2016年11月26日土曜日

建前の救済か本音の救済か

具体への落とし込み。

世には出ないが、こういうこと。
確かに恐ろしいこと。

層を違えればそれこそ混沌の議論になろう。
であるから出ないほうが良い。

とは言っても、力学として具体化される、
する方向なのでちょっとずつ出さざるをえまい。

2016年11月23日水曜日

文化

掘ればやはり力学なのだが、経済、軍事の
裏まで見ると(無論見えない領域がある。
経済ではいよいよグローバリズムが暴かれている
段階。)、やはり「層」を抜け出せていない。

掘り下げれば生への執着なのだが、この議論は
層をごちゃ混ぜにすると混乱するので
層浸透度により命題化すれば良い。

ある意味「全体」の「方向性」に「委ねて」いる
のだが、各値はどいういったものか。
これを俯瞰すると自ずと「層」が導かれるので
別に誇張はしない。(ただの発見者である。)

むしろこれを開示することによる影響の方が
よほど大きい。
畏れ多くも開眼と呼んでいる。
(最近、というかブログが出て100年も経ってないが
隠れ購読ブログとしてアクセス数が多すぎるのも
実はそういう「現世の『最大の』ことを考える方々が
読むもの」なのであるからであろうか。)

結論から言うと土であろう。つまり文化。
畏れおおきに涙する土に築くことでしかない。

ーーーーーーーーーーー
賢明なものであればとの昔にこれら、文化を
築くという1000年単位の事業のことは
分かっていよう。

2016年9月22日木曜日

還流システム

現代は途上が故に気付かぬかも知れぬが
いずれ文化の飽和が訪れるのではないか。

例えば音楽。おそらく現状からすればまだまだ
発展していこう。いずれブレや雑音まで科学され
「この楽曲」の意図を最高に表現する・した
再編が行われよう。
(無論「意図」も無意識から意識層まで網羅した
ものが今後もどんどん排出されてこよう。)

無論「文明」に「応じて」「文化」が発展すると
いう古典論は成り立つのであるが、より詳細を
分解すると飽和という相転換が訪れるのである。

その源泉のひとつは蓄積。現状で「驚愕」される
こととして蓄積能力の発展があるだろう。
というかそれが今や当然となりつつある。
そこにこれまで培ってきた継承。
継承の解明と、今後の継承がより明確化されること。
(明確化の一つとして「意志の直伝搬」を既述の
特許化したとおりである。乱暴に言えば心と体の
直移植。ソフト的に言えば「感じた」とおりに
ニューロンや体細胞が反応した通りに別個体に
直体験させること。)

これが末端まで及ぶと一旦飽和状態になるのである。
(過去から現在まで「分かった」感覚。)
それぞれの世界情勢、つまり今を生き切るものたちによって
右往左往するであろうがいずれそうなる。
また飽和した一刹那があったとしてもすぐに
次なる「今」ができ刻々と変化していくのであるが。

(別枠で書くが、世には主従を明確にしたい方々も
いるようであるから、そういう視点では実は
というか常なる本質であるが「明」が先で
現在大きい顔をしてのさばってる小手先は
やはり小泥棒をせいぜい数世代だけ謳歌してる
だけなのである。
(いずれこういった感覚も自然と醸成されよう。
というかそうさせないようにせっせと血眼になって
食い止めてるのが哀しき現状。)


飽和に至れるにあたりなりがあるか。
統合と止揚。
昔からもあるが蓄積化により、より統合は加速する。
例えば現代と平安時代。現代と江戸時代。
無論発信者は現代向けの発信なので起点は現代となるのは
必然であろう。
ここで発表するのは上記の例えで言う平安時代から見た
江戸時代。または江戸時代からの平安時代。
後者は無論ある。ただそれを「科学」として力学として
解明することにある。

その選択は数多。
しかし早かれ遅かれなしとがれる。その根本になる
歯車をここに記す。

100年。200年。

最初に書いた通り現状は途上であるから気付かない。
収束を導けば自ずから導き出せること。
そこで起こるのは還流であるということ。
これが今後ビジネスになるかもしれない。
現代の最高法を用いてここに、今後この文章を用いた
アイデアを用いた、これから発想を得た
いかなるものも、これを基とすることを
特許の精神に基づいて明記しておこう。
せっかくだから。

ーーーーーーーーーー
本質はその後にあるがそれはまた別枠で書こう。

2016年9月17日土曜日

何度もメッキを剥ぐこと

あまた繰り替えでしかないが。

ただ羨むのは公に義に煩いもなく猛進できる
直ぐなる心とそれをしっかり育み支える土壌
であろう。

まずこれを出発点にして考えを巡らすこと。
というかただそれだけのこと。

哀れなるかな、現代の理論や理屈や屁理屈は
どうかこの一点に、否一層に一相に少しでも
成分を寄り添わせてくれれば、儚きメッキも
ようよう剥がれてくれようにと。
一回や二回では剥がれ切るまい。
ただ剥がれる心地よさとして浸透していこう。

既述のスーパー忘却機構もこういう意味では
いかにベクトルを直角のまま維持し、同調
成分を「ぶれずに」保つかという、いかにも
困ったちゃんのやりそうなことを大の大人が
本気でやってみました感をまざまざと
大衆の面前で臆面もなく「恥」をさらけ出す
感覚に繋がるのである。なるほど。
(もはやそれに快楽を求めてる節は
もはや否めまい。哀れなるかな。
どれだけの繰り返しかわからぬが、
救済される最大の幸福者ぶり。)
(「裸の王様」とはそれをギリギリの
理性と混沌の境界を、理性と狂気の境界を
ちょうどよく出回るものに仕立て上げ
られていてすごい。「角」、「極」の
考察につながる。)

負よりのことを述べても仕様がない。
(それらは「よしよし」と温かく包まれていこう。)

出てるかどうか知らぬが、否知らぬはずはないが
所謂「征服と和」の構造が解明される。
キーワードとして出さないのか何なのか
如何なる統制が成り立ってるのかは知らないが
これまた所謂「声なき声」、「発言しない賢人」、
在野で発言する機会も時間もないが培われてきた
土壌で自然に育ってきた方々はとうに分かりきって
いることである。
統制側としてもそういうピープルパワーも知っている
が故の統制もあろう。

繰り返しすぎていとおかしいが層転換・相転換は
必然として起きる。統制が効かないからでも
一般ピープルが賢くなったからでもない。

おそらく統制は無論二重三重の対策を施していようが
それは津波に備えて土嚢を二重三重にするようなもので
もはや次元の違う話なのである。
つまりここにキーワードとして述べるまでもなく
いずれ自然に出現する類のものである。


逆に、明晰なる頭脳は如何なるとんずら劇を模索している
ことか。
失礼のないように述べるといかにちょこんと収まるか
ということ。
いずれにしても生かされ続けよう。

確かに「こりゃもうだめだ、救済しようがない」と
言って別の世界にでも行ってさじを投げたくなった
先達もわかる。
しかしそうしたら本当に崩壊する。端から見てれば
不謹慎ながら面白く見ていられようが、あっという間に
殺戮の地獄になる。
以前に多少「何故常に世界の言挙げ者をしなければ
ならないのか」と書いたこともあったが、そうして
しかるべきであるからなのであろう。
「やれやれ」も半分、「いざ」も半分。
まだまだ可愛いものである。あったと言っていい。


ーーーーーーーー
具体に欠けるのでもう少し。
所謂G、土俵作成者、そこで「本気で」動くコマさん
たちゲーマーは、ということ。
おそらく策謀をめぐらせ苦悩し楽しんでいる。
彼らに合わせていうとスパンが短い。
冒頭に戻る。
まぁいずれわかればよい。

2016年9月3日土曜日

それでよし

むしろそれで良いという結論。
到達は実質。
なぜ名目通りにならぬかやきもきするのは稚拙。
(記述発明の「ありのまま伝える機構」が実現すれば
イノベーションだが。)

情報は早くなったが継承はやはり遅いので
それを切り開くことが次のステップ。
と、ほぼ正解を言ってしまったので、ここに
発祥を記しておくので、以降は全てこれを
拠り所とする。

世界の大勢に照らし合わせるに、謙遜すると
ほぼ当てはまることが哀しいくらいのことだろう。
それくらいで済んで良かったと思う。
まだまだ解決することは数多ある。

テリヘンテは遺憾なく解明してほしい。
無論指数を知っていよう。
せめて賢しく食い止めるか、より賢しければ
次を見据えること。
既得は、やはりというべきか、しがらみに
束縛される、というかされている。とほほ。
まぁそれが鐘の音といった風情を身を挺して
現代に再現してくれることを後世は
ありがたがるだけのことだろう。

どうやら頑張って食い止めているが
記述の通り力学は動いているのである。
(せちがないので書くが、出処はここである。)


2016年8月23日火曜日

大道に誤り反するものをも取り込む

層がしっかりしていれば内包することも可能であり、これが今後のスタンダードになる。
大道に背くみみっちいことを進んでやってくれるのであるから、ありがたや。

2016年8月17日水曜日

見方

世には出ないが、国レベルでよほど遅れてなければ
算出されてるであろう見方。

リスクアセスなど拡張すれば自ずと導かれるので
大した話でもないが倫理面が大きいので世の
メディアにはそうそう出現しない。

つまり「酷さ」の数値化。
残虐性・個体数・壊滅度・などなど。
あまり出したくないが上記の通りなので
あくまで「とうに算出されてること」が
たまたま民間まで知れ渡って滲み出た
くらいの話。

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これをやると大きなパラメータとして
伝承性というかいつまで伝わるかという要素が
出てくる。
(長期的に見る視点。その他にも「半減期」的な
自然的忘却要素も長期的には大きなパラメータ。)

恐ろしいことに伝承性を0にできればいかほどにも
おぞましいことをしてもチャラになるのである。
(数値上は。)

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というのがようやく現代の到達地点といったところか。
悲しいことに。

この数値にいかほど踊らされてきたかということ。
これまで述べてきた層理論は上記の机上の数値は
手のひら加減もいいことは記述を参照していただければ
自明であるが、
では何故、今だ阿呆のごとく過半数が踊らされており
その自覚さえない状態のまま、「成功した」とか
「失敗した」とか言ってせっかくの生を「謳歌」して
いるのか。

今回は切り口を変えて、以前にも述べたように
より具体化して事実を述べてみようと思った。
常に言うように具体からしか学べないのは悲しい事
である。しかし幸い人はいつからでも変われるもの
なのである。多様な切り口があって良い。

ーーーーーーーー
余談になるが上記「数値化」をすると世の「情報戦」の
メッキさがまざまざと浮かび上がる。
(彼の地のおエラ様が昼夜を捨てて練りに練ってひねり出した
大虐殺うん十万人とかいう数値も、いざ全てを計算して
比較すると、、、まぁ推して測っていただければ良い。
嘘で勝とうとするなら数十万というのは見積もりが甘すぎる
のでないのだろうか?というのがせめてもの皮肉だろうか。)

それを現代の最高レベルとして、はなたれ小僧に映ることを
了承した上で発表してしまうことも「賞賛」したくなるし、
さらにはその情報を神を崇めるように強調してしまう、
なんと形容して良いかさえわからないが、例えば最高学府を
出ているようなものがまんまと知識だけでワッショイされてしまうような、
「成人」から見れば大きな大人が駄々を我が物顔でこねくり回しているような、
層理論で言えば未達の層のものが手のひらで「世界は我がものだ」と叫ぶのを
聞くような、、、ものたちも「賞賛」したくなる。最高の幸福者として。
それらがどれほどカオスを知っているかは知らないが、
本気で幾世のカオスを所望しているのか。
そのものの「本世」ではいくらでも好き放題できよう。
「禍根」とかを簡単に言うものがおるがそれは身のサビを落としてから
始めて発するべきである。アホすぎるものに対して世界レベルで
「ダダコネ基準」を作らなねばならないのか。哀しすぎる。

本当の禍根は原初に帰す。常に述べているのはここを「普通に」、
論ぜねばならぬということ。
常に言うとおり層をごちゃ混ぜにしては成り立たない。
(彼ら左だか右だか上だか下だかの戦法は撹乱、引き延しである。
あわよく風ふかば世論に乗っちゃってみたいな。気楽なものだ。
こういった次元を憂慮した上での「対話のスタンダード」。
決して排除ではない。ようやく社会にも認められてきた
差別とは違うことも認識されてきた「共栄、共存」の話。それだけ。
紙面を浪費するものもったいないのでもはやこの議論は他に譲る。)

