2015年12月31日木曜日

伝達

例えばため息-sigh-は何らかの緊張状態が開放されることで
でるものである(心配が好転したのであれば安堵のため息、
心配が継続、悪転したのであれば失望のため息、など)が、
現在の人体の構成から生じる現象である。

いろいろな話が複合されてしまうが、内部反応(感情など)が
生理的に発露する機構があり、コミュニケーションの形成に
おいて他者理解が必要不可欠であるので、それら生理的発露を
読み解く(ほぼ無意識にだが)機構があるのである。

先ずは内部反応(感情)と外部発露(生理的な反応、発露)の
関係を解き明かす学問の門戸を開いておこう。
これは人体に限定しない。他の動物でも生じるか、その場合
どのように発現されるか、それらを煎じ詰めて内部ー外部の
関係性を解き明かすことが先ずは目標となる。
これができれば最適な内部発露機構ができるのであって、
よって例えば将来的なロボットの自然コミュニケーションの
土台足りえるのである。

次に、表現性の発展について。
表現性は発達とともに豊かになってきたであろうし、今後も
いろいろな表現方法が発展するだろう。
伝達の視点から見ると、それはより繊細な内部を表現し
その繊細を受領しうるように発展しているか?という
命題を突きつけることができる。
表情やしぐさを読み取る機構はもはや本能的にできる
くらいまで発達しているが、では、ため息の強弱によって
その人が本当に頭髪が白髪化してしまうぐらいの絶望
なのか、そうではなく少しもの希望を持った絶望なのか
を読み解くことは可能になってくるのだろうか?

文・芸・音楽・メディアもしかり。
「これこれこうでこうだった!」という「感動」を伝える
のが一つの目的だと思っているが、「こうだった!」の
「こう」そのもの、本人が味わった感動をありありと
まざまざと表現しえているだろうか?またしうるだろうか?

現代で現代に発信しているものは当然受ける側も同一基準の
受領レベルなので前提条件を端折れるのである。
では、現代で例えばローマのコロッセウムに行った12才の
少年が体験した時の、彼の前提条件、彼のまざまざと目にした
時の感情を寸分違わずに体得できるだろうか?

(これが以前に書いたことに結びつくのだが、「感情を
そっくりそのまま伝える機構」というアイデアになる。)

(すこし脱線するが、和は原初を探求している。
能、歌舞伎、茶、武士、…。一瞬の刹那を煎じ詰める。)

「感情をそっくりそのまま伝える機構」を直接伝達、
生理現象、文、芸、音楽、メディアでの伝え方を間接伝達と
すれば、それらはトップダウン・ボトムアップの関係で
統一されよう。

究極はその美しい伝達方法がいずれ確立されようから
よいのであるが、やはりその伝達手段を用いて何を伝えるか
が(現代の)本質である。
ここからが層理論の話になるのだが、別に上記の伝達方法が
最終決着を迎えずとも、層理論は層理論でその時々の最善の
伝達方法で伝播するので別の話ではあるのだが。

今回は、層理論の土台となる、コミュニケーションの
土台という観点から書いてみた。

(生体内部反応生理現象学については門戸を開くと書いたが
今回書いたその他の新しい学問についても門戸は開いている。
せちがないので敢えて追記しておこう。アイデアは全てここに
帰着しますのでご注意ください。)

2015年12月27日日曜日

民意はメディアにあらず2

もはやというか前からだが民意はメディアには
ないということについて追記。

今はメディア側は有利フィルターを掛けているが、
それもすぐに通用しなくなるということ。

以前述べた「失言検知システム」を使えば
原稿時点で「公」のミスはなくなる。
(逆に言えばいかに現在の「上げ足取り」が
恥辱として認識されよう。安心して欲しいのは
あくまで後世的にであるから、現世を侮辱した
わけではないことである。)
カッコ内で書いたような注意書きも全て
注釈として発信されるので、もはや会見の
前提集もできるだろう。
つまり伝えたい側の意思が伝える側に
ようやっと伝わるシステムである。
(如何に哀しいことかをこれまでの
メディアは目や耳やあらゆる五感は
染まるのではなかろうか。)

(では何故上げ足取りに走っていたかは
足は地についていたかどうかとなる。所属精神、
ものによっては組織に属していなかったか。
地と思っていたのはそれら仮土壌ではなかったか
ということ。(その知覚を最も恐れているのは
何かは別ブログ参照。(もしよければだが。
温床のままかどうか。))

敢えて厳しく言えば公私がごっちゃになっている
のである。
公−公
公−私
私−公
私−私
ごっちゃといったが4パターンしかない。
ごっちゃが生じるのは層理論が理解できてないからである。
層理論がないとお互い訳がわからないまま
一方がまんまと引き出して自陣営の有利フィルターが
掛かったものを引き出してしめしめとなり
正においしい揚げを獲得できるチャンスが
あるのである。(からビジネスが生じる。)

もしも賢明であるなら(大半がそうである)、
それはうつつと認識し、浮足出すは正に
氷面の石であると、遅れずに思って欲しい。
(別に救済とは言わないが)

地 - ground

敢えて厳しく言えば、なぜ足が地についてない
輩を野放しにするかに尽きる。

結論から言うが、なぜこれが安全かというと
しょっぴかれる足は同じなのであるからである。
つまり内部で一部でも分かれば、全体に波及する
からである。

今はうまく定義できないからモヤモヤしているだろう。
それは例えば「本当は奴は足が地にも付いてないのに
ワッショイで握らされて踊らされている」という
輩をそれでもその実際の足を上げることはできない
などであろうか。

その切り口では当然切れまい。
層理論の破壊力は、最初に述べた足が地についているか
踊り人形かをまずは切り分けられることができることであろう。
(ここまで具体化しないといけないことが情けないが。)

取り敢えず政治については以上。
後はこの意味するところを汲みしていただける方が
現れようからそれを待とう。
(もし意味が異なれば必然として再来しよう。)



2015年12月17日木曜日

過去を直視しうる文化はいままであっただろうか。少なくとも1つは実在する。

未だまばらであるが、利己に走る個を見るにつけ
道徳的悲壮感は醸成されてきつつあろう。

どうにもならないシステムであった。
しかしそれを排出する組織や仕組みももはや
恥ずかしいと思うべき時なのであろう。

いずれもやはりその過去を直視しうる
システムはなかった。
一つだけあるとすれば、やはりその根流を
見なければならない流れになっていることは
必然であろう。

実在の具現化として、対話のスタンダードと
いう低層の確立から始まり、層理論という
本質の力学的体系化に及ぶまで道のりは
遥かに長いが、一歩ずつ進んでいこう。

2015年12月10日木曜日

層と相

層理論の活用によって層のボトムアップおよび
次の層への転換がなされるのであるが、
おそらくこれは副産物であろうか。

「なぜあの人は修羅の相をいく」とか
「あの人の人相は温かい」とかいう意味の
相とは、先達が幾世も伝承して見通してきた
ものであるが、層理論は少しくもそれについての
力学的根拠になるのではないだろうか。

層理論の層によって一部であるが三世は繋がるのである。
空想ではなく、式として力学として明示できるのであり、
いつでも歯車として機能できるのである。

「クローン技術」や「無神論」など「神の領域」が
叫ばれるが、むしろこれこそが精神的土台の大転換と
しても、法律や規則の新しい「治世システム」の端緒しても、
「機能」として回転する仕組みを「発見」してしまった
以上は致し方あるまい。(科学は発見である)

(先人は何世代も通さないと分からない相を分かってしまう
知恵があったことがすばらしい。
今この刹那に「百年後はどうなるだろう、千年後はどうなるだろう」
と思うのと全く同じ状態で、数百年前、数千年前に
「百年後はどうなるだろう、千年後はどうなるだろう」
と思っていた人がいた。
また、先ほど刹那に思ったわけだから実際に
百年後、千年後に「思われた」瞬間が到来する。

神秘的な話をするわけではない。ただの事実として。

明確な記録もなく(と断言するのも失礼だが)、伝承で
人の相を判ずる知恵を培ってきた。
そこにあるのは層理論で言うところの層である。
どこまで見通しているか、どれほど短絡的であるか。
たった数千年前の基準で線引がされるので、今、現に
あたかも元首のような立場でフォーラムで嬉しがって
いるようなものは大いに考え入るべきであろう。

問題は層理論が確立した後の世界であることが
いやが上にも明確になったであろう。
問題は「感覚・意識の伝搬」である。
(既述「如何に感性そのものをありのままの
感動のまま伝えるか」参照)
)

ひとばしら

書くまでもないが、人柱もいいところだろう。

(P.S.2016.1.9
ブログを書いた時は当然「これ」といえば「あれ」と
分かるがいざ読み返すと当の本人も分からなくなるのであるから
読む側は更に分かりようがないでしょうからその時時を
記していこうと思う。
この時は沖縄の○○知事(公人なのでこんな個人ブログで
記しても良いのだろうだろうが。)がわざわざ国連まで
懐を温めて嬉しそうに通われ遊ばれた時分のことを
かきしたためました。
あの方はむしろ単純で「どのような手段を用いても…」と
言って受かったので、あらゆる手段を尽くせば「約束」は
達成できるのであります。その猪突猛進なところは見るが
ごときですね。ただ心配なのは他の国の元首と同様に
いざ開眼して自分の後ろ姿をどうか見ないようにして
余生を過ごしていただきたということだけでありましょう。
走った以上は自己責任で救済していただければと。
これではせっかくの救済の手も無駄に朽ち果ててしまうという
事実を目の当たりにして、それを将来横目で見るという
覚悟を持って「約束」を果たされようとするのですから
だれも後は追いませんでしょう。
最後になりますが、それでもなお、そういった放棄者さえも
救うのが、救う道があるのです、たぶん知らないでしょうが。
まずはそういった物理的救いに、ハンモックみたいに網が
背中に当たることを感じれば発端となりましょう。
「ハンモックの網は己のものだ」というならそれでよいでしょう。
これ以上は子供すぎるので述べませんが、いつか
世を去る前まで、直前で辞世の句を読んだ後でも構いませんので
ふと呵責に一寸でも触れることができれば本望です。
(無論触れずとも、それさえも受けますので触れずじまいでも
本望です。)
ここからは、いつもの「如何にして忘却するか」の通りなので
詳述しないが、これさえもそもそも読まない、読んでもスーパー忘却機構で
即刻忘却する、反論しようともこちらが正なので反論しようがないと
いう道順をたどるのであった。いったいどれだけの幸福者を排出すれば
よいのだろうか。
耳だけ切っただけと思われてるかもしれないが、己が身を切ったからには
苦しむのは自分との覚悟を持ってのことであろうから、知事が終わった後に
それら終生の苦しみはいざ自ずで受けおおせるのであろう。
我々小人にはその後世にはただ「約束」しか見えないが、
ここまで人形のごとく踊った知事にはよほどの「信念」があったことで
あろう。それさえあれば後生も自のしでかしたことと、自分で
切った耳とで、さも暖かな「約束」のとおり安泰されるであろう。
最初に述べたように最後であるが。
以上がこの時の状況である。つまり過去のことなので記録としてだけ
残す。

