2013年4月25日木曜日

排除に傾く瞬間の考察

集団の特性がある。

それに合わないものが入ると排除に傾く。

集団が大きいほど、許容性は一般的に大きくなる。

逆に、その集団の特性を変えることは困難になる。

以上は一般論。(だと思うが、これまで誰も
世に出してないなら、これが初アイデアになる。
世知がない世の中の件による。)

問題は如何に集団が特定因子を排除すると決定するか
である。

これまで幾つもの瞬間を目の当たりにしてきた。
それらは、いつも驚愕を伴うものであった。
昨日まで「仲間」であった者を一夜にして排除対象に
してしまうのである。
この心理を解明したい。可能であれば集団力学として
解明したい。
(これ以降は学会同様、これに着想を得たものは当然だが
これに沿うものや、後発のものは、私のこれの配下になる。

世知がない世の中の件による。)

ーーーーー
さて、権利の布石はしたので、本論に入ろう。

どうしても属さなくてはならない集団がある。
そこで問題は起きるのである。

なぜなら、集団に属するかどうかの意思決定の
自由は本人にあるはずなのに、それ以上の
運命的、強制的な働きかけにより属してしまう
からである。
または、意思決定に至るまで未熟な場合や、
「とりあえず属した」だけなのに、「入ったら
最後」の場合がある。

敢えて特定のもんだに当てはまるならば「学校」
があるだろう。
日本、ひいては世界規模で同様の「学校」集団が
ありその規模は計り知れない。
その体系はもはや変えられまい。(その教育としての
「目的」を考えれば当然である。以下は「森を見る」
参照。)


しかし各所属対象のリージョンはごく狭い領域に
絞られるのである。
「学校」、「学年」、ほとんどは「学級」のみが
実質リージョンであろう。

典型的に運命力、強制力が強い例である。
(過酷な運命をくぐり抜けて成功する例があるが、それは
次の「排除からの離脱」論と止揚して論ずる。)

何事もそうであるが当事者になってからは遅いのである。
(語弊を恐れずに述べるのであれば。)
事が起きている時点で手遅れであることは自明である。
そこから解決に至ろうとしても、もはや当事者になっては
視線がどうしても限られてしまうのである。
(我々は少なくとも何らかの「当事者」であるので
肝に銘じなければならない。)

現世にあった事例や言葉で記しているが、これは
いつか何らかの数式やアルゴリズムや体系によって
表される。(私がよく言う「本質」や「エッセンス」に
相当する。それは未来永劫残るのである。)

我々は悲しいかなそれを煮詰めだす一組織でしかない。
楽しいかな一つの本質を産み出せる部分、同義として
全体として居られること。

※※※ To Do ※※※
論理が乱立しすぎ。要整理。
※※※

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