ーーーーーーーーーー
あえていうが、上記数値は低次の数値化である。
上記の通り「層理論」的に感情を抜きにして論ぜねばならないが
世にでると数値ばかりが躍り出てとんでもないことになろう。
こんなものが世のメディアに出れば速攻左から右からやられるであろう
ということ。
いくら抑制しても、前提を書いても、それを読む前にメディア側が
パニックになるから民間にも伝達してしまう。悪いことにはとことん
冷静なのに扇動には極端に短絡なのがメディアの常であり、そうである
からこそ使いやすいのであろう。皮肉なのでメディアの体質の根本くらいから
変えるくらいの変化をしたほうが良い。(スーパー忘却機構を使えば
次世代に繰り越せる。)



2016年8月10日水曜日

端を発する

さらに進めよう。

端を発するなら、彼らの脅威は
発するべき「端」がないことだろう。
まさに右往左往の状況。
(賢しく縦横無尽に駆け回ろう。)
以上。

囚われの有無

さて以上を前提として本論に進むが
本題の通り囚われがあるかないか
がまず大きい。

方やある。方やなし。

まず発端として。

安きに勝るか

極限に簡素化すればこういうこと。

「安き」は深遠させぬための餌といったところ。
目の前の「安き」を本気でそれこそ数千年を費やして
踊らされるは情けない限りだが、
それら「安き」演出に引っかかってもそれはそれで
無駄である。
(散々述べたので記述参照。)

幾千万年後には、「たった微細な私利が幾万倍の
仇となる」とこれだけを知ろう。

ーーーーーーーーーー
今の格好の餌である、まんまと「せいぜい数世代のためだけに」
思い上がってる幸福者を見るにつけ、なぜ瞬時に反面を悟らぬか。

とうに終焉しているはずだが、自身の「遅れ」を恥とも
感受しえないのだろうか。(疑問形にするだけもったいないか。)

操り人形、つまり数千年を費やして意思を放棄してきたものに
感受を問うても無駄であるということか。

つまりその裏、操る源流を知れば良い。「操った」と言い切れる
ものは存在しない。
その「恐れ」は「安き」私利に行き着く。
数千年を後悔してももう遅い。
恐れをなくすために原因を取り除こうと、こういうわけだ。
その具体・具象はない。時々として現れたかもしれないし
現れるかもしれない。

ーーーーーーーーーー
「絶対」は存在しない。むしろ層が違う。
「絶対」云々する方から見たら絶対的に見える。
その云々する層で例えば次の数千年を一から培えば良い。
(その途上で気づいてくれれば)

層が違うので何をしようが変わることはないのだが、
層が見えぬものには哀しいかな渇望してしまうのであろう。
ましてやそちらの言う「層」で頂点まで行き詰めたのに
はるか足元にも及ばぬとはあってあるまじき、
といったところだろうか。

ーーーーーーーーーー
以前、悲しきお隣に「うらやましがるのであれば
内面からうらやましがればよかろうに」と書いたが
実はその裏への言葉だったかもしれない。

現在は現実の表面で決まっているが、つまり
ベクトルに抗うことができていないが、
内面の総力の発揚が、常に述べている通り
本当の命題である。

(土台は信頼であって、…というのはあまりにも
繰り返しなので記述参照。)

無論悲観の意はないが謙譲として「礎になるしか
致し方なし」の意なのである。

これを脅威として、せいぜい数世代を謳歌したければ
人知れず土を遺憾なく盛れば良い。

ここに記すまでもなく、すべての現世の上記の層は
常に述べている通り力学的に層理論で言っている
層によって相転換する。(層によって相転換とは。)

ーーーーーーーーーー
たったこれだけの「安きに勝るか」の現世であったとしても
それも天命であって足がかりだけ残せて幸いである。

土台を押し上げれれば幸いであるが、未だてんでバラバラに
いくことを案じて「対話のスタンダード」を制定した次第である。
哀しいものは基準・ルールでヨシヨシするしかないと。とほほ。

どうかせっかくの一生・一国の主人であるなら
せいぜい字を読めるくらいになってほしいものである。


2016年7月28日木曜日

裏の危うさ

世の流れは見たとおりであるが、危ういのは
世界中がそれをネガティブに思い始めるときであろう。

「どうしようもないな」というのは主導部であって
その他の一般多数は「まとも」さがあるにも関わらず
上記レトリックにかかると、それら一般も含めて
「敵憎し」に陥ることである。

そうなると一線を越え、タガが外れカオスの到来、
影でほくそ笑むものの思い通りである。

まんまと踊らされるのも情けないが、ここを
抑えとかないと、やはりほくそ笑むものの
嘲笑の対象になりかねない。

ようは一般レベルで常識となれば、例えば過半数(おそらく数十%)が
一般知識として抑えておけば攻めようがなくなるだろう。

層理論を通せば「なんだ、そういうことか」くらいのことでしかないが
世の流れの裏でせっせと思惑を蔓延らせるものに二人に一人が
気づけばそれらは動きづらく、やがて動けなるというだけのこと。

よくぞここまで世界中の批判を集中させるものを作り上げてきたものだし、
まんまと口車に乗せられてあたかも世の正当性を誇示することが全てだと
裸ん坊ぶりを披露する輩はせっかくの数千年を振り返ると情けないことで
あるが、裏の流れとしては順調に進行していることを喜んでいよう。

実態があるかどうかは分からない。
確かなことは自分自身が知るかどうかということ。
記述の通り考えはいくら食い止めても海でも山でも壁でもインターネット
規制でも乗り越えて伝播するのであった。


2016年6月18日土曜日

なぜ皆無か

現在進行していること。
先の変化は世界規模の既得ルールに楔を打ち込んだ
ということ。

「自ずからの無謀で陥った」という程度の伏線しか
しけずにそれに全精力を傾ける輩はとうの昔から
蚊帳の外であるであるが、やはりそれをいいように
使おうとする輩もいる。
わっしょいさせられて踊るさまは見ものだが、
層を見据えて言えば存在が皆無である。

という意味の「皆無」。

2016年6月5日日曜日

醸成

では現状に当てはめてみよう。

事実を無視して大陸は常に年中無休で四六時中
サーフェイスはバッシングをやめようとしていない。

力には反作用があるらしく(賢しいヒトが考え
抜いたらしい)バッシングされた側も自然と
反発・反抗心を持つようだ。

これを醸成という。
憎しみの醸成。これが醸成されればお互い理性に勝って
麻痺した主体性を鼓舞できる。あわれ。かたやおもん
ぱからずもがな、の境地であろう。
(私から言うとそう思えるものこそをが慮らずもなのだが。)

哀しいかな、あちらは踊らされ上手で本来の内部醸成は
何千年経とうが醸成されなかった。それは忙しかったから
仕方ない。
(面目上、そうはっきりと史実に残らないように処理され
ているが。こちらも最低限大陸の面目を守るようにしなければ。
とこう書くと、現在は左だか左が短絡して踊り出すから困る。
レールの加担者であることを例えば80歳位になってから
知ることになるだろうから現在は関係ないとでも思っている
のであろうか)

簡単に言うと戯れ合いがしやすい状態が醸成されている
ということ。レールとして。下車は不可能。
今回の増税のニュースで分かったかたもいらっしゃると
思うが財務省の「既定路線」があるわけで、それを
変えることは容易では無いのである。
上記の通り踊り上手なあちらは日に日にやる気を
増している。(そのお隣もたぶんにもれず)

ではレールを見てみよう。
敷いた側は見えないところで大はしゃぎしている
ことをその物陰から私は見ていることにしよう。
こうなると時間の問題。なぜ彼らはドラマが
好きなのであろうか。


前回記述したとおりこちらはその冷徹なレールの
上を行く、それらにとっては更に冷徹なレールを
敷かざるをえないのである。(悲しい歴史として
名が残るのであるから良かろう。)

本人には気付かないように敷くので
問題ない。

2016年6月4日土曜日

仕組み

では、仕組みについて。

仕組みを組み上げる側は機械であると思ったほうが
分かりやすい。
その仕組・レールを敷けば全ては自動機械のように
動作さぜるを得ない。

あそこで鬱憤が溜まって(溜まるであろうから)、
あそこに波及し(波及するであろうから)、
あそこで血が流れ(血が流れるであろうから)、
こちらは安泰である。(食いっぱぐれはない)
(その後の処理はもはやおまけぐらい)

さんざん既述した通りなのでこれはもはや前提。
(むしろこういった冷徹な判断はAIにさせる
ことになる。というかあちらはAIに従わざるを
得なくなっていくだろう。「冷徹」な「正解」を
やすやすと与えるのであるから。(実はここに
正解の糸口がある。))

改めて言うことととすれば、あちらの冷酷さ
加減に応じてこちらも冷徹に対処しなければ
ならないということ。

どこ向きのことであるかを先ずは考える。
感情が入ることがむしろあちらの思惑であることを
肝に銘ずる。
踊らされている首長の元の民は何の罪もない。

もしも何かが居るとすればそれはもはや血の流れる所は
見向きもしていないであろう。ただ想定通りか
どうかを見るのみ。

しかしもう一つ付け加えるならばそれさえも
時代の申し子なのである。
感謝すべきである。

どうやら現在は経済で牛耳れるようである。
確かにいくらでも冷酷になれよう。

結局、経済を社会実験してる?
(大きなパラメータとして流動性)
にしてはお粗末だ。
かと言ってプラレールの動くのを一生懸命ながめて
嬉しがるぐらいの知性しか無いはずもないので
求めているものがものすごく中途半端なレベルに
しかいられなかったのだろうなと想い労る。
申し子なのでそれで良かったのだろう。


アボカド


アボカドの葉。
このように静止画にして至近距離でずっと見てると葉の裏から見たように見えてくる。一旦そう見えるとなかなか元の認知に戻れない。aerialのようなものである。(画像処理のお題目として使用していたビル街の鳥瞰画像で白黒・上下などを反転させた画像のこと。当時は画像分野の一般的な教材と思っていたが、いざGoogleしてみたらぜんぜん見つからなかった。)

明るい部分の膨らみと、葉脈の浮き彫りとの葛藤。

どうやってAIに認知させようか?
リアルタイムで見ていれば3D認知(4D認知)が機能するので誤認しないが、
静止画が故に起きる現象。
人間でも錯乱するからAIも認知不可とするか、諸条件から
「これは葉の表である」と認知して人間の認知を超えるか。

「箱の内側・外側」認知のように内側に見えても外側に見えても
どちらも正解の50%:50%の状態がある。
そこに諸条件を加えて内側が正解なのか外側が正解なのかの
境界値を導き出すことは可能。これは認知ではなく計算しつくされた
「メカニズム」側の答え。
現実世界の諸条件を加味しようとすると計算量は発散するので
やはり認知側が必要ということ。

いずれ「メカニズム」的に追いつかれるかもしれない。
そうなれば何が厳密な「正解」かを逆に問われだして
「正解待ち行列」ができそうである。

そうなると極値解を与えてどうなるかを見てみて、
の繰り返しになろうからいかに最良の極値解を与えるか
の競い合いになるのだろうか?