さらに付け加えるならば挑発には乗らないようにしたほうが良い。
応戦も不要である。(Kさん発言を騒ぎ立てようと踊っているが
Kさんは応戦していない。さすが分かっていらっしゃる。
彼らの手法は巧みに揚げ足を取るというすばらしい戦法である。
なんというめくらましか!しかも実働部隊は結局金銭と名言は
しないが所謂「約束」戦法で「お買い上げ」してるだけなので
あるが、善良心のある彼岸は非難さえしないのである。
(立場が違ったら非難の雨あられ。どれだけ救済されたいのであろうか。
尻拭きまでしますからどうぞご心配なくそのすばらしい約束に
駆け上っていってくだされ。)
ただ「約束」を手に入れた方々の虚しさを救いたい。
利己本願で現世を過ぎ去ってしまう人。
現世ではというか生きてるうちはそれで良いが
三世を思うとき、例えば辞世の句を読んだ後で
本当に事切れる間際でも良いから呵責を一寸、一刹那でも
日本人としてでも良いし、人間としてでも良いし、生物としてでも
よいし、あるいは無機物としてでも良いし感じてくれれば
それは大往生であろう。無論思わなくともであることは自明である。
「がんばって捨てている」感じは、私が言うまでもなく
皆が感じていることである。哀れなり。
(人として、日本人として、人類として、また繰り返しになって
しまうのでこのへんで終わりにしよう。もはやこれさえも
彼の耳は(ずっとまえからだが)届かないであろうから。
余生にでも読めばよろしい。(というか読んではさきほど
記した「いざ開眼して」の事実に突き当たるからむしろ
敢えて読まないほうがよろしい。)


よほどの安泰を約束されているのではないだろうか。
層理論で見るとやはり線を越えてはいない。
(「発信の核は人柱にあらず」を参照。
そこにムキになって対抗するのも浪費となる。
正すべきは核である。どこぞに潜んでいるやら。
これも層理論によって白昼に晒されよう。)

やはりせいぜい数世代なのであった。
全国から狩り出されて集結したものもそう、
と言ってもいいが、図らずも狩られたものや
「約束」に翻弄されたもので文字が読めるものは
もう少しでも悟ってくれれば良いと願う。

いかに土に足をつかぬものへ浪費したかが
悟られよう。

(余談だが既述「なぜ学識者は寄るのか」についてや
常々言っていることだが、やはり土に足がついていないと
たやすく流される。層理論ではこれも力学として
説明がつく。層理論を通すとやはりそれらは
「あぁやっぱりな」と面白いように合点がいく。

成人して中年・老年とまで歳を重ねるに連れて
神経まで蝕まられてるとより難しくなるかもしれないが
幸い人はいつの時点からでもやり直せるようにできている
のである。層に気付いたらそこが出発点である。
これまでそこまで解き明かせなかったせいでもある。
より早く確立されていれば確かに現世の愚は生じなかった
であろう。それを知ることが幾世との合流なのである。
気付くものはそれに合流できるのである。)

「約束」してしまったものは正に盲信するのであった。
(そして縄を解かれ開眼して背中を見て気絶してしまう
ものもいるのである。そこからは己との戦いである。)

2015年12月8日火曜日

諦め理論

層理論から導き出されるが、より下層にとどまろうとする力、
あわよくば周りを引きこもうとする力が発生する。

個体であればよいが、集団化するともはや自身がそれに
加担してることさえも認知できずに、それらの英雄として
最前線の戦力やシンボルとやすやすと成り果てるものさえ
生じてしまう。

層理論の破壊力の一つは、それを力学として解明することで
それら層の何たるかを知っても知らない力(現実世界で
言えば組織など)を仕組みとして冗長させなくすることが
可能になることである。

(言葉に注意しなければならないが個人で言う、また
現代で言う精神疾患患者への社会の対応と同様に
それら力(組織)は「よしよし」と温かく同居する
知識を幸いにして有しているのである。(それらに
気付かれずに、つまりそれらの尊厳を維持しつつである。))

手段は極めてシンプルである。理解した個体の内部から、
理解した瞬間に分かる、つまり文字さえ読めれば良い。
対する者の武器はせいぜい、スーパー忘却機構といった
ところか。打ち勝つ理論(というか屁理屈)を打ちたて
ればよかろう。


2015年12月5日土曜日

如何に改善するか

「あそこはこうだ」とか「こっちはこうだ」とかいう
的確な分析を踏まえて、「ではどう改善するか」ということ。

一つの根幹として信頼が挙げられよう。
現状を見るによくぞビジネスが成りなっているなと
逆に驚嘆する。
(否、成りなっているのではなく虚構に虚構を築いてるだけで、
メッキにメッキを上塗りするような、中身が空っぽで正に
見せかけだけの橋渡たりをしてるだけなのかもしれない。)

どう改善するか。
それらは信頼という腹、肝まで落ちるような交渉を
したことがないのであろう。
周りにもいないし、過去にもいない。むしろそんな
信頼することのほうが馬鹿とさえ呼んでいる向きがある。

信頼という土壌があってようやくまともな交渉ができる。
信頼という土壌があってはじめて大義が生じるのである。
これまで信頼を如何に貶めてきたか、
これまで信頼を如何に裏切ってきたか、
その結果がそれらの足を付ける土壌として延々と
はびこっているのであるから信頼という名の希望が
育つわけもない。
それらはその土壌で利己をおおいに発揚できるので
あるから大いなる幸福者である。
もし文字を読めるものがいて、信頼の土壌の大義を
知り得たものが生じたらそれが種となろう。
それを願うしかない。
(なぜならそれらは外部を遮断し、自画自賛しかせず、
文字が読めないからである。外部から伝える手段が
何もないにも関わらず、それでも案じるときそれは
願いとなる。)

メディア上では世界と肩を並べて満足気にしているが
階層フィルタを通すとこのようにそれらの魂胆は
丸分かりになる。これこそが層理論の破壊力であり
常に言っている「浪費」の歯止めとなるのである。

いつも言うように変化は内部から訪れる。
ほっといて野垂れることを傍観するのもよいが、
その変化の核、発端としての拠り所をここに
記しておいても損はないと思い願いここに記す。
(ただし下手に、つまりそれらと同一階層レベルで
手を差し伸べると、いつも通り調子づくので、
この階層では突き放し、人類史から見捨てられている
ことを先ずは自覚させる必要が有ることは言うまでもない。
それらはこれは読めず、その幾段も前のいわば「よしよし
いいこだね」レベルのお話から土台を作りなおして
いかなければならない。変化の過程について述べるのであれば、
「恥を知ること」参照。
これについて当初は凄まじい
浪費を感じたが、よくよく見れば個人レベルが組織レベルに
なっただけの現象と捉えられる。やれやれ。
いつかはこれもただ「利他について」という1時間の
授業で勉強するくらいのごく小脳的な事項として
教えられるのだろう。)

もしもそれらの内部に、それら自身の程度に気付いている
ものがいるならば(多数いることを願いたい)、気付いている
ものたちの悲嘆も計り知れない。数多の無念を。


2015年12月2日水曜日

組織のセキュリティ

最終的には個人もだが、組織は情報セキュリティと同様、偏向に対しても常に備えなければならない。(最初から片寄ることを目的とした組織はちょっと違うが。しかし、後に述べるように偏向セキュリティが確立すれば偏向組織にも適用できそうである。)
組織、法人はどうしても「公」の面を伴ってしまうので、偏向に備えなければ、まんまといいように使われてしまうからである。
それはITで例えれば、インターネットをブラウザで見てるだけの立場(個人)から、自分でサーバを立ち上げて一般公開する(法人)ようなものである。
サーバーにセキュリティ対策を施さなければ瞬く間にクラッカー(偏向サイドに引き込もうと情報操作するもの)に乗っ取られてしまう。
偏向と書いたがいわゆる、プロバガンダになるが、それは今ある事実としての現状を情報操作によって方向を変えさせようとする意味において何かしら片寄っているので偏向と書いた。気になるなら「直進」と読み替えてもらえればよかろう。

P.S.
今回の騒動も、この「組織のセキュリティ」と、既述の「なぜ学識者は寄るのか?」で説明がつくことが理解していただけよう。かなりわかり易い例といえよう。
補足すれば既述「民意はメディアにはない」の通り、この組織は今後、当然の結果として世間から当てにされなくなろう。カードとしては大きなものを思い切って切ってきたようだが、完全に生かし切れずに捨てたようなものだ。ブレーンの能力を疑ってしまう。

2015年11月14日土曜日

仕組みづくり

人であれば、「あぁ、あの人はあそこで踏みとどまっていれば
善良な道に進んだのに。」と分かることができよう。
そしてちょっとした不運か宿命かは個別かもしれないが、
悪いほうに悪いほうに陥っていく人を知覚することができよう。

先のことから今だに渡る事例も総括してしまえば嫉妬だけ
なのである。
「小さいのにあちらだけが発展して等しく幸を得ている。
しかしまんまと敗者になった。それ見たことか、
やはり正しいのはこちらだ。(と短絡する。)
発展は搾取であった。(と短絡する。)
よってあちらが得た幸は還元されるべきだ。
(短絡の上に築きあげる欲)
正直という名の馬鹿だからどんな些細な事でも
訴えれば真に受けるから取れるだけ取ろう。
(短絡があたかも真実のように土壌化した上に
築かれる、発祥人さえも思い至らぬ欲。こうなると
制御不可能。発祥した魂胆が嫉妬なのでこれらは
放置され、十数億の黒い道を作ってしまった。
かたや正に馬鹿正直に相対し途方も無い要求を
受け付けたにもかかわらず、彼らの放漫が生み出した
黒い濁流の処理さえも、その尻拭いさえも
させようとしているのである。ここに来て
ようやく「いいかげんにせいよ」と心ある
志士が出始めたのである。)

層理論からすると、これはまだまだ目の前に起きた事象への
対応なのである。(以下詳細は既述、「いざ当事者となって
初めて分かること。当事者になって悲嘆しないために常に
正に嘆き正に築くべきこと」参照)

上記は現在誠に頑張ってる方々には厳しい言葉になるかもしれないが
そもそもは、層理論の確立とまでは言わないが、感情、
理性、法などの理解がここまで出来てきた現状において、さもそれが
理解できない、理解できても分からないふりをする、理解できても
スーパー忘却機構を用いて廃人的脳の如く事実を忘却し
彼らの先賢も含め過去の達観者が築いた事実を踏みにじるものや
組織が存在することが驚嘆であり、それら現状放棄をするは
正に怠慢であり、だだこねの放漫である。
いまだに誰かが正してくれる、外からの理解外の事象で変化する
天変地異に雨あられ、どうせたったの今生だ、私利に徹せれば
良かろうと思う輩がいるのだろうか。

これを例えば彼らの主人に言っても「そんな悪いことはしてなかろう」
ときょとんとされるだろう。演技ではなく、心の底から
「(自己も含めた)他の人のために尽くしてきた」と思っていよう。
なぜなら理解が及んでいないから。土壌とはそういうものである。
(ちなみに他利とは自己を含む場合と含まない場合がある。
哀しいかなこれも分類分けしないと「賢い」ものにいいように
使われてしまう。今後細分化されよう。やれやれ。)

理解できずに悪を突き進む人を見るに哀しいがごとく、
高次の層を理解できずにだだをこねる組織を見るも哀しい。

そこで如何に放漫だだこねを作らない仕組みを作るかという
話になってくる。
これも既述だが、哀しいかな既存の知識を持ってはやはり
罰を持ってことにあたる案が浮上してくる。

