度。
ヒントが多すぎると波が立つのでこれくらいまでと。

大切な要素

逆をつくと、大切な要素は、
前に書いたとおり、あぁこりゃもう手の付けようがない、救いようがないと持っていくことである。そうすれば何かと簡単に「できる」からである。
それを見据えて隣人のことを話したが、無論それらははるかに驚愕していよう。

つまり目先はその後の隣人である。恐らくカオスからの復興もそれなりのシミュレーションもできている。
先ずはここまで知ることから始まろう。

敢えて総括すればいまいま時点では、
左右とも半島はどちらもどうしようもないあたかも阿呆のような「情勢」になっているということ。うまく仕立てたものだ。もう一度言うがこうなるといろいろと簡単になる。例えば踏んでもいいとか。といえば十分。そういうもの。

換言すれば、かなしいかなそれらは置換能力しか、その最大を追うだけの能力しかなかったたといずれ幾世後かに総括されよう。ある意味それで良いし、これまでの既述も結局本質まで理解できてなかった、理解まで追いつかない脳しか持ち合わせなかったということで記念碑になってちょうどよいかもしれない。ふぅ。なんどことあげすればよいのだろう、

熟慮

なるほど種のうえかたはうまい。しかし主が己である時点でせいぜい数世代のスパンである。あまり言うと覚醒するから言わないが、ようやく経済、政治、世界、意識のレベルで傍観、それができないものが多数の頃は鳥瞰ということで甘いなんかをなんかできたわけだが、できるというか、彼らの最も恐れる、一般に普及し始めたと言うことであろう。無論次の手はあるので浮かれず先の先の先のルールに食い込むしかない。
これは悲しいかな、自ら舞い込んでいるのである。
今日は以上。熟慮のことよろしく。

2017年4月6日木曜日

達観でも何でもない

達観でも何でもないが
多様なレベルに言えるが
達したレベルが
せいぜい数世代の最大戦略で
しかない。

ということ。

ということの哀しさ。


これでは達観の品位が
削がれて甚だしい。

貶められたということは
今風にいうとオーバーヒートが
されたということ。
乗じて乗ると。
それに知らず乗ること。
現に生じては知覚は難しいというのは
何度言われてきたことか。

醸成があるのであろう。
彼ら哀しき宿命はいざ知らず、
それを許容する、スーパー忘却機構を
発動する許容体。

いろいろ言われるが
思い・想い、感動をそのまま
伝えること。
戯言ではなく、既述の感覚伝達の
機構の実現。
戯言機構はこれで一掃されるのであるが。

いかに掘るか、いかに遡るか。
物は言いよう。
これまで貯めた極言を乱発してるが
これでは効用という意味では不発。

あくまで自分のメモとして。

整理したら、あるいは世のテリヘンテは
読み取って気付かれてしまうかもしれないが
土台となる。


2017年3月26日日曜日

確か

確かに巡り巡ってこれほど明確に
仕立て上げられたものは簡単である。
深さを知ること。
今はすべて説明する時間がないのでいずれしよう。

2017年1月8日日曜日

久しぶりに総括

久しぶりに時間ができたので再度。

時間のできない人も多いだろうから簡潔に。

例えば100年、500年、千年単位で見て結論は
日本とアメリカが対戦したということ。
後追いや何やらたくさんあるが「歴史」の「研究」から
「吟味」されうる、するに値することとして。

一生懸命左がワーワーしてるがそれはもはや
「よしよし」であることは自明のはずなのだが。
それが、やめないことが片や不思議の感があったが、
片や、なるほど存在してくれてありがたいものだと
千年後に分かった。

というくらいの皮肉の味をほんのわずかでも知覚してくれれば
何ら問題もないのに。とほほということで今回は
時間的に締め切る。

時間があればこれを深く論拠するのだが。
この大道を見て「なるほど」と思えれば立派である。

ーーーーー
「無神」にしたというが「信」の土台さえ築けなかったくらい
にか解釈されないのだろう。
(崇高とは程遠く)

ーーーーー
なかなか時間がないが地道に土地を耕そう。

左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...