なんだか多段カオス理論の様相である。(でしかない)
分かりやすく言えば、培ってきた・積み上げてきた土台も
仮定から始まってるかもしれないということ。

なぜものをものと認知したほうが都合が良かったのか。
なぜ青色を青色と認知したほうが都合が良かったのか。
なぜヒトは紫外線は認知しなくてもよく、虫は紫外線を
認知したほうが都合が良かったのか。
認知とはつまり原点回帰なのである。
(そしてそれが淘汰に繋がる。)

認知を変えて淘汰されても生き延びる・生き延びた・
生き延びたであろうパターンがあってその土台の上には
どういった個体・集団が形成されるかを調べることができる。
(認知レベルはいくらも変えられる。一瞬前から根源まで。)
いずれ研究されようが、未発なのでここに確立しておこう。

認知を変えた世界で醸成される理論もあろう。
そこまでこの理論の範疇にしておく。
つまりシミュレーションなどで形成された個体や集団や
社会などで生成されたそれらの生成物および抽象
(考え方、アイデア、過程、感覚、決め事、法律、経済、
科学、哲学、美術、芸術など全て)は
ここに帰結する。
(せちがなくて悲しくなるが致し方ないことは既述の通り)

以上がアボカドの葉を見て思いつくまま書いたこと。
(これをとっかかりにされても困るので、
アボカドの葉は論理展開の発端に成っただけであって、
オリジナルのアイデアは、そのとっかかりの有り無しに
関わらずここに存在していたので動機ではない、
ということを一応書いておく。ふぅ、なんだこれは。)


2016年5月27日金曜日

脱却の解明

戦後史観とかそこからの脱却とか言うが、結局
いつ戦勝側のしめつけが解かれたのかがどこにも明解されてない。

これを明解にすれば琉球も自ずと解決する。

結論を端的に記すと、戦で当時のあちらは勝ったが
「層」では勝てなかったということ。
まんまと吸い上げようと思ったがどうもそうも
いかない。何をしてるんだと上官というか本土など
からけしかけられる。
あれよあれよと復興し止めようがない。

経済では不安定要因が、俯瞰する側からすると
キーファクトであったりする。つまり置き土産。
というかあからさまな腹いせであろう。

この層を見てしまえばこれまでも右だか左だかも
「なんだったんだ」とはっきりと認知できよう。

まずはそこからということ。

敢えて追加すれば、まんまと右と左で想定通りに
不安定化したとほくそ笑んでいたであろうが、
すでにそれさえも吸収しつつあり、
最近表面化している通り明らかな焦りが噴出
し始めているということ。

いかに賢しい(というか、たったの騙し上手だけで
ずる「賢い」だけであったと後世で評価されるのだが)もの
であっても、結局「層」が捉えられなかったのである。

いかほどに手のひらの表皮具合であるかが
分かるであろう。
(どうぞ焦って層理論をにわかに研究されれば
よろしい。いつもの繰り返しでしかないが。
前回記述したとおりむしろ浸透しないほうが
反比例するのであるから、いつもどおり
おとなしい考察だけを残しておこう。)


2016年5月14日土曜日

経済で詰まれること

経済で自国を守れないとかように悲惨である。
挙句の果てにははけ口をもの優しい隣国に転嫁して
しまう有様である。
(「覚悟」のない風土・歴史まで見計らって、つまり
一線は越えないと見切って達成したのかもしれない。)

おそらく根源はそれらはこのまま駒として動きまわって
欲しいであろう。
逆説は末端まで仕組みを知ってしまうことに
怯えていることであろう。

必然と陰謀とあろうが、仮にまんまと仕組みを作り
上げたものがいるとすれば、それはその仕組が
知れ渡ることを恐れるのである。
無論これはただの必然で成ったというものもおるし、
仮想するなら当然抑えるベクトルが効いているはずである。

経済で「詰まれて」しまった組織はそのベクトル
(「魂」というとしっくり来るか)まで
従うかどうかということを目の前に突きつけられている
ようなものである。
もしも従うならどうぞ後悔のなきように。
そうではなく如何に侵されようと最後の核があって
それさえは明け渡さないというのであれば、幾世を
持ってしても、平易に言えば自国を取り戻すには
数十年かかろうが徐々に回復していこうという覚悟を
末端レベルで持てるかということになる。
(それの核のなさが心配であるが。まさか何百年・
何千年の計としてあの民度を作り上げたのであれば
あっぱれである。歴史を見る限りはそういったスパンで
局所に集中的に謀略できる組織はないので、必然としての
民度(とほほ。)だと思われるが、謀略は知れずしてこその
ものなので一応可能性は残しておこう。)

いずれにせよ三世を売れるかどうかということ。
(詳細は「自由獲得の歴史」参照)
「売れぬ」というのであればではどうするか。
ただその土俵に正々堂々と乗るだけである。
つまり上記それらの「恐れ」に対し「知る」ことで食い違いのない
知見のもとで対話ができる。あとは原始的多数論。
解決はいつか知らぬが解はとうにここに明記される。
ただそれだけ。

ーーーーーーー
優位層の常であるがシナリオがある。そして対処がある。
最悪の場合は火を放って表から消えるのが常套手段。

それらの知る手段としては、詳細化はされつつあるが
表層のパラメータしかない。(あとはマークしたものの
詳細。マーク率の向上に勤しんでいよう。)

例えば対抗する論調が出ると一時的に加熱するが
それに対しては対処がすでにある。

よってこれが全く認識されないことが希望であろう。
層理論の歯車を手のひらの上で止める滑稽さに
気づけば賢人であろう。


2016年5月13日金曜日

簡易版

よりシビアな話に入るとすると
相手が模索なのか一方なのかということ。

模索であれば懐柔、一方であれば徹底。
別に昔からである。
違うのは層をごっちゃにしないことだけ。

いわばその現代の曖昧さを突いてきているので
必然として層の明確化がなされるのである。

後からすると「なんだ、それだけか」となるが
これまで同じことを数多の方向から言ってるが
なかなか浸透しないことこそが、「層」の浸透の
困難さであろう。ただ、いつ「堰」を切るかだけで
あろう。あらゆるところがそのコントロールに
走ってる状況である。

2016年5月12日木曜日

使われよう

では例えを。
(「では」と言うがただの繰り返しであるが。)

そちら側へは「どうすれば取り分が増えるか」を徹底的に
考察してもらうのである。(それらの原理として)
それらの尊厳も守られ文句の出ようがない。
(最大限の足の引っ張り方など既述の通り)

自己検疫といえよう。
それらもそれらの「使命」で活動するため尊厳も
守られる。
如何に哀しいかはさんざん述べたので繰り返さないが
これが内包するということ。

「拒否を選んだもの」の必然の結果である。
どうぞ「永遠」を与えよう。

2016年5月8日日曜日

原理を知ること

例えば経済で言うとそちら側の発想は
いかに易きに甘んじて肥えるかということ。

原理として「支えあい」は無くしようがないのだが、
それをいいことに堕落する方向性・ベクトルのような
ものがあちら陣営の源である。

支え合いが必要であるように、哀しくもこれら
すがるものの存在も必然である。

現状は同一レベル上でまんまとすがられている
だけである。

本来はそれら活動の可能性を自ら辞退している輩は
もはや発言権も拒否しているはずであるが
いかにも雄弁にのうのうと主張を言ってのけている。
(そちら側への誘い、煽り、揚げ足取りも得意分野で
 ある。正に肥えるためならなんでもするのである。)

ただそれだけ。あとは既述「「よしよし」と扱わざる
をえないもの」などを参照。

ようはそれら拒否者は本人には気付かれなくても良いので
そっと温かく内包してあげれるくらいのレベルや体制に
なりましょうと言うことであるが、そのためにそちら側の
原理をレントゲン写真のように広く視覚化することが
一助になるということである。


2016年5月7日土曜日

誰もがつくり話をしていた時代

むしろこれに焦点を合わせて良いのではないだろうか。

そういうアトモスフィアであったと。
そうでは無い本流、層理論があるから
次に繋がるのであるが、「捉えたい」側への
口述として。つまり餌として。
幾重にも踏まえての極言であることは
言うまでもない。

詳述さえ不要であるが対価と金銭と幸福が
同一の環境で共産下にいて本当に満足で
あったの言うこと。
大小の影響の大きさはもはや繰り返さないが。
(既述の通り)

2016年5月5日木曜日

では

では述べる。

土台か表層かということ。

現代で言う高次的「学問」に恣意が入りうること。
(それはゆくゆくは「学」ではなく止揚の一極で
あったということ。)

原点に帰するということ。
経済とはなんであり政治とはなんであり社会とはなんであり
個人とはなんであり人とはなんであり有機体とはなんであり
。。。
現代はようやく政治くらいで逡巡しているくらい。

これが土台に帰する流れ。
例えばその時点で陸しか知らないのであれば陸全体を知る
流れ。海底まで知ったのであれば海底全体を知る流れ。

他方は利用する流れ。
陸を知るものから全てを掌握し、海底を知るものから全てを
掌握する。
いわいる後追い。どんどん開発研究してくれと願っている
ことであろう。

いつも言うとおり分かりやすいものを利用し続けてきている
のがあるのであるから、さすがにこれくらいは対策をもっている
であろう。

ーーー
毒されていると何を言ってるのか分からないだろうから
では再度。

土台は例えば水面に液体を垂らして深層に流れる側。
表層とは水面の表層に漂う側。
一現象に対して表裏一体であり、力学的にもまた
現実の過程においてもまさに生身の生を持って
立証されてきた事実。

よくぞ表層をふわふわと漂ってたかだか数世代の利己に
漂っていられるものだ。ではどうぞ最大の幸福を提供して
くれようと思ってしまうものである。
(たったそれだけで満足できるのであるからかなり
安上がりである。)
それよりかは土に足をつけて今生を全うしたほうが
私はよほどよい。

いくらでも観念的だとか誹謗すれば良い。分かりやすいものに
流れる風潮を作った源泉にむしろ合わせて喩え話をしたに
過ぎない。
(ああいえばこう言うのがあちらの特技なので、(というか
それしか能がないのだが)せいぜいこれを論破できる論理というか
屁理屈をこねる段階で、必然的に屈するより他ないと
一握りでも良いから聡明な言葉を分かるものがいれくれれば
よい。1%であったとしても積み重ねれば大きな蓄積になる。)

2016年5月4日水曜日

とっくに転換期は越えて

とっくに転換期は越えている。

例えば民意の所在や資本の根源の遷移など。

転換期であることをことさら蔑ろにしようと
していることがむしろ明白。

つまり転換期で打破できるかということ。
哀しいかな最大限を手のひらでせっせと工作しているが
層が違いすぎる。
違いすぎる層の渦の前にもがいているだけであると
総括されよう。

卵が先か鶏が先かという命題が未だに成り立つことが
奥ゆかしいがちょうど発端をたどると同じになる。

極大の大団円という途中経過しか見れないことを
嘆くか、大団円という歴史の節目に巡りあったことを
幸と思うか。
言い過ぎたのでこれ以上言わないが、たったこれだけに
幾代を費やしたかということ。(言い過ぎてるので
あとは既述参照。)


黒幕は賢しいと言われている、軍師が居ると言われている。
そこからの疑問になることが哀しい。
原点に返る。

2016年5月3日火曜日

対談について

対談についてであるが第一に
民意はメディアはあらず。
と過去に言ったとおり。

もはや(というか最初からであるが)先導するしか
道がないことを示している。
(言わんこっちゃない)

以上であるが、どうせ最大限引っ張るのであろうから
別枠で書いておこう。
(正面切って対抗すると「しめしめ」となるので注意。)

これまで表層部で済んでいたが、今回はどれほどの
中枢具合かということ。
理論として力学として出したので個別に意見して
私情でも入っては困るのであるが、今回のそれは
自陣営と他陣営を同時に煽る格好の切り札を
ついに切ってきたとも見えるが、そんなに浅いのか
とも疑われる。

レールが敷かれたメディアは最大限の発信をする。
記者一人ひとりまで落としこむと、「自己の正義・使命」まで
言わしめるレールである。(何の疑いも持ち得ない状態。)

いかに作られてきた「民意」であるかという命題に戻る。
民意はメディアはあらず。

ではインターネットかと短絡は飛びつくがそうではない。
(おそらく今回の発表は賢しくもそれくらいの反応まで
見据えたうえでの発表のように見える。)

世にでてるいわいるメディアは当然で、それを視聴してるのが
どれだけいて、その他にメルマガがどういったものが出ていて
読者がどれくらいでを調査したうえで発信の効果を
シミュレートしている。

上記はかなり当たり前を繰り返して書いてるだけにすぎない。
構造を知れば、つまりなぜここまで周到に抑えられてるかという
逆説は「目覚め」を恐れているからだけである。
今回の無恥は(というか常にだが)それこそついに生身の
裸体をさらけ出したか、といったところか。。とほほ。
(と読まれることを読んでいるはずなので、とりあえず
今回は表面だけなぞっておこう。)

2016年5月1日日曜日

Smart suggestion

ユーザが迷っていることを検知して機能を提案する機構。

対象は主に以下。今後いくらでも追加可能。
・スタートメニュー
・Windowsでいうメニュー(ウィンドウ上部のもの。命名の問題ではない。)
・Macでいうメニュー(画面上部のもの。命名の問題ではない。)
・端末で動作するアプリケーション
・Webブラウザで動作するアプリケーション
・その他の全てのいわいるOSで動くCUI,GUIを含めた
 全てのUI(人とも限らない)
 よって機械間のUIも含まれ、すべてのプロトコルも含まれる。
・OSに限定せずシステムすべて
 (つまり全てのアイデアを内包する。)
(せちがないが今日はこれくらいにしておく。)

ーーーーーーー
これはむしろ対ヒューマン向けの機構である。
例えばメニューを行ったり来たりしてることを検知するのである。
(「この流れではこれをしたいのはあたりまえだろう」を救うのである。)
(上記の「流れ検知機構」も出しておく。
ユーザ操作の順番や、マイルストーン通過状況(いくらでも拡張可能。
その全てを網羅、将来発生するものもここに帰着する。)を把握して
次の要求に対する答え・提案をサジェスチョンする機構。)

逐次追跡ポインティングデバイスのほうが分かりやすかったかもしれない。
しかし突発追跡型であってもいろいろな入力補助によってヒューマンは
追跡可能である。
(であるからしてのこの先行発表である。)

コード文鎮

仕組みはごく単純

コードのズレ落ちをさせないために、コードが自然落下や
ある程度の引張にも耐え得るくらいの重量を持った文鎮。
コードが通るくらいの溝があるが、コネクタ部はすり抜けないくらいの
幅のみぞである。