罰というか如何によしよしと見守ってあげられるか。
(この辺から既存の感覚だと層がごっちゃになって
くるだろう。層をごちゃまぜにしては訳がわからなくなる。
感覚を理論に昇華する過程である。)

ここに書くまでもないが、だだこねは既にいくすえは把握され
ているのである。だからこそ、いつまで浪費に付き合っているのか。
嫉妬の研究にどれだけの限られた資源と時間を浪費すれば
よいのか。(私を離れれば容易く見えるはずだが、そして
見える人が多数いると知っているが。)

対話のスタンダードが確立されてからの世界のほうが
よほど激動であるのに。

(現状を見れば、現在の理論のままでも変化は訪れるだろう。
(単なる自滅だが。)しかし相転換(層転換といってもよい)は
いつの時代も起きているのである。如何に彼らが個人の意志を
統治しようとしても、現在風に言えば如何にインターネットを
規制しようと、個人の意識が変わった時が変換点なのである。
(「意志と規制」参照)それは統治者はどんなことをしようとも
個人の意志までは侵略できないということである、と既述文で
書き、また、統治者(明確に統治者である場合もあるが、そうで
ないパターンも増えてきたので「制御者」とよんでも良い)は
匠になっているので知らない間に誘導されるので気をつけよう、
とも書いた。余談だが更に個人及びその人の社会全体が知覚せずに
制御できたら、それはしてもよいのかダメなのかとも書いた。
(SFが一本書けそうだ。着想して書こうと思った人は御一報
ください :D こういう御時世なので:) ))

2015年11月13日金曜日

おにぎってる

おにぎらずが脚光を浴びる昨今、対抗して本来のものが、おにぎってるとして再流行する。
どうとでも。

ーーーーーーーーーー
どうでもいいついでにイメージ分析を。

「おにぎってる」だと、
「お!にぎってる!」とか
「お!にぎわってる!」とかポジティブ志向に使いやすい。

「お にぎってる」という肯定+驚嘆により歓喜の情景が
醸しだされるのである。
かたや「おにぎらず」は、否定文ということもあって
反抗心は伝わってくるが必ずしもメジャーを走りぬく
イメージは持ちにくい。(会社名や姓名診断をみれば
お分かりのことであろう。)

ということで、おにぎってる(というか、本来のおにぎりだが)
がイメージ的に有利のようです。

2015年11月8日日曜日

層 切り口

層理論ではこういう切り口もできる。

支配層は聡明にも管理できてると思い込んで
胡座をかいて幾年を過ごすが、被支配層は
馬鹿ではない。

支配と被支配の入れ替わり、いわば騙し合いのような
ずるさの競い合いがぐるぐると繰り返されることは、
層を理解していれば、とうの昔に把握済みの事柄である。

それはそれでどんどん賢しくなっては行くのだろう。

それとは別に、つまりその層とは別に対話をスタンダードに
した社会がある。
空気や土壌と同じようにベースとして培われてきた統合を
元にするがゆえ信頼を形成でき、信頼があるから健全な
理念が貫徹できる。
(たしかに我らが志士も突然隣の大陸放り出されては
禍根のみの志士に成り果ててしまっていたかもしれない。
身震いが起きる。)

これまでいってきた「だだこね」とは、これら高次の
層にいつまでも移らず、分かっていてもたかが数世代の
既得権益のためだか、たかが自己か理屈をこねて
数世代分の怨讐をこれみよがしに主張し、健全を
全否定したり、生を自己のみのものと決めつけ、
全精力を足の引っ張りに賭けるものたち。
(それらもたいていは結局せいぜい数世代の利己のために
うごいているのだが。それを認識できていないことが
おめでたいが、もはやこれら外からの声に耳を閉ざして
しまっていることがただただ哀しい。これらいかに哀しいかに
ついては既述なので省略。)

以前、「何故、いつの時代も我らに総括の言挙げを
させるのか」と悲嘆したこともあった。
しかし層理論を持てばそれは必然であることが明確になった。

これまでは世界の無意識としてのjudgeや総括としての拠り所で
あったが、つまり漠然とした「いい人」であったが、
これからはこれを層理論として力学として精神形成の
インフラになっていくだろう。

ようやく、達観者からすればやれやれいまごろかと思われるが、
ようやく、本当に悲嘆したこと救済しようとしたことが、
三大と言われるものを含めて、純粋なる悲嘆・救済の、現実を
離れた、つまり純粋なる層での統合が、全て統合することが
できるのである。

水に土に足をつけ、これらの層まで辿りつけた足跡がまざまざと
認識できよう。(いまの「せいぜい数世代の利己のため」の主張が
いかにだだこねかも明確に認識できよう。層をスーパー忘却し
続けてきたものがいちばん近い隣であることは歴史の皮肉と
しかいいようがないが。)

哀しきかなこれはそれこそ数千年前に悲嘆し救済まで道を開けて
くれていることなのである。
ここに具体的に「力学」をだすまで先達の想いが成し遂げられ
なかったこともまた悲劇である。
常に「文字さえ読めれば分かる」と言ってきたことも
このためである。

社会が形成されて個々や集団間の軋轢が生じて、(重要であるが
軋轢ばかりに盲もくになる輩が多いが、本来は生の原理として
相生である。)その本能の権化に陥ることのはてしなき
浪費に悲嘆し、数多の無念を思い救済を願う想いが形成されてきた。
分かってしまえば当然の流れなのであるが、途上である我々は
層を理解できなかった我々は迷い疑い、利己もまかり通ると想い
リソースをたった一生のために使っても問題ないと想い、
むしろそこまで想いが及ばぬように巧みになのか、おめでたく
なのか、権化を産み落としただ手をこまねくという滑稽を
ancestor の積み重ねも知らずに破壊してきた。

幸い「文字の読める」現世はこの層理論が読めるので
恥を知り、悲嘆し、変わることができる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今後詳述するが、以前は、三大と言われるそれらも含めて
根っこから引っ剥がしては、核までつながった神経を
剥ぐようなことなのでそれらは死滅してしまうことになり
どうしようかと心配していた。
しかし層からすれば順当なる道なのであり、決して
引っぺがすような「否定」ではないことが分かった。
まさに歩み寄りにより正当は保たれ、脈々と継承されていくのか
少数になって賢者となっていくのかは知らない。

2015年11月7日土曜日

リサイクル

リサイクルが浸透した現在、売るときのことも見越して開発された商品がヒットする。

2015年11月3日火曜日

学が寄ること

学がおおむね左に寄ることについての考察。
学というか学を修め専従するものがについて。
これも層を用いれば容易い。つまりその分野の層に
ついては深淵まで掘り下げているが、ふと別の層、
一般社会、生きるところの層については浅きが故
途端にエネルギーが転がるように安定という名の
安き層に転がってしまう。
学は土に足をついていなければならぬという
先人の知恵を蔑ろにして胡座をかいているような
ものである。
これもまだせいぜい統計学的な社会学でしかないが
これを力学として解明する、少なくともその
端緒となろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以前書いたとおり、またこのことに等に気付いて
発信されてこられた方々も居るように、これまでは
以下のパターンが成り立っている。資本主義と
社会主義の社会でそれがどう扱われるかを
比較しながら考えていただければ、言わんとする
ことは自明であろう。
・頭脳明晰で自らが収めたい学を修める。
→地位も名誉も確立できる。
→社会貢献を考える。収めた知識を持って。
→理詰めていけば、つまり短絡的に考えれば
 最大、極大を選択したほうが直近は最大の
 効果を得られるという、程度の低い理論、
 というか屁理屈に巻き込まれる。
 学を修めたものさえも簡単に陥る。
 それは層が違い、生き死にさえも考えずに
 済み、いざ地上に足を踏み入れたからであり、
 片や、因縁と増悪と執念から逃れられず
 envyを拠り所にして(諸説あり)、世代を
 越え民族を越え培ってきた、いわば「いかに
 利己を達成するか」の極の屁理屈にまんまと
 流されていることでしかない。
表層というか、目に見える層を見ると、現代は
それら私利を肥さんとする群れが蠢き合っている
形容すればゴキブリの蹴落とし合いの様相を
体していることを先ずは、視覚的含め五感で
認識しなければなるまい。(恥を知らなければ
改善しようがないことは隣国を例に出すまでも
あるまい。)
認識し悲嘆し憤りを感じなければならない。
芽が残っていることが認識できよう。
ここに記すまでもなく、数千年前の既知の
ことがらをなぜ何遍も書かなければならないのか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
世の中にはこれらの層をとうに理解し実現してきた
先達が数多あることも知らなければならない。
直近の問題で言えば、彼らは大洋への覇権を得るべく
足がかりをつくり、せいぜい数十年〜数百年(否、
経済を見る限り着手前に豚死もありそう)の
「賢い」戦略を練っているようだが、彼らを
歴史上の本物の阿呆として、歴史上の人柱として
阿呆のラベルを額にはらせて立たせるわけには
行かないのである。
(周りから見ていてはそれはそれは楽しいであろうが。)
いまはその流れにある。無論全ては自業自得として
解釈できるように流れている。
それを気づけれないように周りがワッショイし
(さすがに巧みである)、当事者に気づかれないように
ことは進むのである。
(更に言うと、当事者でも本当の中枢はそれさえ知ってて
つまり高次の層では理解し合えるぐらいの賢者がいて(せめてもの
救いとしての希望としてだが)、「自然の成り行き」として
自業自得を成し遂げようとしているとも考えられなくもない。)
これらは次の世代、つまりおよそ百年後に世にでることになろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
いつも言うとおり、問題はそれからなのである。
上記は層から見ても、限られた時間と資源のリソースの
完膚無きまでの浪費なのである。
これもまた数千年前から言われていることの繰り返しでしか
ない。
全体としては一歩一歩進むということ。
悲嘆としてではなく希望としての一歩。

2015年10月29日木曜日

混沌と開眼

混沌も困るが、皆が皆が開眼したらどうなるか、それらを総合的に見渡す。
管理しやすいのは認知エリアを拡大させないように閉じこめることだと言うのが、層をわきまえない短絡的な考え方。先ず正すべきはこの認識。

2015年10月16日金曜日

対話と混沌

対話と混沌。

対話とは、相互理解。
嘘は含まれず、自己主張ではなく相手の立場を
わきまえ、これまで培ってきた最良の道をお互いに
選び合ってきたうえでの会話。

混沌とは、支離滅裂な非難の応酬。
自己主張に基づきせいぜい数世代先の「自分の」
後継や血筋なりイデオロギーだかのために、
必要であれば嘘もつき、相対する側の意見は
聞かず、聞いても聞こえないふりをし、
知ってもスーパー忘却機構を使用して
廃人的脳の放棄を持って相手を屈辱させる
ことの一点に捧げる。

これほど明瞭だが、混沌のちょっかいに
やすやすと振り返り貴重な資源を浪費するのは、
「層」が見えてないからであろう。

層をごちゃまぜにしてしまうと支離滅裂になり、
現状のお茶の間は哀しいかな見事に踊らされている。

これまでいかに対話のスタンダードの普及が大切かを
書いてきたが、その前提として層の理解があることに
気付いた。
そうなると層理論の早急な確立が望まれる。

これが明確になれば、なぜ私が彼らを如何に
「よしよし、いい子だ」と扱ってあげなければ
ならないか明瞭になる。
その層から見れば如何に彼らは時代遅れだが、
成長遅れだか、はたまた彼らの崇高なるイデオロギーの
ためだか知らないが(これから定義していく)、
視線の近さに驚くことが可能になろう。
新発見に驚き好奇心を持つことがその分野の発展の
最高のエネルギーになる。

