本日は完全脱線
小さい頃、私が猫の前足のことを「手」と言ったら、兄に大変からかわれた。
当時もそうだし、今以下に論ずる検証をもってしてもなお、感覚的には、なぜそんなに話のねたに取りざたされるだけの意味を有するのか納得には至っていない。
別に動物の前肢を「手」と定義するのか「前足」と定義するのかの論争をしていた訳ではない。ただ何かの雑談で私が「猫の手」と言っただけである。
それに対して兄は「手じゃなかんべ」やら、よりによって夕食のみんないる所で「今日、ヒロ(著者)が猫の前足の事を『手』っていったんだよ」などとやんややんやで言われるものだから、私も困窮してしまった。「『猫の手も借りたい』っても言うべや」という反論もあったのだが、追いつめられて茫然自失してしまった私はただ兄の言うに任せざるを得ずであった。
今思うに兄の論拠はこうであろう。
動物の前肢は「前足」である。学校で習ったのであろう。つまり「手」とは動物には使わないと彼の解釈が入るのである。彼の定義力は愚弟ながら恐れるものがある。(いい意味でね。)また、それを守る責任感は私には到底及ばない。正に「学」を守り、「学」の守護を任せるべき人であろう。
そんな訳で「手」とは人にのみ特別に使用される言葉である事になった。(はずだ)
私の論拠はこうだ。
猫も生きている。頭部があって前肢があって腹部があって後肢がある。猫や犬はしっぽがあるけど人は無い。(あるけど見えてないだけ。)驚く事に構成要素は一緒なのだから仲間である。仲間に対しては同じ呼び方をした方が良い。よって猫の前肢はいつも地面に着いて「足」みたいだけど人からしたら「手」だから「手」と呼ぼう。
無論、ここまで論拠立てて考えていた訳では無いが、感覚としては上記のような発想で「手」と呼んだ訳である。(当時としては((今も若干そうだが))昆虫、鳥、魚、所謂生命体、さらに拡張して無生物、非存在、知覚対象、非知覚対象、有意識、無意識、「有」、「無」までも仲間だと思っていた。いる。)
「定義」からすれば私は敗北した。しかし「概念」からまた私の考えも一理ある事を無言をもって表した。兄は私の「無言」の意味する所をまた知っているのである。論で倒しても心のどこかで腑に落ちない感覚を感じていただろう。
1.封建的にもしくは家族という組織として
家の「長」意識を持たざるを得なかった兄はそれを正当に実現したのである。私も私の体たらくぶりを恥じてはいるのだが、家の事は兄に任せっぱなしであり、頼りっきりである。(しばらく兄に会っていないので、今度兄にあったら雷の一発や二発は浴びるであろう。)
「猫の手」事件も今考えるとそこに帰着するとしみじみと感じ入る。兄は規律、規範、その土台となる「正義」を守っていてくれている。家系の重みを言下に自ら知り、実行する人である。
兄の定義論に対して私の概念論で勝っていると思っている私だが、現に兄には決して歯向かえない。
(定義論と概念論の対立は我々が一緒に住んでいる頃はしょっちゅう起きていた。「戸棚と引き出し」論争も面白かった。今度一本書こう。)
2.兄弟という「相」
恥ずかしいが「兄あって私あり」だと思う。小さい頃は弟の宿命として常に負かされ泣かされていた。子供の反抗心として常にそれにどう立ち向かっていこうと考えていた。論拠に矛盾は無いか、威圧は無いか、定着事実を押し通そうとしてないかなど。
今となっては、それらが全て糧になっていたのだと思う。兄も私の特徴を知っていよう。対立はしているが根底に「そんなことはしまい」という信頼があるのでお互い安心して回転できる。実生活で関わりがなくとも「兄なら何というか」と判断基準として回っていけるのである。
これも一つの「相」である。エッセンスがあると思う。
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