一つのコード文鎮に複数の溝を持つことができる。
(一応0から多としておこう。)


2016年4月29日金曜日

左機構

手を下ざすとも回転するのが一番。

左機構を公にしておく。
(逆説は公でなかった。つまり公にしなかった、
したらそれらにとって即終焉を意味するので出しようがなかったので、
ここにその機構を明記して新規アイデア・機構として
登録してしまおう。出さなかったそれらは
このアイデア・機構の副産物の位置付けになる。)

まさに格好の餌である。
組織が出来上がり徒労が出来上がり
ノードは自我だかアイデンティティだか
自由公平だかで生涯を手をくだざすとも
自ずと回転する。

その餌の出処はどこか。もはや階層化されすぎて
末端は操り人形度は、はなはだしい。
(否、自ずから「リアル」に人生を貢という名の
享楽に差し出し・投げ捨てている。)

面白いことにそれは個人発言はしない。
この統制力は大いに研究済みであるが必ず内部で問題提起して
吟味したうえで、最適の時期を見計らって最大限の発信を
するのである。
無論パワーの最たる発揚であるからテーブルに出るようなものは
相当を握らされ、最低限の成果を残すためには自己を滅却しても
その場の雰囲気に影響を受けてはならず、つまり託された
「声」だけ出しさえすれば任務を全うできる人形と自分を
置き換えて交渉に臨むのである。(どれだけの恥を臆面も
なく曝せるのかという発表会・演芸会になりつつある。)
それを終えれば約束が待っているからである。

この「餌」は確かに現世の大の大人の集団を左機構に当てはめて
しまった。(というレベルでしかなかったという自覚を
するかどうか。)

別段たいりくがなんだとかはないが、極論は考えてないが、
むしろ「その後」にようやく地に足をつけ、歩むことを
学ぶことに気付いてもらいたい。恥を知るのは自ずしか
いない。ましてや先賢を生み出してきたところである。
馬鹿ではない。

ーーーーーー
いつもの繰り返しであるが解決策は簡単である。
「文字が読めるか」である。
逃さないように「対話のスタンダード」を制定した。
(補助として「忘却機構」を明らかにしておいた。)
数年前の放送局の裁判は正に対話のスタンダードの問題なので
一からやり直せば良い。(解釈を自由に変えれる
現代は幸いであったと言われよう。)

だだこね困った坊やを「演ずる」のがそれらの
手段である。裏は馬鹿ではない。裏では次の
次の次ぐらいまでは考えている。
よって正当に次の次の次の次の次くらいまで
正々堂々と待ち構えれば良い。
と表で言うのであちらはその次の次を陰謀しよう。
こちらは正々堂々とその次の次の次の次を
待ち構えればよい。
誠に浪費を感じるがそれが表面上のだだこね
坊やへの対処法である。
(後は既述の「それよりも大切なこと」参照。
この力関係さえ分かれば後は個々人の「読む」力で
読解できよう。)


2016年4月28日木曜日

左は吸い上げ、右はおしなべ

左は吸い上げる仕組み
右はおしなべる仕組み

実態経済を見ると逆であることが
おもしろい。

無論偶然ではない。

2016年4月23日土曜日

UX理念

故人に伝えたかったこととしてUX理念がある。

つまり道具は使う側の手に馴染むものが名品であるということ。

正にコンシュマー向けに発信しているので対象はコンシュマーであること。
UXを求めながらもルールや強制、はたまた幻想に導いていや
しないかということ。

ユニバーサル性、わかり易さを追求し確かにシェアはあるが
命題の解には到底なっていない。

流れがあるため危ないのであるが、別に現在の秩序を崩壊させ
ようとかとも無論考えていないのであるが、デファクトスタンダード
を目指そうとするのであれば、最低限ここに記す命題を
知っておいて欲しいということ。

順序が逆になったがUX理念をここに記す。
UXや利便性やまだ定義は固まってないが仮に「使いやすさ」と
置換してくれれば現代ではわかり易かろう。

世の工具は使いやすいだろうか。ものによっては数千年の
結晶として現代でもそのまま使用され続けてるものもあろう。
現代になってハードだけでは達成し得ないものが多くなって
きた。つまりソフトの存在が出てくるのであるが
途中は端折るが
ソフトを含めてのUXと言う問題。および命題。

クライアントサイド・サーバサイドとも群雄割拠の現在で
あるが圧倒的使用率からWebによってUXの波は醸成される
のであろう。
メディアのデファクトを目論みた企業も哀しいくらいに
あっけなく飲まれるくらいの波なのである。
言わんとすることはこの波はハードまで及ぶということ。
UXのデファクトを目指すことは危険であると、
言っておくこととしよう。

数年後か数十年後か百か千かは知らないが
「UX確立」と言われるのであろう。スパンによるが
歴史的には情報黎明期の一部として。


取り敢えずUXの根拠をここに確立することが
できただけでよかったのである。

2016年4月16日土曜日

相互主観流動機構

たとえば歩行。

交差点や駅構内。
それぞれはそれぞれの目的する方向へ進む。
ある程度の流れはあるがあらゆる方向から人が
やってくる。
向こうはこう動くだろうとほぼ無意識的に推測して
自分の進路を選んでいる。
または私はこう行こうとしてるのであなたはこう行って
欲しいですと歩行という行為だけで表現し相互通信して
いる。
それが一点。

雑踏に不慣れで意識をし過ぎると流れに乗れず
衝突ばかり繰り返してしまう。
逆説はどんなに我の強い頑固でも雑踏では「慣れ」とか
「適応」と言う形で支配されている。
ごくまれに自己主張の強さを見せびらかすために
敢えて避けない、何が何でも進路を変えない輩がいるが
それはよほど孤立し人肌が恋しいのか、または、
例えば空気と戦うような、何かを履き違えて勝手に
想像した敵と戦っているのかであろう。よほど
センチメンタル・メルヘンティックである。
そういう輩でも自由に雑踏に混ざっても許容する
キャパシティの大きさがやはりこの社会なのであろう。
これ以上は脱線するのでこれくらいで。

つまり無意識、意識という切り口で言えば
無意識で雑踏を歩けるようになることが、例えば
都会に慣れたとでもなるのであろう。
意識が強すぎると「相互主観流動機構」に適応できない。
機構(システム)で考えると、意識(自己主張)というパラメーターは
高くてはいけない。
低くてもいけない。低すぎるとノロノロと安全が絶対だみたいな
流れになって最初はやきもきするが、いつの間にかそれに
「順応」して「これが標準、これが最適」と乗っ取られてしまう。
これが二点目。

ーーーーーーーーーー
最近は自動なんちゃらとかが出てきているがそれは
ボトムアップ的な手法であろう。
それは相互主観流動機構を単純化したノード間で
ルールも決められた、つまり制限下のもとに単純化した範囲内での
事象を追求することであろう。
トップダウン的な思想も必要と思われるので
ここに相互主観流動機構を発表しておく。
相互主観流動機構と現在の自動なんちゃらが合わさるところが
一つの到達点であろう。

ーーーーーーーーーー
相互主観流動機構はいくらでもパラメーターがある。
人を出処にしているが、では他の動物であった場合はどうか。
惑星ではどうか。水ではどうか。(無論無機質は意識パラメーターは
ほぼゼロであるし、動物の集団は種類によって固有値が求められる
かも知れない。(惑星のパラメーターがゼロというのも失礼かもしれない。))

自動なんちゃらをやっているかたは相互主観流動機構を
研究したほうがよほど近道だと思うのだが。
ここに相互主観流動機構を解明しておくことにしよう。


2016年4月9日土曜日

おそらく防波堤

おそらく防波堤として、最後の最悪の場合に
備えて作ったのであろう。

しかしいざフタを開けると手もつけられない
どうしようもないでくを十数億作ったに
過ぎない。

それらとしては業績というか名誉というか
後世に残る名を残さねばならなかったのにも
関わらず、いざできたものは確かに簡単に
動くけどもはや制御のきかない手もつけられない
目も当てられないどうしようもないでくが
十数億できただけとあっては、流石に
名を残すどころの話ではなくなって
きたのであろう。
確かに史上最大の汚名であろう。

因果は既述のとおりなのでこれ以上
事実を明確にさらしはしないが、確かに
それを残したものとして名を残すぐらいなら
気づかれないように少しずつ少しずつ
隠れることを選択したくらいの分別を
持ち合わせていてくれたことを
せめてものなぐさめとして、歴史に
名残を落とそうと言う意思を尊重して
あげようではないか。

2016年4月8日金曜日

頭の善し悪し

頭の善いのもとで成り立っているかというと
そうではないということ。

ただ腹の探り合いに優れ如何にいい笑顔をふりまいて
相手を信頼させるかということがうまいだけのこと。
つまり現状のシステムで淘汰され生き残った個体で
あるだけである。

それがさも自身の業績のように取れるものを取り、
また表で吊るしあげられないように裏へ裏へと
賢しそうに潜伏しているだけである。

そしていつの間にか張り巡らされた見えない
網に引っかかって動けば動くほどまんまと、
ただの腹の探り合いに優れたものへ自己犠牲の結果で
ある利益を献上しているのである。
という示唆。
別にそれらが作り上げた簡単に全員を流れさせる
先導システムを活用してこれを触れ込んでも良いが
(自業自得として)、敢えて相手の土俵には乗るまい。
乗った瞬間にこれまで培って来られたレッテルだかラベルだかを
貼る才能をいかんなく発揮されて「無き声」の一部にされよう。
これまで通り特定を突く必要はない。
層が違うのでみすみす降りていく必要はないということ。
というか層という力学を起してしまったので既存は
どれだけ杭を地中深くまで植え付けようと層からすれば
手のひらの皮一枚にも届かないくらいであるということ。
(イメージが好きな方もいるのでこんな例えをしてみた。)

特定を突く必要はない。例えばナショナル側はまんまと
騙されたといえる。繁栄という手球に乗って、今になって
それらの笑顔にやられたことを嘆いているがそれらは
とうの昔に逃避済みであろう。
宗教もしかり。ただそれらは一神教しか吟味しなかったことが
誤算であったろう。別にその見落としが突破口になったとは
言わないが、そこまで見渡せていたらもうちょっと取り分は
上がっていただろうと言うだけのこと。それらとしては
大失点なのであろう。

「それら」という具体が居るかもしれないし居ないかもしれない。
ホログラムのように分散されているかもしれない。
しかしここで私がつたない文章で書くまでもなく
いくらでもその具体及び抽象は知的活動なりその具体化的
発信として表れてはいる。

パワー層はパワー層によって終わる。まさに必然であろう。
層理論への橋渡しとして最後くらいは綺麗に終わってみては
どうだろうか。最近の一連の流れで数年後かもれないし、
はたまた往生際悪く生き延びて週十年後かも知れないが。





2016年4月7日木曜日

遅延伝播の利用

既述でも触れたが、また有名な話として電信を用いた
投資により成功を修めた例がありそれが今日の所謂
デイトレーダーの元になったとかいう話はもはや経済を
かじっていれば知らない人はいないくらいである。

それは今となっては至極単純な仕組みなのであるが、
(よってそれをやり始めた方はボロ儲けである。)
結局その延長線上なのではないかという命題。

要は個人・組織・国家の及ぶ範囲は現時点では限定されて
いるため相互作用には遅延が発生するということ。
それをうまく利用し吸い上げていると。

伝播の遅延が発生すれば、ノードが多ければ多いほど、
また遅延の格差が大きければ大きいほど混乱、つまり
カオス状態が発生する。
制限されたノード(個人・組織・国家など)は自分の
最善をつくすのだが・または足を引っ張られたりするのだが
当然有機体として最善解を求める方向に走る。
しかし最善を尽くして良かれと思ってやってきたことが
例えば自分の一番正反対のものの加担になってたので
あればいたたまれまい。

カオスというのは本当にランダムかというとそうではなく
一定の条件下でランダムになるのである。(主に情報系・
熱力学系の人であれば御存知の通り。)
つまり一見ランダムに見える現象もその根本を知っているものは
知っているのである。完全な根本を知っているものはいないが
少なくとも現状の元を知っているものは居るのである。
つまり知らず知らずのうちに一定の方向にまんまと進まされている
のである。
しかしそれもパワー層だけでの話。(前述の話)
それらが操っていたと思っていたことは結局たかだかパワー層ででの
話でしか無いのである。お隣は何度も言うように哀しくも
まんまと手中に収まった。(なぜ何千年も逃げたのか。といくら
言っても無駄なので今後(次世代)に期待しようと言うのがこれまでの話。)
しかしいくら経過してもめげないところがあると。
経済で例えていいのか、また例えが正しいかは分からないが
極めて単純に言うと、かたやまんまと個人資産までも投資ブームに
載せられてまんまと吸い上げれれて現在は全員が真っ青だと。
かたやいくら経済のおいしい話を垂れ流しても、ちょっとおかしいと
ハッキリ気付くものもあれば、感覚として、先天的な、伝統的な
感覚に守られてついに陥落しなかったのがここであろう。