なにしろこの層からすれば、今起きていることが
如何に茶番か、それを演出するもののために如何程の
資源を浪費しなければならないのか、さめざめと
泣けてくることが可能になる。

変わるのは内部からである。組織の内部、組織を構成する
のは人。つまり人の内部。浸透さえすれば雪は自ずから
溶けよう。

2015年10月15日木曜日

やはり視線

いろいろ言われているが、やはり視線は
どこを向いているか。

短期的なものは自ずから袋小路に陥る。
中期的なものはせいぜい数世代。
長期的で初めて論壇に入れる。

これまでせめてもの援護として
短視者は世界レベルについてこれなかった
ものとして、それさえ存在を許してきた
世界として世界の怠慢と引き換えに
許してきたが、反語を言えば
どれだけ譲歩し待ちど暮らせど
自省せずむしろのさぼるが如きは
それ自ずから滅するを選択するが
如しといよいよ現実・現物、それは
未来も含み嫌み退けよう。
それを甘受でき、その意味を知らず
なお現世の享楽を受け来世は知ったこっちゃ
ない姿勢を貫ける「知識」人。
吸い上げるだけ吸い上げて享受し、
乾いてスカスカになった箇所は
どうぞ来世が頑張って。
それを「知識」人がのうのうと
のさばるさま。げんせ。

吸い上げ気調であったから吸い上げるだ
吸い上げて貸しを作りまくった、
作ろうとしたのだろう。しかし
化けの皮は彼らの想定よりも早く
剥がれ始めた。哀しいかなただ
それだけを全世界が血眼して
フォローしている。

例えば自己が、自己主義が何百年でも良い
何世でも良い、何千、何万でも良いが
それを主導するものは、それかなたまで
その阿呆が蔓延することが喜びなので
あろうか。そもそも生きながらえようと
思っているのか。(数世代主義だから
そんなに深遠までは意識が到達して
いまい。いるのであったらどうぞ
自己崩壊してくれればよかろう。)

これを持って、かような主義をのうのうと
掲げられる現世人は最大の幸福もの
であったというのである。
(どうぞ恥の歴史教科書にどうどうと
その名を残していただければと。)

真剣に立ち会うときに、いざその時に
如何に思いを馳せるか。
いざ立ち会った時、正対するもの、おののくもの。
真剣に立ち会うことは今生ではなかろう、数世代先も
なかろうと味をしめて今生の安泰と引き換えに
やすやすとひざまつくもの。
これを表面しか読めずのうのうと
投げ捨てたもの。
培ったものの御座の上でのうのうと享楽を
さも畏まって演劇するさま。

市意はあろう。中間をすっとばすが、
市意を圧倒的に匠に統制することに全エネルギーを
使った結果が現状であろう。
残念ながらすべての芽は摘まれる。
幸いは一部地域であること。外部は上記の通り
その幼子極まりなき様をまざまざと見せつけられ
忍耐に忍耐を極めても一向に成長を放棄したことを
認識したことを持って、再教育を決心した次第である。

幼き馬鹿小人で居座り続けた、ぬるま湯に浸り続けた、
忠告を無視続けた結果をまざまざと受けるのだが、
いずれ泣き言を言ってこよう。
それをやれやれと聞かなくてはならない、その
後処理時のやるせなさは計り知れない。
(かれらは全世代を通して後処理、つまり尻拭いを
したことがないから分からないのであろう。)
ふう。現世は可愛いものだ。
せめて数世代ではなく、過去を全て知って来世を案ずる
賢人が数十億のなかから数人でも出てきてほしいものだ。
(あえて対比の誇張で言った。市意の賢人が
いくらでも居ることは知っている。ブレーンがこうだと
それさえも出られないことを言っただけ。
崩壊は、それら市意の賢人の排出であるから、崩壊後に
主義が浸透して数十年したら一気に抜かれよう。
浸透すればの話だが。)

2015年10月13日火曜日

当たり前だが互いの衰退を期待し会えば衰退する

表題の通り。無論、層をわきまえての前提。層をわきまえねば、無論ちぐはぐな話。
古今を問わず、「ふぅ」といった次元の話。
しゃしゃり出るものも読み、つまりメディアの権化くらいにおもい天狗になってるものも読み、先導にたやすくは流れるさも知識のただなかや、そのありがたみを享受してるや、さもや率先して先導の中流を流れんやないし流れるを自認し、他薦であろうとまんまとしたてあげられるものが読めばよろしい。
その層のためだけの話。

2015年10月9日金曜日

浅さ、深さ

統べる側からすれば伸びぬものがおらぬほど
統べ易きことはなかろう。

飼われるということは悲惨である。

(既述の「如何に杭を打つためだけに労力を掛けてきたことか」
を参照)

外患が際立ってなくなった彼らの「うさ」は当然内憂に
伸びて高性能もぐらたたき機になりうせたのだろう。
(あと、しっかり高性能ふところ暖め機)

おそらく、その本来の理想、目的を正確に把握しきれて
いないのであろう。
こんなことは、貨幣社会では成り立たないことぐらい
子供が数時間勉強しただけで分かることである。

それをさも崇高なる知識のごとく見せびらかして
一晩考えれば分かることもさも早急なる刷新だと
ヒステリーを起こさせ、聖賢とは反対の正バカを
斡旋させ意志を放棄し本能の先鋭を崇拝して
しまった事実。
さあどうぞ、その禍根の返り血を充分に逃げずに
受け止めてくださいといったところだが、哀しいかな
救済されるのである。大多数は滅亡を望むであろう。
しかしそれは激情、憤慨、一時の理性を超えた感覚である。

理想だか、理性だかも分からずに突っ走る事実。
それをきょとんとて、遠くから助言するしか術が
ない事実。
既述のとおりだが、切り口として、如何に彼らの目的の
時空的浅はかさがあげられる。
(せいぜい自己を中心として数世代だけ、のくだり。)

何億だか何十億だかの脳として機能していれば、自ずの
見通しの浅さには気付いて驚愕できるぐらいの脳は有して
いよう。
それを、これも既述だが、スーパー忘却機構を駆使して
網膜をすりぬけさせることは自ずを廃したものの
仕業であることを具体的に明示した。

分かっていてやめられない。それを国家レベルで野放し
できてしまう世界レベルなのであった。
彼ら的には分かってもやめさせない、やめる雰囲気が
微塵でも嗅ぎつけられたら徹底的に追い込まれるから
辞めるに辞めれない。
結局、自己が1番、2番が後世(直系のみ)という
何回言えばいいかわからないがせいぜい数世代の
物語に付き合わさせられているのである。
(日本的現実に比喩すれば、如何にやくざ的やり
かたであろうか、といったところか。これでも
かなり生易しい表現であることは読める人は
分かるであろう。)

演劇であれば面白いですむが、もはや内部からは
声さも挙げられない(本当は聡明なる志士が咆哮
していよう)現状なのである。

辞める前、諦める前に、せめて土壌を耕してほしい。
幸いにも辞めるときに良心に気付いたのであれば、
良心の呵責として、崩壊後の人民のために芽をまいて
おいて欲しい。
ここに明らかにしたようにいかに利他、そこまで
いかなくても如何に相手のことを想像するかくらいまで。

これまで述べたように、これら上記は議論することさえ
浪費なのであって、考えるべきは対話のスタンダードを
そなえた後に、つまり対等に(哀しいかな、現代風で言うと
「まともに」)話ができるようになってからの支那と、
西部は独立や崩壊をするであろうから、つまり東アジアの
あり方、そしてそこに下手に付け込まれないように対外的な
外交の憂慮なのである。

こういった議論に参加できるくらいの対話のスタンダードを
兼ね備えた成人に成り代わってみせます、という気概があれば
それでよいだろう。(現時点では微塵もない。)
救うべきは飼われて埋もれた聖賢、飼われても信念を曲げなかった
声なき声であることは言うまでもない。数多声なき声よ。
(そしてそれを目の当たりにして無視し続けてきた既存よ。)

PS
特に書かなかったが、スーパー属国をなのる彼の国は
上記を読めば別にどうぞふらふらしてください、と
合点がゆくであろう。いざ目覚めて決する、しかし
時すでに遅し、これを延々と繰り返す。

ーーー
「字」さえ読めれば。。
既得権益が血眼になるが、それらの願望は、既述のとおり
数世代だけなのであった。

賞という切り口

今回せっかくなので、賞という切り口で見てみよう。

母数がいくら多くても一向に賞が取れぬことに嘆いている
集団がある。

これに主体という言葉を加えるだけでその意味は
容易に紐解けてしまう。それほど危ういということ。

彼らの理想が確立して、はや幾年の歳月を謳歌しているか。
飼う機構ができて、その配下の人民は代価として
安心と安定と先進的文明を享受している。
(なんとすばらいいことであろう。)

そんなユートピアを確立しておきながら、つまり
飼う側はせっせと集合のために己を顧みず日々
内憂外患に対峙し、汗水鼻水を垂らし、
享受される側、飼われる側は外界を気にせず
その享楽にいそしみ、否、その崇高なる先進的
文明に勤しむことができるのである。
如何に学問の捗ることか。

もしそうなっていないのであれば怠慢である。
飼うものの繁栄に帰していないのであれば、彼らの
理屈から言うと、脳、ブレーン、つまり飼う側の
失態である。
飼われる側の現状を見よう。「何故、こんな
集団のために誉れを受け得ようか。」
如何に聡明なる人材を擁しようとも、聡明に
なればなるほどその落胆の悲痛は察して余りある。

ちと、あまりにも簡単に真実を述べてしまったが、
本来はこれを「読んで」、憤りを感じなければ
ならない。
もはや彼らは「恥」から遠く地平の彼方へ旅立って
しまった。
何事もそうだが、変わるのは自分でしかない。
変わるのは内部に着火しないと始まらない。
彼のすばらしき、確立された主義によって
外部をすべて遮断しきっていると思っているのであろう
から、それでよい。
先ずは「恥」の「回復」からであろう。

2015年9月19日土曜日

と、いうわけで嵐が過ぎ去れば

と、いうわけで嵐が過ぎ去れば
のほほんと全員がそのままその立ち位置で
在すのだろう。

それはそうだ。プロなんとかが第一で、お咎めが
なければ即粛清の対象ではないのだからその
安堵感たるや計り知れぬことであろう。
(それさえも気付かぬものが大半なのであろうが。
勤勉であるがゆえみながみが優等生であることで
あろう。)

こんなことに文字を使うことは勿体ない。
如何に忘却するか、を参照されたいが彼らは
読まない、読んでも無視する、読めないふりをする、
読んでも理解できない体を醸す、読んでも理解できなかった
痴呆を演技する、本物の忘却機能を使用して忘却するので
ある。(人間の基本機能の否定しように感服する。
ここで言っても仕様がないので既述「如何に忘却するか」を
参照。何度言えばいいかわからないが恥を知覚した時点が
転換点である。)

ここで言うのは、せっかく俯瞰的立場、見る目を持ったにも
関わらず、その天から授かりし頭脳を持ったにもかかわらず
自ずから道化と甘んずることができたのかということ。
それらはほぼ、否、違う、と言うであろう。ではその糸を
断ち切れば良い。以上。

