2013年4月7日日曜日

中庸とまとめられるだろうか

2011/10/15 0:03


ある人または集団のなかで考えられる、最も理想を寄せ集めた仮想世界を仮定する。
「桃源郷」や「ユートピア」と言おうか。または「ノアの方舟」もその一部に属するかもしれない。

現実に築きあげてきたものがある。その終結として「ルール」、「法」、「憲法」と言えようか。

時代、もしくは、または(時間と空間をあわせて「OR」を取る時の言葉を知らないので表現できない。。。いずれ「大衆の自然淘汰」によりふさわしい言葉が現れよう。)地域のなかで それらの最善策が講じられてきた。


以前書いた「淘汰の歴史」の通りだが、迫害やら追放を受けながらもしっかりした真をもった説が残るわけである。所謂、三大宗教が現段階ではあるわけである。

それは理想を説い、また守るべき戒律を説く。
現代においてもそれは通用する。
(大変失礼なことを言うが、そのことが私には驚嘆に値するのだが。誰も分からないだろうが。^^)

敢えてイメージ化して言うならば、
理想というイメージがもわもわと浮かんでいて、
現実から生まれた、でも完全ではないルールがもわもわと浮かんでいて、
それらが重なり、濃縮されたものが実際に生きる現環境であるわけである。

その「もわもわの重なりあい」の一つの解法を示す、または定義しているのが所謂三大宗教でなかろうか。

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ここでようやく、前回の「温床」の話につながる。
いわば、現代はそれら三大宗教という温床に浸って、甘んじて、あわよくば苦労をしていると演出していたのではなかろうか?ということである。


いまや誰も本当の救済を考えていない。(温床に甘えているから)
ここで、現実の恐ろしさを言おう。(伝えはしない。教えはしない。)

ご自身が「救済」や「善意」だと思って行動していることの根幹は何か?という問である。
それは、以上で言った「温床に甘えていない救済」か?ということである。
これは前レベルの論法ではあるが「何かしたいからボランティアをする。善意を示したいからとりあえずボランティアをする。」という形式のみ、対外的な目的でしかなければなんの本質も存在しない。

それは「救済」という次元ではただの「駒働き」でしかない。

いまの「理想」で「民族問題」「考え方の問題」の決着を待たなければならいのか?
または「民族問題」、「考え方の問題」を今の「理想」で解決しなければならいのか?

ここに十分に煮潰えたものがあるのに使わない、または目に入らないようにする、または目には入ったが煙たいので目をつぶる(歴史の繰り返しになるが。つまり当事者でありながら歴史の形跡上はただの「野次馬」で終わる人のことになり得ること。)人になることになるかどうかである。

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今のところ、影響が大きすぎるので下書きとする。

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