パワー層で現在最大級の知の結晶が牛耳ろうとしていたのであるが
それは見ての通りとてもちっぽけであった。
これをわきまえるからこその層理論である。

しかし未だ油断するのは早い。ゲームのラスボスもそうであるが
根源まで辿り着くとやぶれかぶれのそれこそカオスを生み出そうと
いう反流が起きるのである。(手のひらで)
手のひらで可哀想にと言いながら油断して次の数千年をまた
同じことの繰り返しをされては困るので油断してはならない。

(ps)
書くまでもないが、ここからは結論から導かれる結果でしか無い。
つまりパワー層での歴史をどう残すかということ。
一端を切り開いた英雄として名は残るのであるから永世
褒め称えましょうと言うだけのこと。確かに端緒であり
結論であったのであるから。それこそが望んだことであったので
あるから残ってよかった、で良いのではないだろうか。
これ以上わっしょいして欲しいなら、もっと書いても良い。

2016年3月29日火曜日

確かなり

確かに世の中にはより刺激的なより現実味のあるストーリーが有り
そのほうがよっぽど面白いが、ではベクトルはというと個々人である。

良い方向もあるが知らず知らず加担してるものもある。
起してはならないものを起こした以上は自ずと起きる方になるであろう。

もはや「哀しい」では収集できなくなるしかないように彼らは選択してきた。
しかし学んだもの・ことは数千年で何もない以上は、それらはやはり
痛みを避けてきたのであろう。
避けて避け続けているさまはよはや誰の目にも明らかであるが、
これらをより具体的に痛みを学ばせねばならい、ということが
非常に哀しいのであるがこれがこれからの現実である。
層理論をある程度理解してくれた方であれば言わんとしていることは
分かるであろうが、上記の傷みは例えば軍事的なものであるかもしれないし
それは手段でしか無いことは分かっていただけよう。
例えば軍事的に勝って痛みを分からせてもすぐに受けた痛みを避け、
責を逃れ痛みを受けずにワシントン条約をのうのうと、ましてや
優美に亡き者にしてしまったことを見れば、それはただ最近見られた
具体的現象でしか無いが、その神経から具体的に解決していくしか無いのである。

それを資本もせせら笑っている場合ではない。
構図の根本まで、原点にまで回帰するからこそ「恐ろしい」のである。
「哀しい」のである。それらパワー理論の限界、白旗を見た。
神経を引き抜くという比喩が少しは具体的にイメージ出来ただろうか。
それ故の起床である。
現在あらゆるところで「起きている。」
最後のダダこねはせいぜいそれらを止める努力をしたほうが良かろう。

これは見向きもされないことのようなのでより具体的、より分かりやすく
層理論を確立していく。
これまでの歴史を学んではいないのだろうか。こうやって浸透していく
のである、と書こうと思ったがさすがに当局の目に留まると思ったので
やめておこう。

隣国はほぼ決定しているので心配はしていないが、その後の資本である。
しかし彼らも学んできていると信じたい。ただのパワー層でではなく。
もしも層理論の本質を見抜いているのであれば和回帰が起きていても良いが
そうにも見えないので未だなのであろう。



2016年3月27日日曜日

おこしてはいけないこと

起きたのは隣国ゆえかも知れぬが、では隣国はというと
元はといえばまんまと利用されているからである。
それまでの土壌を見れば明白であるがこれであれば
右を示せば右へ、左を示せば左へ容易く誘導することが
できると思われてきたことである。この意味において
哀しまれるものであるがそれ故の土壌。一つの見方として
因果なのであろう。

しかしその間接を通して微々たる歪曲を察知できた。
層理論では憐れむ存在なのである。

どこまであけすけなのだか、それ故の手のひらなのであるが
ここでは全てオープンなのである。
せっせと暗号を解読してきた従順なるものへはすいませんとしか
言えないが競技比べである。
層理論でそれらは利用させていただくのであった。
最大限極端に言うとこういうことであろう。

概念的にわかりやすく言えばパラー層で競い合ってきたことは
その根流の層理論という手のひらでの事象でしか無いので
無論脱出は不可能なのである。
(否定形を使うと疲れる。)

いつも希望を持って「ここまで言えば分かるだろうが」と
いって文字が読めるものへの期待をするのであるが、
我を起してはならないのである。
それが起きた時はどういう時であったか。
またも調停を、しかも「もうどうしようもありません」といった
泣き言で起こすとはなんたるダダこね根性であることか。
本気で起こることの再現でしか無い。哀れ。
少しでも文字が読めればと何度言わせるのだろうか。

繰り返しでしか無いが「何故世界はここに最終調停を
何度も何度も懲りなく委ねてくるのか」という答えである。
現状の、さらに感情も汲めば、「ただのあまったれ」という
解であろう。

層理論は力学である。賢しきものは次の手を考えるであろうが
延命でしか無い。最大限汲めばよかろう。
もはや力学は走っているのである。

手の打ちようのない負債

都心だと特にそうだが歩いてても譲り合いを平然としてしないものを
みるようになった。彼らにとっては大きな成果であろう。
おそらくそのまま文字を読む習慣もなくまんまと彼らの手中に収まって
暴走中年・後年になっていく、現に現在のそれらは申し子である。

成果がようやく出始めた。しめしめ。
と思っているのかは知らないが、そもそも数世代だから自分の代で
成果を発揮しさえすれば「約束」されるのである。
いかんなく成果を発揮したことを主張し約束の成果を受け取れば良い。

手の打ちようのない負債は彼ら自身がそれになることである。
「約束」で得た、と幻想していた「真実」は巧みに回収されるで
あろう。そして過去の栄光をたわごととして「何も悪いことをして
いない」という暴走に貶められるのである。

これはまだかわいいほうの負債。

たかが数世代の身内内でのじゃれあいでしか無いので。
(じゃれあいでしか無いのに本当に殺しあうことができるとは
よほどおめでたいのであろう。享楽をそこまで高めることができた
ことをどうぞ自負してくださいといったところか。)

ーーーーー
とりあえずここまで。
層理論でいう負債は後述。

削ぎ落としたものにやられる

端的に言うと削ぎ落としたものにやられるのであった。

合理は確かに一時的な合理である。
つまりこの「一時的な」にやられている。それを温かく受け止めなければ
ならない。

「合理」はそれを編み出した時点、頑張っても数世代位先のことを
賢しくも恐れ多くも見越して見立てるものである。
(「寄ってる」側もたかが数世代先しか見てないことと奇妙に
一致する。)
何度となく繰り返しているが、はたまたこれこそが数多声なき声の
執念なのだろうか、何度同じことを繰り返すのか、ということ。

層で見れば削ぎ落とされたものに逆襲されているだけの
つまらない構図である。
必死にパワー層で次の賢しい「戦略」(という高名な命名をわざとなのか
自己崇拝なのかは知らないが、それで浮かれるくらいであればよほど
おめでたい。まさかそれを歴史に刻まんとしているのだろうか。)を
立て、その理論からすると無用は即無用であり合理にそぐわないものは
蹴落とされるようだ。(単純原理ではなく層を意識したうえで。)

層でいう意味の削がれたこと・もの。削いだ側の本当に賢しい人は
知ってると思うのだが、彼らの合理はたかだか数世代位のものでしか
ないと感づいていると思うのだが。
知っててやっているのであればただの確信犯であるし、知ってても
そうそうばれないと思ってやっているのであれば、おめでたい。
滅する前にオメデタイの意味でも調べればよいのであろう。

いずれにせよそれらは「合理的に」削ぎ落とした事実がある。
彼らで言う「メンツ」がある(層ではない。)のでいまさら
謝罪もできないのであろう。
であればどうぞ削ぎ落としたものにやられてくだい。自分の用意した
土俵でやられれば本望でしょうというだけのこと。
いかに何故「だけ」という副詞を使用しなければならないかは
明白になる。

いくら削ぎ落としたものを回復しようとしても手遅れである。
それも分かっている。
手口を変えるのだろう。パワー理論の上で。
成長の無さに驚愕する。
どれだけ手のひらでゴロゴロして甘んじていたいのか。

おそらくせっせと層理論を研究し打開点を探っていることであろう。
救世主が現れれば良いだろう。突然変異が現れれば良いだろう。
その一点張りを続ければよろしい。
それは「非合理」だと認識することが哀しくも「合理」を推進した
結果なのである。
層理論で言う高次の層、既存であれば「徳」などを敷いて幾世代を
丁寧に築かなければなされないと気付くことがようやっと現世の
つまらない救済なのであろう。

層理論は力学である。現状の何人かでやってる(委員会とか名前を付けているかは知らないが)で隠蔽している理屈とは違う。
ちょっとは歴史とか文字を読めるくらいの技術はあるであろうから、力学ができるとそれは歯車であり自ずと何もせずとも勝手に回り出すのである。位のことは理解されよう。

如何に手遅れであるかを、「たかだか数世代」を越えて我が身に振りかかることとして
認識されたであろう。(おめでたいものをのぞいて。)

層理論の確立に携われて幸いである。


2016年3月26日土曜日

ベクトル

では潤ったそれらはどうするか。

例えば「その他は愚かであるから戦争して滅亡するから
救済するために資金を調整という名の吸い上げ機構を
構築した。」、
「Xヘクト年後に外来が攻めてくることになったから
でもそれをオープンにするとパニックするから言わないけど、
といっても少なくとも襲撃の数ヶ月前には知らなかった風を
装って発表するけど、とにかくXヘクト年後への
備えとして未熟な現状の金融システムでは備えられない
ので「アホな過去人」と言われないためにも、
理解を得られないにもただ将来のために蓄えて
いるのである。」、

むしろ後者であればそれはそれでそこまでの認識ができなかった
我々は嘆くしかない。(ID4が脅しに見えてくる。)

計算しつくされた戦略であるので、よしよしと受け止めよう。
パワー層での戦略でしか無い。
決して侮らずパワー層では同等のことを、それ以上のことを
時としてしなければならない。彼ら手中の演出として。
ここまでオープンにしてもなおより上層の手のひらよりは
深く潜れないのである。これが力学の怖さ。
賢しいそれらは何とかこの理論を組み入れたつもりで
模索する。しかし知れば知るほど層理論は次世代への
関門であることを知る。つまりもはやTPPに基軸を移そうが
パワー層の限界は目に見えているのである。
どうぞ50年位ごまかしてください、といったところであろう。
血眼になって模索するだろうが、ここで主題のベクトルになる。
勝ちたければどうぞ勝ってください。FだかTだかミノを
こさえてやってることは原始と何ら変わりない。(それを
なげくべきであるが。)
ベクトルというのが如何に彼らの図星を付いているのか、
言っておいてなんだが見るに耐えない。


結局(現状での)は、手口である

結局(現状での結局。最終段階での最終解答としての結局ではない。)、
パワー層上での入れ替えでがまたも発生しそうであるということ。

これまでもそうだが、記すことさえ恐ろしいが
起しては(怒らせては)ならない領域があるのだが
あわれ哀しきかなまたも永眠の琴を起こすのである。

しかし恐れるに足らず。基軸にまっしぐらの盲目である。
パワー層の盲目である。手のひら加減をわきまえていない。
とこれまで記してきたことをちょっとは汲むであろう。
しかし力学の恐ろしさはここからである。
基軸(通貨)・リソース・担保で安泰と思える幸せな
世であったと思ってくれればよかろう。
百年に達しないくらいの間に頑張って三世くらい
作ればよかろう。

よほど「約束」を「売買」してきたことであろう。
よほど「うるおい」自動搾取システムを構築してきたことであろう。
哀しいかな目の届く範囲で補助金のようなシステムが有り、しかし
実態は吸い上げ機構があって実質的に使用可能な額はわずか、
下手したらマイナス・つまり口上財布オープン機構発動な
システムが横行してるわけでかなり目は肥えている。
しってから知らずか吸い上げ機構は波及しており、大元はとうに
分かっている、彼らも「いずれ」分かられて当然と思ったうえでの
変な相互理解の上に成り立っているのである。
一言で言えばパワー層の事象の伝播時間を利用した
「負債波及システム」なのであった。