現実は哀しいもので如何に歴史を知っていようと、いざ我が身に
降りかかるととんだ結果を生むものである。今回、それをまざまざ
と知ることができたことが結果と思えれば十分であろう。
(彼らの好きな費用対効果でみるとどれだけマイナスであるか。)

人権だ、人権という名の実は個人の名誉だと騒ぐものが続出しよう。
(本当の人権を給するものを尻目に。またそれらの騒ぎは既述だが、
せいぜい長くて数世代彼方しかない距離である。)

他の集団は知らないが、まんまとヘッドの思惑通り民意、あってはならないが
個人の意志まで染めて統治している集団もあるかは知らない。

それらは、いざ糸を断ち切るときにテンヤワンヤするか、切ること
さえ忘れされいつのまにかいなくなる。
糸は断ち消えない。(既述参照)

みすみす戻ってくるものは焦燥感があるが、もはやその人の生涯では
復帰できないと思ったが、なかには数年前に本法案を認可する方針を
示しながら、今となってはそれを真正面から反対することができる
ものさえおる始末らしい。それはあくまで現物の人ではなく、売払われた
魂だかなんだかの手玉に取られた終焉と思いたい。(その人のために。)
(そうでないと、自己矛盾を生じ言いたくないがお隣とおなじような
帰着つまり自ずから帰るしかあるまい。それよりかは認知を放棄して
在命を選択されるがよろしい。)

みすみす、というか今後はいくら泥を顔に塗ろうが、恥と感じない
ものが続出するであろう。哀しい予想だが。

しかし心配はあるまい。相手はただただより汚くなる一方。
こちらはそれら前述「よしよし」はもはや論弁という現代だけの老犬。
層を知らぬ、否、弁えようも知覚しようも意志の途上に昇ったことさえ
ない段階の話をいざしようとも、人の土俵。にわか相撲では俵さえ踏めぬ
のであった。
(無論これを書くまでもなく、読むでもなくこれら全ては、
彼らには「既知」なのであろう。どうぞはしゃいでいただければと。)

(せめてもの救いで、踊らされた方々はあとで、かなりあとで気付くと
気付けるだけの血脈を保てればよいが、気付いてくれれば、その加担した
ことから、糸を断ちきれぬことから、なおさらこれをまざまざと、
すきがあるとき、すきがあった時に読んでいただければそれでよい。
現世をかようにも安く売り捨てつること。もはや頭は真っ白で
何も言っても届かぬであろうが、後悔は先立たぬとここで言おうが
響かぬもの。せめて認知を捨てて生を永らえてほしい。
親や兄弟、先祖や来世まで及ぶものは稀であろうが、
無論それら全ては捨てておろうが、禍根は残さず
認知を捨てて生を全うするほうがましである。禍根を残すよりは。
あまりにも優しすぎるからここに記録することさえ恥ずかしい。
しかし我らは見届けよう。踊ったことを、加担したことを。
ただ安心すれば良い。人はいつでも変われるものである。
そなたが三世一切を捨てて、自己に生きたように。
遅いと既得権益から言われるかもしれないが、脱却することも。
それがようやっと恥の始まりであろう。
それを幸いに認知できたものは、それにどれだけ費やしたか
慮るだろう。しかし未知者・既知者を比べれは容易いものである。
常々言うが、最低限でもこれがスタートラインであろう。
哀しいことは起こってほしくないし、、、とか言う今で言う
崇高なる「議論」はこれら「層」を持ってすればはるか昔の
お伽話である。「哀しいことは、、、」と何べん繰り返すのか。
これ故に対話のスタンダードの確立が先決である。

同じ時代に幸いにも不可思議にも生じた私だが、先方ははるか
明瞭なる志士と思われたが、今回の事変が端緒となって「
浅はかなる拠を持った、足が浮いている頭だけ体積が大きい
もの」を幾人も見て幻滅してしまった。
しかし同じ時代、つまり場所は違えど、教育課程も若干違えど
まだまだ日教組の影響は少なく、素直な教育を受けれていた
同年代の希望として偏向することもなく真っ直ぐ同年を育って
いたであろうと思う。いつから、どこからあんなに姑息に
なってしまったのかと、大学によってそんなに姑息なのか
そうでないかが別れるのかと、無論大学自体としては
姑息ではなく、姑息を育む現場、まだ強いか、否、現実であるし、
否、特定されなければ彼らはそれで良いのであろう。
となにかと言明はここに明確に避けるが、ようは
現在の彼らに見られる中途半端な自由主義はここに
根ざしておる。(ああといえばこうというから自由
主義ではないらしい。)それはそれでよい。論弁を強化されたの
であればそれでよい。
いざ社会に出て結果を見よ。当初は流石と思ったが、
現在の果てを。(おそらく自ずから気付きつつ、
進めず逃れずの状態で、残された道として、
まんまとその特性を遺憾なく発揮させられて
いるところであろう。)
残念ながら糸を付けられたものは上記のとおりである。これまでは。
知能を持って逃れてほしい。

響かぬものへのメッセージであり、彼らの精鋭なる
機構によって遮断され、そもそも大量のプロなんとかの
資料を与えられるのだろうから、そもそも読む暇も
ないのであった。
という、仕事を自ずから生ぜしむる能力、その資源は
全く気にしない能力は流石だと思う。


2015年9月18日金曜日

表層化しない本位

表層化しない本位をどうするかが
今後の主眼となる。

今後とは近未来的範疇を意味する。

これを展開するにあたっては単層ではいられず
自ずと「層」を知らねばならぬが、幸いこれを
読める方々はその土壌はある。

単層の極を持って破極をめざすがごとく
見受けられるものもおるが、さすがにその
中枢は自ずの極値解、つまり限界を知って
いよう。

それでこそそれを展開するは、近世の停滞を
好機としあたかも好況を皮が剥がれることを
承知で肉を露出して金を持って「友好」な
交流を取り繕い、というか一方的「貸し」を
つくってその点を拡大に繋げようと哀しく
考えてる様が露呈されていることを気付かぬ。

自ずの経済発展がすでに終焉したるを知って
対外的嘘をつき、内外的にも嘘をつき国民の
なけなしの資源を投資させ、浪費させ吸い上げて、
ただただその投資の大半ないし半分以上を
国外逃亡させられ元首は慌てふためき
上記の「点」に投資させるだけがために
金だけを積んで、「あの時これだけ金を
積んだろう」という脅し外交しかしらない
中枢を持ってしまった国民は哀れである。

それは民主化をしようというものだ。
しかしこれまで言ってきたように「抑える」こと
だけはどこよりも長けているのである。
(抑制にいくら費やせば気が済むか参照)
以降も既述のとおりであるが再掲。

・うらやましがるのであれば文化から羨ましがればよかろう。
・もはや「層」を何世も「認知」できないのだから、それは
 人格的、認知的問題であるから「よしよし」領域として
 扱う。(和を持って排他をせず融合してきた事実参照)
・…
特定の領域に絞らないよう力学として体系化してきた。
まだまだもっと体系化していかなければなるまい。
(端緒として使用していただければ幸いである。
 その際はご一報を。)



踊らされ

踊らされ、公人になってしまっては糸はもうたやすくは切れない。
極端な例は退いて、いざ糸の付いてない現状を知ってしまって嘆かれずに嘆かれずに滅してしまった例。(それを量産しつつある、展望のなさに驚嘆する。)

落ち着いて読めばよし

渦中で頭が沸騰しては入るものも入るまいから
落ち着いてから読めばよかろう。
(たぶんそうさせないのだろうが。陣営のものには
まとめる、振り返る時間を与えないのが彼らの
崇高なる手法であるがゆえに。)

再掲するまでもないが「民意はメディアにあらず」で
とりあえず総括してしまうから虚しいものだ。

現世のさすが頭がイイなと思っていたものさえ
たやすくなびく核のなさを目の当たりにしては
さすがに萎える。
割りきって名誉を売っていたり、懐にさしてをされて
しまったものが全てであればよいが、もしも
見通す力があるにもかかわらず天邪鬼を発揮するは
何故か。とりあえず列挙しよう。
・名声でも金でもなく、本当に外部から来た密偵。
・またはそれに憧れたりした自称密偵。
・自暴自棄(三世をたつもの)
・自暴自棄の生成り。(過程の者の意)

見通す力があるものであるから、たやすく
核もなくなびいているいわゆるメディアに
出てるようなものは除く。

前者2つはこれまでたしかに甘かったろう。
ようやくなのか、裏ではとっくになのかは知らないが
対策は進んでおろう。
後者2つもこれまでは「やれやれ」で済んでいたが
前回述べたように今後はもう少し賢しく対処して
いかねばなるまい。

たったそれだけなのだが。総括としてはなるべくことが
ただなったというだけなのであるが。これに
幾ばくかの浪費を感じる感受性が育まれれば
成長するのだろうが。(既述「なぜ浪費を感ぜぬか」参照)

※どこかにあった「スポンサーのために必死さを
アピールしてる」とあったが、なるほど、彼らの
体制だと○○様とかトップが全てで、プロなんとかだとか
カモしてるがようはお眼鏡にかなうようにアピールするのが
(当該者はもはや気付いておらぬが)演劇的レールに沿った
演出である。(であるから踊らさせられているものの悲しき
ことと幾度といっているが、外界を如何に知らせまいかとするもの
上層の仕事なのでということも幾度も言っている)
ということはわざわざここで再度言うことでもなく、もはや
一般的になっていたと思ったが、残念ながらまだまだであったか
とも思う。
2,3個前のビッグイベントからはちょっとは変わったかと思ったが
まだまだ頭でっかちのエライさんのほうがまだまだやられてしまうと
いうこと。

もうすこしすればそれらプロなんとかは効かなくなってくると
聞いて青ざめる姿が目に映る。それはメディアが表層でしか
ないと6割が当然と認めた時。
それをみこしてどうぞ次の手を打たれれば良い。この層での
このレベル程度のことであれば、それで満足できるのであれば
安いものだ。

2015年9月16日水曜日

民意はメディアにあらず

ここに敢えて書くまでもないが、民意は
メディアにはない。

メディア側は統計学的母数さえ超えてよければよく
民衆は積極的でなければそもそもメディアに没入しない。

前者は統計学の前提の「平均」を「全国」という
言葉に置き換えて詐称している。統計学として培われて
きた崇高な学問にどの面を持って対面するつもりなのだろうか?
(本当に知らないで母数を満たして喜んでいるものは
 おめでたい。)

後者は、近代まではそれでよかったかもしれないが、
近現代からは諸外部勢力のイデオロギーだか
プロパガンダだかであわよくば転覆を成し遂げようと
する輩(たいていはホッカムリをしている)が入り込んでいるので
まんまとホッカムリ連にいいように使われては無防備で
あったことが悔やまれるので、「いざ鎌倉」ではないが
いつの間にか影に潜むようになったホッカムリ連に意志を
蝕まれないように世の流れを注視しそれらには最低限
備えましょうということである。

後者についてより言えば、民意は表層を見るほどに愚かではない。
相互理解を基本とするものや集団は、騙して利益を得ようとする
側からすれば上等の鴨であろう。

相手を理解して譲歩する。
しかしそれに限度があることを騙す側は気づいていない。
(あるいは気付いているかもしれない)
そもそも「譲歩」という言葉が(あっても、実際に存在した・
させたことが)ない集団においては、その心境は汲み取れや
しやしない。