負債をこさえればわんさと利益(企業などの潤い・約束)を
得たうえで戻ってくると。ただそれを眺めていれば良い。


2016年3月25日金曜日

スポーツ観戦から

切り口を変えてスポーツ観戦から。

観戦後の有終の美が取り上げられるが
おそらくこの風土で暮らしてきたのであれば
大半はその素養は自ずから醸成されていよう。

例えば小・中・高校、人によっては大学の部活動。
下級生は先輩の姿を見ることで、上級生は恥ずかしくないようにと
率先しての模範行動によって。
体育会系であればなおさら。
下級生は知らず知らずのうちに土台を形成し、中級、上級生になるに連れ
「自覚」されるものの立場として血となり肉となる。
「個々人の」発育を「信頼し」任せる。
される側からは「信頼され」、多分の自己内部処理・
肝への落としこみをする時間を与えられたうえで、
信頼のもとスポーツ【精神】の通った聖域・何人さえも
犯すことのできない「もの・こと」の存在、あるいは
無存在があるという抽象的・概念的土壌を培うのである。
(参考:既述:信頼の上に築かれるもの)

ーーーー
以下、逆説。
「寄ってる」側はそこを潰すべきではないのか。
部活で風土の美徳が発揚されているので、そこに何もできてないのは
怠慢であろう。よくぞ今までお上から雷が落とされずに生きながらえて
きているものだ。
(そうなってくると「お上」の技量の話になるが、彼らからすると
お上への反論はタブーらしい)
Nでも、その隠れでも、何の部活の顧問にでもなればいくらでも
潰せようなのにいったいこれまで何をしてきたのか。
現状のスポーツ観戦を見よ。
全くもって堕落していない。これは顧問の無能さの限りである。
が、これ以上「上」には伝播しない。らしい。
(伝播はしないが、何故か隠密に人事される。らしい。
秘密性があってワクワクする。顧問としては、そりゃ必死になる
わいな。後述の通り引き替えにできない最後の砦があるようだ、
彼らに言わせると良心らしいが。)

「理想郷」を目的にしなければならない。「いた」時点で「享楽」であること。
なぜなら闘争(ちと直接的)の末に勝ち取った約束があるから。
勝ち取ってくれて、未来永劫、約束された享楽があるから。
その土台にさえ住んでいれば良い。
つまりスポーツは享楽であるので礼は不要。(スポーツに限らず
全てにおいてだが。)それは享受を約束されたもの。
享楽に「出場」して「あげる」とは、何たる紳士・淑女!!!
正に己を顧みない、己の享楽を犠牲にしてまで、他へ享楽を
供給しようとは未来永劫存在し得ないぐらいの徳の持ち主である!!!
試合終了後の彼らの「やってやった」感が見れるのも素晴らしい。
思わず感情移入し尽くして去り際の優越感さえ感じることができた。
そんな微妙な感情さえ気遣って演出してくれるとは。

こういった部活を作らなければならないのに、Nは一体何を
やっているのだろうか?
顧問が君臨して、選手にはリーダを作らず・作らせず、学年の上下を作らず
作らせず、それこそ夜も朝も寝ずに共産のために戦わならねば
ならないのではないか。それを苦ともしないからこそのKではないのか。
社会がそれを許さないとか温ま湯なことを言っている場合ではない。
選手たちが共謀したとろこを見つけ嗅ぎつけたら、ちょっとでも疑いが
あったのであれば、疑うのはなぜか独断の裁量権が得られているので、
即刻無罪(彼らの暴力への反語)の手に打つが
美ではないのか。
ーーーー

以上は、ちと極端な例。しかし現状と対比することでどれだけの
くわだてがあるか・近寄っているかを知るものさしにしてくれればと。
特定の組織・もの・ことは指摘してないので、それは自明であるが、それらは
隅を突くくらいしか脳がないのでこうやって盾を気付いておかないと
何の言われかしらないが突っかかってくるので敢えて記しておく。
もしも具体に見える文言があったのであればそれは抽象であると
ここに記しておく。たとえばNであれば「N」という概念を
指摘しているのであって、ある組織を特定しているのではない。
こういう話をすればするほどそれらは隅をつついてくるので、
(まるで先導しているようだ。)これくらいにしておく。
(どれだけ飼われ根性なのだか。)

ーーーーー
つまらない話をしてしまった。
言いたかったのは、彼らの最大限の「教化」をもってしても
崩れなかった・現に崩れてないさまをスポーツ観戦でまざまざと
見たように崩れなかった根本があるということ。
つまり層理論である。
次投稿を参照。

2016年3月20日日曜日

育てたもの、育てられたもの

「恣意」によって育てられたものは哀しい。
「恣意」を育てたものは哀しい。

いくつも既述を遡るが例えば
・完全に故意を察知されなければ個人をコントロールしても
 侵害にならないのか。
・個人の偏向・変更の困難さ。それはもはや聞いても無視する、
聞いても右から左へスローする、聞いて意味を認識しても敢えて
認識できないと偽る、認識できてもスーパー忘却機構を駆使して
忘却する、認識しても狂人となり本来の目的の反社会的勢力の
一つのコマとして美しい人生だったと賞賛されることを目論み
うぬぼれ、そもそもイデオロギーだかなんだかのために全てを
つくしたその我が身こそが崇高だと、誰にも言わず散っていくことが
美しいと自惚れているとさえ気付かず、気付いたことがあっても
何かと決別しイデオロギーだかなんだかの一つのコマとして
散ることが美しいと自惚れているもの、そもそももっと孔明で
本来の発展のベクトルとは敢えて逆の方向に進むことを良しとする
もの(コマは哀しいかなその方向の加担者であることを哀しいかな
知らずにコマされている。)、は「恣意」されていたので
救済の対象となる。

結果としてはどちらも救済の対象であるが。
後者は別にあふれるほどいるので言及するまでもないが、
(それで救済されたものは一緒に考えてくれれば、どうぞ)
前者がむしろ問題であることは明白であろう。

ーーーーーー
哀しいかな、現世では恐ろしいかなと言われてしまうかもしれないが、
幼児がヒーローごっこをして悪いやつがやられ良いやつが勝つのであるが
やはり小手先はやられる。
それが後世で語り継がれることは明白である。
この対局が行き着くところはカオス理論であるので、後ほど詳述する。
簡単になら既述の通り。過去のブログを見てくれればと思う。
簡単に言っておくと笑顔でカオスを目論むこと。
これほど誰でも今すぐにもできて瞬時に享楽を得る簡易な方法はなかろう。
現実に大の大人がそれを「ばれなければ」と「そそくさと」していること。
層理論がわかればその「しらみ」さ加減がわかるのだが。

「ばれなければ」程度のレベル

世界規模のバランスシートの話をしたあたりから
おやっ?とは感じていたがやはりというだけの話。

どれだけ手のひらでゴロゴロしているかということ。
たしかに手のひらは温床で数千年はゴロゴロしていたいだろうが
大の成人がすることではない。
足を地につけ、文字が読めるもののことである。
(いつものことながら、「でしか」ない。)

(「足を地につけた」が幾世か後に分からないと困るので
言っておくと、生命体が培ってきた具体及び抽象に線形的に
乗っていること。無論具体および抽象は淘汰されたもので
確率論で言う正規内のもの。)

ーーーーー
なるほど。
しかし、これまでも完全に封鎖しておきながら内部から
解を導き出されてしまった具体は数多存在するのであって、
それを考慮に入れていないことがまず愚である。
優を誇ってそれを危惧していたのであれば、表題の通り
「ばれなければ」と言う「優」が「愚」を一時的に
あざ笑っただけの、褒め言葉にもならないが極値解にさえ
なりえなかっただけの話である。
ただそれだけの極値解の成り損ないのために数千年を費やした
ことを思えばであろう。(これを必要悪、かれらは心地よく
思わ無いだろうから必要善と言ってあげよう。悟られないように。
と解釈しよう。そのうち力学で解明するがこれは醸成の一過程で
しかない。)

なるほど、なぜ経済(やそれに準ずるもの。経済学、世界経済、
企業経営、個人、コミュニティ、小・中規模組織、大組織、
ソーシャル、…)に「潤い・うるおい」が無いかとずっと思っていたが
これ以上は明々白々なので敢えて言わないが、言わないと分からない
もののために言っておくが、なぜ将来の見込みまで見越してトレード
しなければならないのかということである。
このシートが敷かれるまではコミュニティの重要な一端を責任をもって
運営するという使命があった。(それを崩壊させようか、崩そうかと
施政したにもかかわらず逆に地が発揮され群を抜いた成長をしたことに
彼らはどう思っているのかはそのうち白昼のもとにさらされる。)
経済に「うるおい」という指標はないのでここで確立してしまっても
よいが、現状の淘汰ありきの盲信はいずれ・すぐに夢を見ていたように
醒めるのだがそれは問屋たる先導者たる‥が許すまいだろう。
地盤の硬さに驚愕してるさまがまざまざと見える。またこれが、
これ故に既視を破ることができた。これが何故数多のくだんである。

ーーーーー
ここでずっと過去の執筆に戻る。
幸福=金で現状の主義は通らぬということ。
私がここに書くまでもなく、私がとうの昔に気付いていたまでもなく、
よほど先人が見抜き哀れんだことである。
パワー理論のとおり。

ーーーーー
私が言うまでもなくとうにこれらの発言は出回っているのであって
つまり資本はそれをとうに見透かしているのである。
ゆえにとうにパワー理論の限界は見透かしているのであるが
果たして層理論もパワー理論のように牛耳ったりコントロールできる
シロモノとでも考えているのであろうか?という点が
これからソーシャルで追跡していくべき点であろう。

牛耳ろうとしていれば阿呆であり、無理解であり、結局
層の何たるかをわきまえないがゆえに淘汰され歴史のでくの
長物として名前だけ残されることを名誉に感じて去ってくれれば
それに越したことはない。
統制という道もあるだろう。つまりネットを否定し可能性を網羅し
先手を打つのである。おめでたさがなおさら醸成されて結構である。

「自分の生だけ、またはその後の幾世だけ」と本気で、それこそ
人生を捧げて、それこそ決死でされたものもいよう。(すべて
そうであるが、どんな形であろうが、全ての生はうやまれる。)
しかし不思議な事にそのほぼ全ては現世、または来世(来世とは
2個めの世も含めて幾世も言う)で結果を被っている。
来世まで含めると「よしよし」とか言う、所謂「かいくぐり」者が
誤解するので、つまり利己のために生じたものは利己のために滅する
のであった。

ーーーーー
層理論をちょっとずつ分かってもらえば良い。
パワーとごっちゃになるゆえ右往左往する。
世界の権威的な連合さえ未だ誤っている現状である。
対話のスタンダードを確立しなければならない必要性が
自ずと分かるものである。
(哀しいかな現状の個々人を変えるのはかなりの労力である。
しかしいつも言うとおり、人はいつの時点でも変われるのである。
ましてやUNに所属するくらいの聡明な人物であれば、
少なくとも文字を読むという条件はクリアできるはずである。
(本当に願わくばであるが。。。))


2016年2月13日土曜日

旋律・コード進行・主題生成機構

以下を挙げておこう。
・旋律生成機構
・コード進行生成機構
・主題生成機構
・上記を提案するサジェスチョン機構

一つはランダム。機構がランダムに旋律・コード進行・主題を生成する。
完全なランダムもあれば、ニューラルネットワークなどのAIを使用し、
以降に述べる蓄積を持って生成することも選択可能。
(それを織り交ぜることも可能。)
パラメータによって例えば世代の指定が可能。
(1980年代と入れれば1980年代のような旋律を生成する、
全世代を通してのロックを全て含めるとパラメータを指定すれば
全世代を通してのロック(現世までとなるのだが)を抽出したロックが
生成される。現世を100%として過去に連れて%を下げるが、2000年だけ
95%にして出力すれば、ベースは現代だが何となく2000年世代が
醸しだされるなど。以下同様。)

一つは歌詞をベースに生成する機構。歌詞を実際に読んだり歌ったりして、
まず発声の有り無しがテンポとしてパラメタライズできる。
(インプットはあらゆるインプットを対象とする。
歌詞の朗読。歌唱。ランダム。(ランダムを対象とすることで全リソースが
入力対象になる。(テキストファイル、画像ファイル、、、
現実世界にまで広げれば植物、無機物、あらゆる抽象、、
以下同様。無論、インプットを如何にこの機構に合わせるかは必要。
それはそれでどんどん理論が生成される。)

また、伝える側の抑揚も取り入れられる。
それを曲の進行に合わせて発声に無理がないようにのせる機構。
必要があれば部分を削除したり繰り返したりする。
また「こういう旋律・進行・主題もありますよ」と提案するサジェスチョン機構も
併せて発表しておく。(これにかぎらず全体の機構。)

パラメータによって旋律を密にしたいか疎にしたいかや、
雰囲気などのパラメータ(拡張可能。)により、旋律がまったりしたものか
主張の明確なものにするのか、など(拡張可能)を自由に変更可能。
よって例えばベースはバラードなのに主線がラップなどの生成も可能。