ホッカムリをしていない日本人を怒らせてはならない理由は
ここにある。
信頼を裏切られたらどうなるか。
その信頼とは綿密と三世を突き通す心の根流である信頼である。

前回述べたように核をもたずに図体だけ大きい集団は
他に寄生や依存するしかなく、今回も見事に蝿となって
醜態を晒しているが、それをのさばらせてしまったことで
そろそろ緒が切れだしたところだろう。

どうぞどうぞと善意で席を譲ってあげたのに、見事に
ボーフラから羽化して人の餌を食いつぶして蝿になって
中枢を飛び交ってる様子を見ると焦燥感を通り越して
ようやく緒が切れだしたといったところだろう。

蝿やホッカムリの特性として、いかに気付かれずに
蔓延するかが鍵であるが、(おそらくその勢力が
3割位を超えればどうにかなるくらいに策略して
おろう)、そろそろ善意や譲歩では立ち行かなくなった。

彼らからすればかわいい言い方だが、これくらいの
抽象度を持って危機を認識し、どれだけの空論のために
譲歩し潔くお金を払っているかを認識してくれれば
幸いである。

哀しいものは、これまでは「よしよし」と
優しくもてなせばそれ以上はなかったが、現実を
みたれ。上記が暗喩ではなく現実を明示している
ことが分かろう。であるのでここに記すことは
彼らにとってはごくごく優しい言葉なのであった。
(彼らはホッカムリのイメージを現代風に、
「現代的忍者」と呼んでいるのだろうか。
それを格好いいと思えるセンスもさすがである。)

2015年9月13日日曜日

何を憂いていたか

言うまでもなく何を憂いていたかは
知っていよう。

であれば、絶え間ない理不尽に立ち向かうために
心を一つにしたこと知っていよう。

その先を見据えて対立は何かしら起こるもので
相互理解を持って、相互理解の姿勢こそが
尊いということまでは知っていよう。

そこまで分かれば未だ大きな赤子が多いことか
知れよう。

留まるはだだこねとしか見受けられない。何十億いて
すべてがアホではなかろうという皮肉は湾曲的で
理解が及ばないのだろうか?

ではここにその浅はかな力学を表明し、自ずから
「あぁわが組織はアホですね」と言わしめればよいの
だろうか。またはそれを望んでいるのか、発作反応を
起こして理性に走らせるのか。

優を持って大挙した見返りとして、自業自得として混迷している
向きがあるが(メディアははるか及ばぬが)、それは早き遅きだけ
の差である。(得意の想像および想造を発揚すれば良い。)
それさえ認識できずに図体だけでかく我を押し通すは、もはや
単なる手のつけようのない駄々こね坊やである。
(駄々こね中年、後年、老年ほど手を焼くものはいない)

幸い人は気付き、恥などを発端とし心が変わることで
いつでも変化することのできるものなのである。
あまた声なき声の過去ブログの話もあるが、あるものの
心に灯った微量な火によって全ては変わり得るのである。

それは幸い積み重ねてきた結果として、そうなるという
方向性はわかるので別に危惧はしておらず(健全が成り立って
いる前提。まだ危うい場面もあるがそうそう切り崩しに
みすみす負けなくなってきたからこそとして)、常に述べる通り
憂慮すべきはその後なのである。

これまでの無駄な何十年を繰り返させないために、如何に
導くか。相互理解の概念のないものにいかに浸透させるか。
それはあくまで過渡期の話。

相互理解が確立したあとに生じる問題である。
(相互理解を対話のスタンダードの一分と思っていただければと思う。)

やはり最後に残るのはIとかEの問題か。

知り得た範囲

幸い知り得た範囲があるので、歴史から
スピード的「優」があったがそれが全てでは
ないことがわかり、植の反撃があり
現在は、その根源に回帰している途上で
あろうか。

得たこととして己の「優」をもって侵略してはならない
ということが挙げられよう。

なぜ世界のtotalizeを最終的にここに言挙げさせるのか
不思議だったが、正にここに帰着する。

あまた予言があるがこれほどまえから世界を
見据えて、あたかも優の助長が世界にはびこる
ことを知っていて、冷静にすべてのことに
立脚したことは、それら数多の予言に勝ろう。

懸念すべきはお互い和を尊重しながらも
そこに発生する障害であって、これをもって
先達はいかほどの嘆きを抱いたことであろう。
匙を投げようと思い留まることも幸い知っている。

2015年9月9日水曜日

ホログラムストリーミング Hologram Streaming

分散ストレージの活用事例
Application Example of DistributamountStorage.

せっかくなのでより具体的な活用事例を
(勿体ないけど)紹介する。
(未だ具体的機構がないから「事例」ではないか。。)
I announce here a concrete example.
(Even I feel regret to open my idea, somehow this is
 one of natural world-wide direction nowadays, as long as
 someone try to get a strong patent or no other companies never
 notice the importance of those ideas.)
(there are no real system nor idea of this so, this can be the original
 of idea and system.)

現在のストリーミングはロードバランスはされながらも
結局は物理サーバとのP2Pストリーミングになっている。
A normal streaming server streams datas to clients with P2P mechanism.
with load-balancing theory as all.

つまり相手先とのトラフィックに滞りがあるとストリーミングは
バッファ中状態になって間断する。
That's why a 'buffering' statement is occurred when the network is
on jamming.

ユーザは映像の正確さよりも、ストリーミング全体を
間断なく見れることの方に重きをおくものがおり、
こと常時ストリーミング視聴してるユーザはその比率は
高いのではなかろうか。
Audiences are wishing more natural streaming without buffering,
they wish no buffering more than a HIGH-QUALITY streaming, aren't they?
Specially those who always keep playing streaming.

そこで画像・音質が劣化しても許容し、その代わりに
バッファリングが生じにくくする「ホログラムストリーミング」
機構をここに発表する。
So, I show the Hologram Streaming system here,
this system accept less quality compare with current streaming mechanism,
but this prioritises Natural-Streaming for the porpoise.

ストリーミングを配信する物理サーバは全世界の拠点に
物理的にもネットワーク的にも分散され、ストリーミング視聴
クライアントはそれらを規則的ないしランダムに、時系列的にも
対向サーバを切り替えながら複数サーバから配信を受信する。
Streaming Servers will be located in the world separating with real distance,
with abstract network-circuit.
A client who's going to receive streaming media will get datas from
several servers, switching the connection to another server randomly.
(or with some algorithm)

配信データはホログラム化されており、1サーバから配信される
データ量は少なく、トラフィックも分散される。
(この分散状況を最適化する機構もここに発表しておこう。)
Datas from steaming server are translated to a Hologram data,
this data is smaller than original streaming data, so that the traffics
on the network will be less.

クライアント側は受信できたデータを元にホログラムを復元し
映像・音声を復元し再生する。許容量を下回らない限りは再生を
優先させ、あるサーバからホログラムデータが欠落しても
残りのホログラムデータでメディアは再生しうる。
Clients decrypt datas to a media data and play on client's side.
As long as datas are enough to be decrypted within a limit level.
Importance is even some datas are accidentally lost, this system
can play media gathering datas from another Hologram datas.
(that's why dispersion and hologram are deeply connected.
 there are more importance with them.)

ストリーミング配信側、ストリーミング受信側の両者にとって
利益のある機構である。
This system surely gives a lot of gain both of sender and receiver .

以上で上げた権利とその他に、以下の権利を発表しておく。
・ストリーミングデータのホログラム化アルゴリズムおよびその機構。
 ※映像や音声などその種類分すべてを含む
・どの拠点からどのホログラムパート※を取得するか最適化する
 アルゴリズムおよびその機構。
 ※ホログラムパート:ホログラム化した際に分割された部分(パート)は
  その部分自身が時間軸上でデータの連続性を確保しているので
  そのホログラムされたデータが時間軸上で連続性を保ったデータを
  まとめた集合。またはそれを保有する抽象的ないし具体的まとまり。
・どのホログラムパートをどこに分散させたほうが最適であるかを導く
 アルゴリズムおよびその機構。
・どの拠点に取得しに行くかおよびトラフィック速度などフィードバック
 情報を元にどのタイミングでどの拠点に切り替えればよいかを最適化する
 アルゴリズムおよびその機構。
・ホログラムデータ欠落率(データ量・タイムラグなど)と映像品質を
 相関させる計算式およびアルゴリズムおよびその機構。
・ホログラムデータ間のチェックサムアルゴリズムおよびその機構。
 (例えばテキストデータをホログラマイズした場合を考えると
 分かりやすい。一部のホログラムデータが欠如すると復元された
 文字列はところどころ文字化けしているように見えよう。
 一本の通信線でノイズが乗ったような状態と相似である。
 ノイズ対策としてチェックサム(エラー検出、1ビット補正など)
 があるので、そのホログラムデータへの応用版である。)
・上記サーバサイド・クライアントサイドの最適化を利用しての
 阻害攻撃(DOSなど)のアルゴリズムおよびその機構。
・上記攻撃の防御・緩和アルゴリズムおよびその機構。
 (上記2点は、もはや現状および将来にあっては攻撃を見越して
 考えなければならいということの諭し。決して幇助ではない。)

−−−凡例−−−
映像・音声、メディア、ストリーミングデータ:
  ストリーミングの対象となりうるデータ一切を
  抽象化してこう記した。情報全体とも言える。


http://hirog07.blogspot.com/2015/08/blog-post_54.html


p.s. 2015.09.11
さすがにものすごい勢いだ。
かような技術がオープンされてはにっちもいかない
だろうから大挙して押し寄せているのであろう。

p.s. 2015.10.06
これとIPFSを組み合わせればより強力なインフラが構築できる。
ピアの分散×情報量の分散
If this system could combind with IPFS, there would be more strong infrastructure.
 distributed peer and distributedinformation.


p.s. 2023.8.8
このアイデアは書いてあるとおり実用性から生み出されたアイデアなのではあるが、実は昨今の量子論的にも意味があるアイデアである。よってその点も念の為に補足しておく。
現代ではまだ物理的な量子論でしかないのであるが、本アイデアはすでに仮想的量子論にまで切り込んでいるので、おそらく数千年くらいは先取りしたアイデアであろう。(若干謙譲して数百年くらいにしておこう)とだけ書くだけ書いておこう^^ 現代では意味は分からないだろうが、丁寧に論理を積み立てれば成り立つ話。)
ヒントとしては発信源は1つであるが、この場合は観測者は不特定多数、しかしそれぞれの箇所でちゃんと観測したいという前提。そこに加えて実際上の通信網の状態によって経路によってランダムな遅延が生じる環境である。いかにも非局在性を有効利用できる分野である。


2015年9月6日日曜日

一応提言

馬鹿らしいが可能性として。
不安を煽る情報を流布させ無菌でしか生きれない
(物理的にも婉曲的にも)状態にし、かたや
自陣営は過酷な環境を強要し、なんというか
ミュータント的、突然変異や超強対環境性能を
そなえた集団を作り上げる。
母数が多いからこそできる。
以前、冗談で書いたが再度、あくまでも可能性として
残しておこう。
さすがに全員が愚ではなかろうからいろいろ考えて
もはや自陣営の集団を組織する上の核となる個々人の
誠のなさに気付き、それを最短で解決する策として
突然変異を生み出すことでしか打開できないと
結論したのかもしれない。
さすが構成員をものとしか見てないことか。
いずれにせよもはや徳目はなく、核がないのであるから
他組織、他集団に蔓延して寄生することでしか生きられ
ないのであろう。
十何億を以て寄生根性しか露呈できない有り様をさらけだして何が楽しいのだろう。
嘆き哀しむ有志がおり、居るが核がないと、かように一蹴されてしまう事実を後何回味わえば自己の問題と認知しうるのか。
寛容なる自然と結果を怒らせてはなるまい。馬鹿みたいな「よしよし」話だが現世はこんな楽しみしかないかわいい世界である。幾重もの階層を解しえないかわいい世代があったことを、そしてそれをとうに嘆き哀しみ、嘆き哀しむものとしては如何に浅はかな事であるかを知るものがいたことという事実が残る。汲み取るものもいれば、無視するものもいる。
低層と高層と敢えて言えば、現段階ではまだ区別のない混沌、カオスの状態である。対話のスタンダードの目的とするところはここにあり、認知、意思、考察レベル、などまだ未定義であるが、意識と無意識、理性と本能はごちゃ混ぜにしないで、層を体して対話、相互理解をしましょうという、結局はまともな話をしましょうというだけなのだが、それを確立しないと現状の無毛な浪費を繰り広げるだけで、正論からはやきもき、反対側というか最近は殆ど反対につけこんだ停滞させ屋さんには、しめしめといったことを繰り返すはめになる。
私がここに明言するまでもなく、数多の先人が嘆いたことであり、世界、人類、宇宙、時空かなにかを越えて憂慮されるかたであれば、とうに理解されてることであるから、書くまでもないのだが。

2015年9月4日金曜日

未だ個人意志と組織意志のはざまで漂う哀しさよ

未だ個人意志と組織意志程度のレベルでしか
議論できない現世の素晴らしさと哀しさよ。
それは前世もしかり、さてははるか古の無名の志士の
開眼に悟られ過ぎ去ってしまったことかもしれない。
それら数千万億年を経てしてもここに言う現状を
見ては救いようのなさに辟易されよう。
ーーーーー
活動を見るに前線にはそれらが呼称する「イデオロギー」は
入れ込まず緩衝材としてのみ機能させている。
つまりそれら表面に何も言っても彼らは取り付く島がない。
意志を道具として誇張しながら、当人たちの意志はないから
当然で、いくら本を読まそう、意思疎通をはかろう、
対話のスタンダードを知ってもらおうとしても彼らには
痛くも痒くもないのである。
読書制限、否、巧みな陣営依り情報の流布および
人権を気にして決して言わないが「義務」にかなり近い
レベルでの課題のようなものによって開眼を防いでいる。
社会レベル、現在の一番大きいレベルで言えば国で
やっているので浅ましい。
その辺はさすがなのであって、適材適所、これでダメであればそれを使う手法は巧みなのである。(既述、[如何に人民を誘導する術に資源を費やしたことか]参照)
とうにシミュレートされてるが貨幣を土台にしたシナリオである。
意志もなく不意に現世を優雅に過ごせることが確証できた
ものを見よう。現世の極みを尽くすのではないか。
敢えて言うまでもないが、見よ彼の上層部よ。
如実に近視眼的特徴を体している。
既述のとおりせいぜい良心的希少存在が居たとしても
数世代である。(と言われても仕方ない無限地獄で
あることを悟れれば変化である。「恥」と知り
ようやく変化するのである。ぜひ憤ってほしい。)
化けの皮を剥がすと「貨幣は嘘をつかない」を逆手に
取っているのである。しかし本丸はそこまで馬鹿ではなく
経済学によって秩序は保たれており、そういった
「バグ」も見事に排除されたのである。一体何十年前の
理論で臨んだのであろう。

2015年8月2日日曜日

分散ストレージ

モバイル端末もストレージ領域を提供する機構。
ネットワーク全体ではトラフィックが分散される。暗号化が鍵

"記憶再現システム"と組み合わせることで言わんとする目的が
より的確になる。
http://hirog07.blogspot.com/2015/04/blog-post_17.html

2015年7月25日土曜日

関わらないという選択

関わらないという選択も英断成り得る。

将来の有望も、安き族に阻まれてしまえば勿体ない。

族に囲まれしことは残念であろう。
しかし展望を滅するよりは関わらない選択を
取ったほうが英断である。

それを若年で悟るは難しい。
あまた悔やまれぬ英霊よ。

族に囲まれるという逃れ得ぬ運命的環境であれば、
決して逃げるのではなく、関わらぬという英断を
決行するのである。
それらの族は、そなたの社会的レベルには遠く及ばず
族・俗であることを良しとする者達である。
関わりを持つことの弊害のほうが、上から見ても
下から見ても大きいことは明明白白であるがゆえ、
しかし残念ながらそなたに加勢するものもおらぬが
ことゆえに、今は御身を隠すが英断なり。

見よそれら禍災をのがれ藪道(やぶみち)を通り越しき
ものたちを。
それらの根は気丈にしてもはや過去の禍根はみごとに
断ち切ってるさまを。

いかに勿体ないかである。
展望の芽を断ち切る組織的低族・低俗性。
しかしそれは、それら低族・低俗性は、それに立ち向かってきた
将来性・展望をより強くしてきたという過去を鑑み、俯瞰的に
有り難みを感じさえすればもはや恐れるもの・恐れることは
ないのであった。

いくばくかだけでも諸氏の約束された将来を救うことが
できるのであれば。

-- 後記
自らを断ってしまっては低俗の思うがままである。
社会的レベル・自分の口に出ぬ想いがそれらに勝っている
のであればその時点で勝利である。
歴史はいかなる強制に対しても自己の意志は明け渡さない
という歴史の積み重ねであった。(ここにおいて
数多の無念をいつでも偲ぶのである。みながここまでの
水準で人を見れれば世界は変わるのであろうが。
【対話のスタンダード】参照。)

以上はなるべく普遍的立場で書いた。
現状に照らし合わせれば、組織で言えば学校や会社が
当てはまろう。

学校であれば、遙かなるいく数年を真正面から、
体当たりで正々堂々と【関わらない選択】をするのであれば
それさえ突破すればみんな社会人なのである。

社会に出ればお互いみんなが初対面になるのであり
いまこそ虐げられた社会性をこれみよがしに発揮すれば
よいのである。これまで如何に低俗なソサエティに属していたか
肌身を持って感ずることができよう。
そこまでいけば自ずから許せるのである。自ずから乗り出して
それらを調査する必要はないししたくもないだろうが
風のうわさで過去のそれらが現在どうなっているか聞き及ぶ
こともあろう。よほどひどいことになってるものもおるが
たいていは彼らそれぞれの幸せを見つけて平和に暮らして
いるのである。
【幼少】とはそういうもので信条があろうとなかろうと自分を
最大限突っ走ってしまうのである。
(組織全体が過渡期であり、あるものは暴走性、歯止めのかからなさ
を哀しいながら現場を使って他者を酷使して学育していくのである。)
それが分かった時点でそれさえも愛おしくなるが、常に同じ組織にいて
幼い時分には反発しか感じられまい。
先ずはそれらも、ことが表面化しないように隠蔽・口実を駆使している
ことを知ることが足がかりになる。彼らなりに必死なのであることが
分かればちょろいものである。あな愛おしきこと。

本質の現れと思ってほしい。
低俗に翻弄されるよりは、数多(あまた)無念や禍根を想って
ほしい。そしてそれはそれらイバラをくぐってきた諸氏においてこそ
人の根としてまざまざと存在しうるものと実感したことを
想ってほしい。
実は我々はある程度問題の本質が分かって、切り口はある程度
限定される中で問題を議論できるのであるが、それをかいくぐって
きた実績を持って世界の問題に視点を転じていきたい。
本当の混沌であれば理論を使うものは愚になろう。幸い混沌ではない。
ここだけではなくあまたなる箇所において混沌に打ち勝つ
イバラをくぐり抜けてきたものがいるのであって、
今のイバラは正に相対する本質なのである。

足を動かしあとからついて来ることであるが、荷を【おう】ことは
日本人とかをおいておいて本質的にすごいことだと思う。
これらを明確にして議論する必要が有ることを何度も申し述べてきた。
明確にするために如何に体系化するかも示してきた。
相対するべきは数多(あまた)なる禍根でありその発生である現世であり
あるべき来世なのである。如何に低俗が低俗で、如何に相対するべき今が
何かで、如何に下俗に翻弄されるのもったいなきことが分かろう。
下俗に対しては【よしよし】として良きオトナになることを願うしか
なし。もしもこれを国家レベルで【読んで】くれれば幸いである。
人類として如何なる低俗も決して諦めず、決して見捨てないことの
表明がなされてきたこと、それを改めて明文化することの意義を
尊重したい。温かいものだな。)

2015年7月20日月曜日

残る・残すことをよしと思わぬこと

残ること・残すことをよしと思わぬこと。

我々(いまひろがりつつある「我」を含む)は
残すをよしとせず、それはつまり物質的に
残すは言外、道をたどって残すを恥ずかしいと思う
のである。

いろいろな階層をとびかってしまうがこれを
彼らにせんじせむればまだましになろうが、
内部でもざんねんながらせんずる必要がある
やからがおろう。
(それを「哀しい」とおもえる程度にならなければ
ならならないが、これを「読む」のは幾千年後で
あろう。馬鹿らしいが「読む」を「文字を読む」と
同義と捉えてほしい。いうまでもないことを書くこと
の忍びなさやさやあらむ)

ーーー
正論がヘッドの持論になること。
正義がヘッドの理念になること。
成果がヘッドの持ち分になること。
前進がヘッドの気分をあげつらうこと。
後退がヘッドの気分を損ねること。
正論がヘッドの意にそぐわぬこと。
正義がヘッドの理念にそぐわぬこと。
正論がヘッドの持論にそぶわぬこと。

すごい、コピペ(Copy&Paste or waste)で本質を
書けてしまった。
その哀しみを数年後、否、数百年後、否、数千年後
否、数千、数万年のあまたの表層に現れぬ
隠蔽した声にならない屈辱を今こそ受ければよかろうに。

(あまりこういうことは公開しないが、あまた数億人の
路頭に迷う方々がしのびないのでせめてもの救済と
おもい、言うまでもないことを、ありきたりのことを
良心のある誰しもが思うことをなぜかなぜか
文面としてブログとして書くのであって、
読める人が、否、読めぬ人も含めて残すことを持って
これまで行ってきた「下らぬ数千年」をようやっと
終えてまともな「対話のスタンダード」を確立するを
良しとするがままでである。
(何回言えばよいのだか、ようやくである。
げんじつはどれだけ遅れれば幸せなのか!?)
何度もは言わない。以上。

2015年7月12日日曜日

建設か破壊か

築きあげる土壌を形成するか、破壊者、組織的破壊者と
なるか。
その淘汰と見るがよろしい。
これを持って、どちらが正であるか分かるのであれば
イデオロギーに苛まれるものはそれを離脱するのも
英断であろう。

往々にして根本は隠蔽される。
信念と思いてフォローするも正反対に加担するが
如しは死ぬまで気付かぬが幸いであろう。

隠ぺいする、せざるを得ない組織体が根源であるが
(過去執筆の「組織論」を参照。)、本位がそぐわないのに
属す、結果として加担してしまっているものを
見るにつけて哀しいものだ。