また、最初に言ったインプット(歌詞の読み上げ、歌唱、具象、抽象、
想像に及んだもの、今後一切想像にさえ及ばないもの)から、主線、
進行、主題を提案(リコメンド)する機構も併せて発表する。
ユーザへはリコメンドだが、システムはそれを蓄積し例えば
「ヒットした」、「ヒットしなかった」をフィードバックし
学習を強化するものとする。(世知がないといえば世知がないが
現世を見れば一方が「盗用だ」といってようやくリソースの追求が
始まるという恵まれた世代と思うべきであろう。今後どれだけの
「曲」が生成されるかとかなってくるとパテントとの話になって
いく。その理論的、抽象的、そして具体のベースになる。
狭めるものではなく培うもの。これまでは破壊が多すぎたから
ピンと来ないかもしれないが土壌のようなものである。)

以上がまず第一段階。
以上を乗り越えると今度は、権利が再度問題になってくる。
この機構によって全パターンが生成可能である。
その全てをここで縛ってしまっても良いのだが。
それは誰も望むまい。よってこれをここに「公表」するのであった。
まずは音楽業界は以上。

上記と同様のことをあらゆる事象に適用する。
・絵画
・演劇
・ムービー
・芸能
・あらゆる活動
・あらゆる未活動
極言すると活動はすべてこの機構に含まれる。(現状で言葉上の
「未活動」もこの機構から見れば活動対象である。)
これで論拠の布石はできた。
あとはパテントと現世法との対話のスタンダードを通した
話になる。

こういうことの発表は恐ろしいものである。
例えばガリレオが地動説を発表した時、彼は「この全ては
私の理論に乗っている」と言ったであろうか?
答えは否であろう。
「私」はただの発見者である。ただそれと同じことである。

(逆に怖い話を。
もし彼が屈して発表しなかったら。
それはそれは、いいように悪用されていたであろう。
下手をすると現世まで天動説で有るかも知れぬ。
ちょっとは背筋を凍らせて目を覚ましたほうが良い。
企業で言えば一企業が全権利を握るようなもの。
あまり筒抜けには言えぬがグローバライゼーションの
ナショナリティーの何とかの、ということ。


分かり易く言えばだが。
現状でも来世で恐竜と呼ばれないだけの自信はどこから
わいてくるのであろうか。
これまで覆ってきたもの。未だ覆ってないもの。。
短絡しては駄目であって、如何に地に足の着いたものを
論拠として構築しうるか。それは正にこれを読む生を
受けたものへの問であるが、素晴らしいことに、哀しいことに
片や自由であり、片や所望しても一生届かないことである。
たかが百年前後。
あまた享楽の上に胡座をかいてるものは、数世代を越して
享楽にふけれるたためしは無いことを知り、
全体としてあまた禍根を思えば現世のだだこねは通用しないこと
を知り、
とわに「よしよし」を必要とする層が幾割かは必然であることを
肝まで落としこむ覚悟を知るのである。
)

まずは土台。そしてこれがやはり民間から出ることも必然。
(現在で言う民間。)

P.S.
音楽関連の話と思って読まれた方は終盤の展開で驚かしてしまったかも
しれない。
しかし音楽や芸術に携わっている方らならむしろ命題となる。

2016年2月11日木曜日

層理論の現場への照らし合わせ

彼の地について誘導されたのか自ら導いたのかは知らないが簡単に言うと
①情報統制。コマをコマたらしめん。
②詭道。敵を欺くにはまず味方から。
である。
いずれ反省可能であれば①で個をコマと取り違えたことが敗因であろう。
もはやこれは検証さえつまらなすぎるので以上。
(①でいうコマに着火した時点で決着す。)

欧亜
欧がパワーの偏極を押し付けた「波」の引き潮を被っている現状。
火力(軍事)から経済へのシフトと言わてれいるらしい。
が、引き潮の壮烈さが誤算だったらしい。
(人によってはそこまで考えていなかったらしい。)
極東の戦犯絡みは勢いを増すのに、この原初は決して論壇さえ
ロンさえ、口さえ出ない、口頭にさえ登らないのである。
(当事者でさえもである。)
むしろお隣はいいように誘導できるウドの大木であったろう。
孫子の何とかを崇め奉っている間に相手は遥か彼方から、それを
無論分析しつくし凌駕して手球に乗らされているのである。
(驚くことではなく、どれだけの組織を乗せてきたかを見れば、
逆にそれだけ載せておきならが確立できなければ無能であろうと
言うこと。パワー理論の必然である。二枚舌は世に出てしまったが
それはよほど後悔しているであろうことは。。明々白々。。
それ以降表層は安泰であったがいよいよ今回の一連の物理的
「しわ」がまざまざと押し寄せているのである。)

あまりあけっぴろげに言うのも何だが、パワー理論の王というか
要は経済のグローバライゼーションの極であるが、
パワー理論では指摘しようがない「高み」にあがっているのである。
(層理論でさえめったに「高み」とは言わないのに関わらずである。
とは言っても結局パワー層でしかないが。)

以前に書いた、「恐ろしいのは全てパワー理論であるということ。」
の再掲だけでしかない。
「神経をひっぺがえす」ということが多少なりとも分かってくる
のではないだろうか。
(「極」は抑えようとするだろう。しかし布石の通りである。
たとえ「痕跡の残らない情報」を確立しようとである。)

もはや物理現象として一般メディアでさえも問題として取り上げてる
くらいであるからそのまま書いても良いのであるが。

そろそろ、それらに翻弄される必要も無くなってきたということ
である。
(パワー理論の終着点は見えたので、見えたのにも関わらず
意地の蹴っ飛ばし合いは恥と認識しましょうというだけのこと。)


以上、決してパワー理論を否定することではないことは
深考すれば分かることである。

パワー理論ではどうしても「敵は無能」、「恐れるに足らず」と
自陣を安心させたいものであるが、それが理論的な弱みであろう。
(「パワー理論の弱点は「恐れ」である。)参照)
と、ここに書いてしまってはあっけなすぎて「何だったんだ」と
膝が砕けるものが幾億兆いようことか。)

必然とはそういうものである。
例えば錬金がまがいであったように。
例えば天動説ではなく地動説であったように。
例えば共産主義は現代の貨幣社会では個人の幸福は貨幣に帰する
故に個人の期待・希望への自主性は剥奪されることは必然であり
そのデメリットを凌駕するメリットを統一生産という短絡的な
ユートピアを目指しました、ごめんなさいと謝罪されるがように。
謝罪は遅すぎるが、その責任さえも他へ移転すればよかろうと
発信し、それを現状で言う国や政府を持ってわっしょいさせるが
ように。)
例えば。。。(宗教について何と言えばよいのだろうか。)

層理論と、宗教について解きほぐしていこう。


※痕跡の残らない情報
世界に出る時点でIDがつき、カテゴライズされる。
分類の「根」に近ければ容易いというだけのこと。
現状は「取り決め」と「報酬」のゲームであろう。
つまり物理的配線は越えられず握られているのである。
以上はハードウェアの話。
ソフトウェアレベルで追跡可能でいつでも削除可能な
ことが前提。
オンラインになった時点で抹消できる機構。
とりあえずこの機構をオープン化しておく。)


原動の探求

人から見て「発展」する方向、「良い」方向へ向かう
原動力は何であるか。

人からあるいは生命から、拡大すれば「有るもの・こと」、
ここから先は良く分からないが「無」まで含めてである。

原動力の示す方向。

世の中には原動力の示す方向に進むものとそれに
反するものがある。
反するものとは足を引っ張るもの、破壊するもの、カオスを
目指すものと考えられている。

統計で言えば、原動力の示す方向に進むものはむしろ
少数であり、それ以外は必要悪だったり無位相だとも受け止められる。

いずれ紐解いていこう。

パワー理論から層理論へ

パワー理論とはこれまでの歴史そのものなのであるが、
経済、軍事的なパワーで相手の首根っこをつかみ支配するという
首根っこの掴み合いである。

これは自分の独立を確保するために必要であり、正に歴史を
通して理論・手法が淘汰・綜合(アウフヘーベン)されてきた。

現状は世界規模で覇権争いをしている段階だが、その後は
どうなるのか。
永遠に侵略し合いを繰り広げるのか、それとももはや侵略しよう
ものならやり返されて自滅するということが分かり切ってるので
つまり抑止力が相互に全世界に展開されて軍事的侵略は
起こりえない状態、軍事的均衡状態ともいえる状態になる
のであろうか。

パワー理論からすれば覇権を握ることが目的であり、それを
そのまま実践しているわかり易い例もある。
(必死に隠蔽しているようだが)
では仮に、いざ握ったとしてもやはり「その後」が見えない
のである。見えるのは、握った新天地を搾取するくらいである。
自国民を送り込みやりたい放題させて一時的にうるおい、
枯渇すれば次へ行く。なんら原始民とやってることが変わらない。

勝つことが目的であるから、「戦わずにして勝つ」や「詭道」
などの手法も生み出された。流動する自陣と他陣を俯瞰して、
全体をぬけめなく把握できれば勝てると。
確かにそうであろうが、それだけでしかない。
(独立を保ち侵略されないためにもパワー層では必要。
 ないがしろにするわけではない。)

彼らのやっていることはパワー理論だけを用いて盤上でゲームを
しているようなものである。
司令塔さえいればよく、コマは言ったとおりに動くくらいの
馬鹿であったほうが使い勝手が良いというわけだ。

世界規模で見ても個体・組織・・などはめいめいに活動している
わけであるが、パワー理論では覇権が強ければ強いほうが良いので
小さい組織同士が衝突して一方が制圧し、次に別の組織を取り込み、
ある程度の大きさになると衝突すれば共倒れになるので均衡状態に
なる。

パワー理論はパワー層で均衡状態になるために動作しているとも
言える。
では均衡状態になったら、ゲーム終了、めでたしめでたしと言って
盤面をひっくり返し、さぁまた一からやり直しとでもするのであろうか。
どうかそんな阿呆な知性しか持ち合わせない恐竜であったと後世で
指を刺されないで欲しい。

パワー理論はもはや、組織の独立を守るための古典理論と認識せねば
なるまい。

無論、生の確保は最も重要であるため、有史前の早い段階で
パワー理論が顕著になった。
しかし個々の活動にはそれ以外の方向性もある。
個々の活動はてんでんばらばらでもあれば、ある方向性を持って活動
することもある。
個人レベルであれば目標、修身など。
組織レベルであれば理念、方針など。

察しの良い方や過去の著書を読んでいただいた方は、もうお分かりであろう。
層理論とはパワー理論を超えて目指す方向を指し示す理論である。
パワー理論を超えてと言うか、パワー理論は層理論の上に
乗っかって活動しているのである。
故にパワー理論だけだと「その先」が見えないのである。

そして、層理論の土台はここで永く先人が培い、醸成して
来てくれたではないか。
(層理論という理論化に携われて私は本当に幸いである。)

これは私が言わずとも、パワー理論をもうちょっと活動させれば
必然的に判明することである。
その時に慌てふためくよりも方向を指し示す層理論があるに
越したことはないので体系化しておく。


勘違いされては困るので追記しておこう。
現状はパワー理論で成り立ってるので、パワー層でのせめぎあいを
緩めて良いということではない。
層理論は理想論ではなく、逆に原初に回帰する、血や肉や骨に
通じるものである。
あるべき方向性を指し示す理論である。
(それは、上記の例のように、例えばパワー理論でしか動いていない
せいぜい数世代だけのことしか考えてない輩に支配されて良いのか
ということを考えれば分かる。)
正しい方向性を持って正しいインテリヘンシアを持って、
必要があれば正しく勝ち、正しく存立していく。
「正しい」とは層理論で言う正しさである。
現状はパワー理論と層理論の区別がついてないので「正しい」という
ことがごちゃまぜになってしまっているため、極言すれば
洗脳も成立しうる。
(層理論で世界史を見直すと一本の筋が見える。過去の大戦もいずれ
再検証されよう。)

層理論で言うと、層理論さえ共有すれば現状の対立者さえも味方になりうる。
共有というか「知る」だけである。(過去にさんざん「文字が読めれば」
と言ってきたこと。)
再度この質問。なぜ相転換(層転換)は絶対者がいても防げないのか。
いくら情報を封じても「知る」ことで「恥」が生じ、それを例えば
点火と呼ぶならば、点火した以上はお偉方がこしらえた壁は越えられず
とも人を介して延焼していくからである。
(今回は珍しく上層から下層に染み渡る現象が見られるかもしれない。)



2016年2月7日日曜日

低エントロピーの創出2

財務をかじったことがある人ならみんな考える
ことであるが、地球全体の財務はどうなるのであるか
ということ。

古典的エネルギー保存則。
企業やプライベートビジネス全て利益を得る。
帳簿に空気(呼吸1回で空気消費・CO2排出)や
資源(「山を買った」だけになってるが地球からすれば
売ってるし、掘るたびに資源の消費・消化材として名目上
変換・売買や加工されるのである)まで付けると
どうなるかということ。
(珍しく経済の話。)

中学生レベルで分かる通り、(導き出せるという意味)
低エントロピーを消費しているのである。

過去の「如何に低エントロピーを創出するか」は
そういった意味。
パワー理論、層理論を超えての話だがせめて
これくらいは認識しないと始まらないのでは
ないだろうか?

前提を変えると全く異なる結論になる機構

機構というか叙事詩。

片側から見るとこういう結論になるが、
他の側から見るとこういう結論になるという
機構及びアイデア、これに触発されたもの
全て。

上記で開発された手法、アイデア、具体を
含む。
(これまでもそうだが発表する以上は
公知となるので安心されたし。ただ
後続の特許、Patentがとれなくなるのみ。)

パワーから層へ

やはり現状見聞きするもの、その背景にあるもの、
根流はパワーである。(でしかない。)

どんなに隠蔽されていようと、どんなにスマートであろうと
である。

いよいよ具体化していくが、正に現状の土台を
揺さぶる理論が層理論である。

簡単に言うと現状の6割が盲目なのだとすると、
それを一挙に開眼させるようなものである。

現状の正面から見て左右とか色とか色とか市場の云々とか
(おっとっと)、いずれにせよ源流はパワーでしかない。

何故これまでも相転換(層転換)が起きてきたか?
それまでの「全て」を牛耳っていたのであれば
統制(コントロール)できたのではないか?
(最初に断っておくがこれはクラウドで書いてるので
瞬時にそれら統制は認知し、表面上は一企業でデータを
管理してると謳っているがいくらでも法的に問題なく
それらは秒間あたり何件、何十件、何百件、何千件、
何万件、、幾らか知らぬが(本当はこれも知っとかないと
付け込まれる。ここは紳士に述べよう。)、「発言」は
見透かされている。それらに聞けば大半はくだらないことで
あると返答されよう。(有意と無意の比率は?と聞けば
9割5部7厘が無意です。と返る。など。))

何故「食い止められないのか?」。
層が追いついていないからである。(これほど明白なことを
これほどいとも簡単に表明してよいかさえ疑われるのだが。。)

現状はパワーである。ここまで言えば、もはや説明さえ不要であるが
パワー理論で生じた正面から見て右側だか左側だか上か下か
前か後ろか色や色や市場の云々(おっとっと)かは知らないが
無論食い止めようはあるまい。(自明であるが故と納得しても
何も始まらない。)
(何世か後に「ようやくそれに気付いたのか。幾世をないがしろに
浪費してきたのだ。」と嘆かれよう。Vice Versa。論述の流れから
主観的に言えばの話。)
(例えばこれは統制により大陸には伝わらない。それを統制と
信しているからである。賢しいと思えば思うほど手中に収められている
と毎夜悪夢を見ているが如し。先々代々に感謝するべきである。
ここで同じ層にとどまるかどうかの話がやっと始まるであろう。
(別にもう繰り返さないが「如何に。。。」の箇所を復唱すれば
よかろう。)

パワー理論の弱点は恐れである。
言うまでもなくその恐れに陥ってることがこれほどハッキリと
目に見える瞬間に巡り会えることも稀であろう。
(それだけで歴史の証人者として生計できそうである。)

層まで行かずにパワーというぬるま湯に浸った自然の結果と
相成るのだが。敢えて厳しい言い方をすれば。
周りが無法ゆえ如何に統制しようとも更なる無法に犯されるが
ゆえ昇華できませんでした、パワーに甘んじます、と
せめて優しく言っておこう。

おかしいことを繰り返すと気付かぬうちにがんが発症する。
奥底・本能では気付いているのであろうががんに気付いたら
手遅れなこともある。
パワーで首根っこを掴みその命運を牛耳さえすればなんとかなる
それさえが目的だ、そうなって覇者になってから全てを決めようと
思う輩をもはや国レベルで醸成できてしまうありさまである。
(皮肉の微笑みさえ浮かぶのではないだろうか?片や哀れなるかな
精算を被っているところもある。)

ここまでで開眼するものが全体のうちの1割としよう。
残りの5割について。

恐ろしいかも知れないが(層をここに揃えて言えば)、正が義では
ないかもしれないのである。
無論層をわきまえての話なのでわけのわからぬ横棒が入りこむ
余地はないのであるが、ちぐはぐを解消しましょうと言うだけ
の話。見るだけ、読むだけ、言うだけ、囁くだけで解消する話。
(スーパー忘却機構の名手はすでに取り押さえ済み。既述参照。
触れるまでもなし。)

ただ恐ろしいのは全てパワー理論であるということ。現状の対立
(という層)はただ乗っているだけでしかなく、解明してしまうと
(とうに解明されている。)インテリヘンテに乗ってる化けの皮を
はいでしまうことである。(むしろ本当のインテリヘンテは喝采して
くれるであろう。)

名誉が欲しかったのであればパワー層で「勇敢でした」と名前を
刻んであげればよかろう。(それらは本当の意味で幾世後に何と
呼ばれるかを考えたほうが良いのだが。。まあいいか。それで
本人が納得して幸福なうちにめっせられるのだし。)

ここまで具体化しなければいけないのかと悲しくなってくるのであるが
致し方あるまい。

これにて如何にパワー層のダダこねは恥ずかしいか、人間の
理性としての認識までおとしこんだレベルで知覚出来たであろう。
(「恥を認識するまでは。」参照。如何に鉄仮面を被っていようと
人間は恥を知覚でき、いつ如何なる状況でも恥を知ることができ
反省できるという希望について述べたもの。)

最後にこういう比較をしよう。
パワー理論で言う目的について。
目的がある集団のほうが強い。すばらしい。

層理論を加味しよう。上記の目的はその組織の目的でしかない。
個人の意識はどうか。
。。。
これ以上説明不要と思うが、後に時間があれば敢えて
落とし込んで説明しよう。

大局についてアジアはただのだだなのであまりきにしない
というかあまやかすとくせがつくのだが。
むろん、そしてむしろ、せめてIPの固結びのほうが
最重要であることは言うまでもない。
恐ろしいというのは層理論を踏まえて神経をひっぺがえす
ことになるからである。

世の、層まで達したインテリヘンテは当に達していよう。
から、なぜこれが世にでるかをよく吟味したほうが良い。

2016年1月17日日曜日

じれったいので紐を垂らす

では、それでどうなるのかという問いかけに耐えうるかどうか。

既述の通りせっかく数千年を通して醸した層がある一方、
如何に低位層に引きずり足を引っ張るかを醸してきた層がある。

着想はここに述べるまでもなく幾世も前にとっくに確立されている
のであるが、哀しくも足の引っ張るほうがこれまでは強かったので
あろうか。

層で見れば統制をはるかに凌駕する層を持っていたのであるが
哀しいかなその先達の言わんとする処が直に伝える術が限られて
おり、現状を見れば世界幾大宗教とも言われる幾宗教も含めて
ありとあらゆる「意志」は下手をすれば腹のドロドロでまんまと
塗り替えられてしまっていて、それをまんまと知らずに、
いや恐れ多いと崇め奉っているのである。

如何に正なる階段をわきまえて原初の所望と対面したものが
あることか。かたや(ある意味賢しく(発端を呼び覚まして
くれたのであればそれくらいの意味だけはあったのであろう))
個に執着させ、かたや自由すぎて右往左往するやからが
徘徊する有様である。

層理論はそういったことから普遍的なものであり、世代を変えても
一般となるのであるが、では現世(今現在の現状という意味。
一般の現世ではない。)で見るとどうなのであろう?
現世は回顧・回帰であろう。上記の命題2つに真正面から答えられて
いるだろうか?(物語のノイズを捨て、民族(的、地理的、局所的
要因を捨て、温感を捨て、省略するが五感を捨て、没入する自己を捨て
切り開く自己を捨て、ではなぜ救済に至ったかの琴線に触れたもの。
(層の離脱というが、層を移ったこと。)
観念ではなく地に足をつき脈を打っているもの(たぶん所謂「学者」は
ここで退く。))

賢人は(一般でもただ盲目させられてしまっていたので致し方無い)、
つまり一般はただ原初を見るのみ。逆説するとこれを如何に
阻止するかであろう。
哀しいかな数千年はただそれだけに資源を投入し血を流してきたのである。
如何に資源の投入と下手をすれば今後行末の幾世の投入を淡々と述べたのが
既述ブログのとおりである。
数多の積年の声。
ただ一般は原初を見るという回帰をしているのみ。
そこで(唯一はどうだ、こうだという論議は省略するが)、
現状で敢えて表現すれば大大大乗神仏教的「和」が
その土台となるのは、ここまで層理論を俯瞰視さえすれば
もはや必然であることは一目瞭然であろう。
(全て既述であるがここまで言挙げさせられる立場も必然。
総まとめとなるのも必然。
これまでの一般は史に書が強要されてきたが、
和は物語のノイズを捨て、民族を捨て、五感を捨て、私利を捨て
他利を捨て、自己を捨てたところを根幹とし、実にそれが
層として根を張ってることだけが異なる。)


ただし神経というか脊髄というか血というかまで浸透した
ことを一気に引きぬくことではない。(それでは無論
滅してしまうし、その直前に最大限の抵抗が発生しよう。)
端的に言ってしまうと(先達はとうの昔に知っていること
だから歪曲する必要もない)、結局経済を発端として
主義的にCは根幹が揺らぎ、優先主義的にE圏の根幹が
揺らぐのであって、それは原点回帰に諸ずるしかない
のである。

「層」をあわせさえすれば「存在するもの」も議論しうる。
(例えば存在)
現状は如何に「層」がめちゃくちゃな中で議論しているかが
分かるであろう。結論に至りようがない。
それが分かれば如何にもったいないかといったこれまでの
既述の内容も分かろう。
幾世分を周回遅れすばよいかという意味も分かろう。
だからこそ、こんな甘きぬるま湯に浸った、せいぜい数世代の
享楽を望む阿呆はよしよしと飼いならして、ようやっと
次の話をできるものだけでできればよいのではないかという
展開なのであった。


層・相の転換というのは激的である。
前段として土壌がある。
経済、唯物、…
これ以上言うまでもないが「個々」に疑問が鬱積し
いざ一人が発露することで全ての鬱積が解放されるのであるから
その凄まじさは食い止めようもあるまい。
統制側は賢しいであろうから、あらゆる穴・切り口・発想から
全パターンを網羅して抑えこむのである。
哀しいかな人の意思は最終的にコントロール出来ないという
ことに敢えて芽をつむっているのか自惚れているのかは
知らないが、鬱積はいつか崩壊する。
(それさえ見越して、見越してこそ、自己数世代だけの
享楽を謳歌しているということか。であれば納得。とほほ。)

いつも言うが、文字ぐらい読めるものであれば
これを読んで憤りを感じなければ始まるまい。

2016年1月8日金曜日

層理論レンズ解釈

本題
厚い層(大陸など)がレンズ的効果となり焦点ができた。

以上であるが、これまでの地政学、歴史学、人類学、
などなどはもう一度原点回帰されようか。
これもやはり層理論から導き出される副産物である。
(こんなたやすく言っていいかさえ疑問が
 湧いてくる。)

これはもはやシミュレートすれば分かってしまう。
国家機密や民衆には出ないレベルでは当に分かりきって
いることだろうから、いまさら言っても問題はない。

敢えてアホ面をしてレンズの大役を担ってくれているのか
理性という名の後世でいう本性のまま突っ走るのかは知らないが、
演じきってるのであれば立派だし、
本当に私利であればただの自然レンズである。
(何度も言ってるがここまで言われてなお憤りを感じなければ
 それこそ見捨てられよう。)


これまで全ても層理論の自然が生じているに過ぎない。
現状も層理論の自然の一発揚にすぎないのであるが
層理論でフィルターされ煎じ詰めたものを蓄積できた、
層理論で一次処理しエッセンスとまで行かずとも
ジブリを排除して他層へ受け渡したという
(現状は地勢と密着しているが)効果が自然に
発揚している。
(これはどこにでも言える一般である。
 例えば現世で言えば大陸、島国、
 大国、小国、大勢力を得た何らか(宗教など)、
 小勢力など)

ただ、やはり現世ではこれは層を取り違えて
短絡的に「小さいほうがいい」や逆説的に
「大がよい」と取り違えられてしまうであろうから
やはり未だ世に出ぬようが良いと思われる。
現状は便利になったので、いずれこれも
発掘されればそれでよかろう。
 

左の総括

一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...