私が言うまでもないが、幼いまま何千年も居座っている
亡国はおいておいて、それよりも現状としてはるかに
大きな問題としての、宗教的解決を図るための方法が、
解法があるのだが、知ってるものはそれぞれそれを
発表、表明するタイミングが掴めず苦慮しているのである。

これこそが建設であろう。

2015年6月21日日曜日

編集後記

世にはより大切な課題があるにも関わらず
何故こんなことに足を引っ張られ時間を費やし
次の課題に入れないのかと憂うこともあるが、
それが現状ということであろう。
あるときはそれら阻害因子の陰謀と思ってしまうが
それらは彼らの範囲の精一杯をしているのであって
上位層は気にもかけまいしかけるきっかけさえない
と知り、やはり開拓はそれぞれ足の下に有るのである。
諦めることも分かるし、諦めずに足下に足跡を
残したことも分かろう。

2015年6月20日土曜日

淘汰距離

世を見るにつけ阻害因子はスパンが短い。
ほとんどは利己に帰し、せいぜい長くても来世であるが
その根幹はやはり利己である。
残念ながらこれに気づかず能弁者もそれらに加担してしまっているが
操られ具合に早く気づき自分の目・自分の根流として能力をいかんなく
発揮してほしいものである。

さまざまな混沌を孕んでいるように見える現在だが前世の達観者からすれば
とうに明明白白な路線をただ惰性していると見られかねまい。

とうに解き明かされたことであるので、それをここに書いても
仕方あるまいが幾多の無念をしのびて、この手を借りよう。

お題目は以下のとおり。
・これからの展望
・スタンダードへの帰着
・それからの次次元への淘汰

ーーーー
これからの展望
「枠組み」を牛耳ったものの利己は通らない。
どれだけ時代遅れの発想を持っているのかと落胆してしまうが
ルールがないとこれほど荒唐無稽な、でいて自分たちはさも
世の覇権者風を恥ずかしくもなく生じてしまうものが現れ、
さらには徒労を組んでしまうのである。
残念ながらそれら認知範囲の狭いものは残念ながらルールで
行動範囲を規制するという、これまでやれやれと培ってきた
やれやれ規制で、つまり彼らがためにできた木しか見えない
ものへの温厚な対処法としてのルールをやむを得ず敷くのである。
時の流れ、換言すればエッセンス・本質を見ずに、これまで培って
きたものをさも自分の業績のように詐り、生を受けたことを
いいことに利己に走るがごとしが、時の流れが淘汰することは
必然である。
何時の世においてもそれら有意義な存在がいてくれることに
感謝である。(これがいつも言っていることの意味。皮肉では
なく、本質的に感謝するべきであることがこれで分かろう。)

ちょっと具体化していこう。
小さい子供が、と言うと小さい子供に失礼だが、わがままを言うのは
よしよしいい子だね、となるのだが、世に「公人」となったものが
言うのはまかりとおらない。これだけで十分理解できるが、彼らは
巧妙に(俯瞰者からすれば滑稽に)メッキされた海中を死に物狂いで
泳ぎ切り、最終的に息ができる海面に浮上するのである。
彼らが拵えた彼らで言う故人が培ってきた難解な海中迷路を。
それしか彼らには道はない。他の人達はどれだけ見捨てられてきたか。
言いたくはないが、あそこでは個人の実績さえも搾取される。
どんなに最先端の発明をしても個人ではなく、はかない組織のものと
なってしまう。現世が喜ぶ「もの」があたえられるだけ。
それを阿呆らしくうやうやしく有難がるか、牢屋に入るかである。
これもまた何億という数字の大きさが大切なのではないが、それら
幾多、幾億への侮辱の開放も至上命題であろう。
(前回の事変はああなったが、たったこれだけの気付きで変わる
ものである。時と気づきがリンクし波長がぴったり合う時が
訪れよう。)

たった一組織を見ていても時間の無駄なので次へ進もう。
(しかも以上は書くことさえ及びない低レベルの分かりきった
過去の古典的典型であるので。)

現在の価値基準である経済によってさまざまなルールが形成された。
なってみれば当たり前の基準だが、経済の正直な発展によって
「無謀」は抑制されつつある。
(逆に現物でやっと倫理をわきまえたということのほうが哀しいが。
もうひとつ言うと抜け穴を通ろうとしてる急先鋒がやはりあそこだと
思うと腑に落ちる。もういいか。)
分かってしまうと本当に書くことさえ忍ばれるのだが

.. to be continued..

2015年5月30日土曜日

没入

自己が正しいと「没入」すること。
いくらでも理屈はこねくり出せる。
森を見ず木を見ること。
没入すると迷いの葛藤さえ消え去り
あたかも根幹であると自覚しうる。

ーーーー
それが今まで言ってきたいかに最大の
客観者になるか、生涯、歴史を通して
色眼鏡をかけずに居られるかということ
である。

1代の強者、猛者はいるが、発揮するところ
およびその者の理念、根幹を見て残念な
ことがあまたあろう。
せっかくの気骨を持ったものを先導する
こともまた手口であり、もはやそれを
生命線してる節がある。
そこまで分かるくらいの分別があれば、最大の
客観も分かろうが、それは受け入れない、
理解しても最大限の忘却(過去ブログ参照。
忘却について)を駆使して代々の「ダダ」を
こねるに生涯を浪費するのである。
自己のリソースの浪費であれば「よしよし」と
悟らせればよいが、自己ではなくあらゆる他を
道連れに無に帰そうとする、そうなってしまった
ものが哀しい。
ここで述べるのはその救済の遙かなる時空の
一葉なのである。
すべてを無に帰そうとする、そのあざにしか
陥れなかったものに対して感謝し、
歴史を通して救済がそれらを温かく殺さずに
残存させる叡智を我々は知っている。
現在の陥れでさえ、それら過去の陥れの幼稚さは
知っているが如しに、現在の陥れは未来の陥れに
さえも幼稚となる。

せっかくの現世の猛者の盲者ぶりをみるがつけて
哀しいがゆえに、ありきたりのことを
延々と語ってしまった。

2015年5月23日土曜日

可不可

難しいが、出来る出来ないは、出来ない側からは及ばないのである。
及ぶ側もそれが分かると地平が開ける。

2015年5月17日日曜日

止揚統合状態

今はまだ数年、数十年、数百年、数千年で止揚しているが
対局側はより賢明にアホに、もしくはアホに賢明になっていくだろう。
今はまだ、いつしか接点を有しているため止揚しうる。
しかし、いつしか永遠に接点を持たない、時空的、精神的に平行な
対局ができてしまう。それが一次曲線的スピードなのか複次曲線的スピードで
進むか。
しかし、その永遠無業に平行するが、それでも同時空、同精神で
共存する統合状態が訪れる。
今の一次曲線的スピードであればそれは数年、数十年、数百年、数千年、
あるいは今のスピードから見れば数万年オーダーになってしまうかもしれないが
いずれ訪れよう。
当初から記述してきたことはそれさえ吸収した止揚統合状態の後の
ことであり、つまりそこがひとつの相転換地点と後から言える箇所と
言えるだろうが、それを超えたあとの事のほうがよっぽど大切で
あって、結局は現在の礎を知らない破壊者との無毛な表面上の遊びは
早々に切り上げて、手のひらに乗っていることをよしよしと暖かく
見守ってあげて、次の段階の話をしようというだけであった。
何時の世も見守られる存在が存在するのであって、存在してくれて
ありがとうと心から思わなければならない。

2015年5月16日土曜日

基礎

これを私が発表してしまっていいのかとも思うが世にでない以上はいいんだと思い出しておこう。
まずは赤子と心通ずる機構。これまでの目の前で回るもので近似的に対応できていたが本質はずれがある。つまり赤子はそんなにバカではない。
次は幼児に心通ずる機構。数々のおもちゃがあるが以下同文。幼年、少年、、以下同文。
ヒントは親の顔であろう。(ほとんど答えだが。。)

2015年5月10日日曜日

3次元基盤

サーキットはもはや3次元である。
3次元で実現する基盤をここに書いておく。

2015年4月17日金曜日

記憶再現システム

記憶を断片として重みをつけて保存。再現の手がかりを別に保存。
手がかりを引っ張れば、断片を結びつけて記憶を再現する。

インターネットのストリーミングはp2pで、全情報が必要だが、これによりトラフィックの大幅な縮小が実現できた。よかった。
ストリーミングに限らず、曖昧生が許容される情報であれば応用可能。
ストレージもオリジナルを記憶してるものがひとつあれば、他のノードは手がかりだけ保存しておけばよく、容量も大幅に縮小できる。

権利については他のブログと同様。

2015年3月20日金曜日

スパンの知覚

幼児は一日のスパンを覚える。
成人は季節のスパンを覚える。

長く生きて太陽の11年周期や
世代を継いでなんらかの周期を覚える。

歴史を通して千年オーダーのスパンを
覚える。

俯瞰により宇宙の寿命オーダーのスパンを
覚える。

2015年3月14日土曜日

事実

事実にまさる証拠なし。

よってこれを何者にも侵されないこととしてここに機構を表す。

つまり現存の冤罪は自動的に消滅する。

ーーー
難しい定義は以上として、求むるは以下。
数々の浪費戦が繰り広げられてるが、いくら口を大きくして
言っても事実は変わらない。現状は下手をしたら口の大きいほうが
事実を塗りつぶしてしまう事例が発生し得、してしまうという
取り返しの付かないことが起きてしまっている。
(標榜者が源だが、それを追認したものの、追認してしまった
ものの余生後世がただ哀しい。)

それを事実のもとに戻すのにいくばくばかりの疲労を要するか。
つまり唯の事実を、これ表さんとするがのみであるのに、
幾人、幾数十人、幾数千万人の労働を費やしていることか。
仕掛けた側の余程の暇人度にあっけにとられ、願わくば文字を読める
健常者であってほしいと願う(過去ブログ参照)とともに、
それを修復するために多忙な知識人が幾ばくばかりの労働を
費やさざるを得なかったか。
これ正にせっかくの安定という蓄積をただ阿呆のために
宇宙に水をまいて金をドブに捨てるが如しと認識せざるを得ない。
と、わずか数センチ俯瞰しただけの認識を持たぬということに
やはりお釈迦様も最初は匙を投げたいのであった。
しかし私はあきらめない。

事実であるが以上、言い逃れができない機構をここに表する。
阿呆がこれだけ肥えるが以上、必然ともいうべき、壁に耳あり
障子に目あり、「神様が見ているぞ」ということを自動化するのである。
(見方によっては嫌な世の中になったものだ。歴史を整理すれば
 必然であることが分かるだけだが。)

無益な浪費が、またそれをいいことに利用する、または
無意識のうちに利用させられてしまっている、哀しき者の
救済である。

2015年2月10日火曜日

PowerShellのslコマンド

lsコマンドのジョークコマンド"sl"がPowerShell で通った!と思ったら Set-Locationのエイリアスだった。。

2015年2月9日月曜日

JIS X 0201 の半濁点

JIS X 0201 7ビット及び8ビットの情報交換用符号化文字集合 の「゜」(半濁点)の名称が「KATAKANA SEMI-VOCED SOUND MARK」となっており、voiceのiが抜けてる!

2015年1月29日木曜日

発生源も含むメディア

発生源の情報まで含んだメディアをここに発表します。
例えば音声など。
これにより、ビデオは映像と音声が独立したフォーマットではなく、お互いに連携したフォーマットとなる。

左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...