2013年4月7日日曜日

既成から脱する事のエッセンス

2011/06/12 0:30


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残せるものとしては、いかにしがらみから脱せられるか、既成の枠組みから脱する事ができるか
の方法なのではなかろうか。
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捕われずに在してきた集団があり、個人判断でむしろもっとも俯瞰できる個人をもしくは集団を排出できた事実がここにある。これを残すべきだろう。(最低限として。)そして可能であればそのエッセンス、和文では本質を抽出し残さねばなるまい。

(敢えて記すが、いつ、どこで、だれが、誰に対して、どのように、なぜ、どのように、と聞くのであれば、「之」が「この」ように答えると記さねばなるまい。14)


何度も言うが、むしろ三相の頂(再始点)が知っている事であって、(後輩として彧人も、別始点として彧人も)、その本来であって、それさえ、それこそ残さねばならないものだとようやっと再認しただけの事である。千だか万だか掛けて、である。

言いたくはないが哀しくなるし、後世に悲しまれる時代で終わってしまう事になってしまい何とも言えない状態になってしまう。

むしろそうなれない(ならない)状態のもののほうが幸せなのだろう。(現代では。)
それは全て後世の負の遺産になる事を、最低限気付いた人が背負っていかなければならない。とても重い。支えきれるか心配だ。が、仕方がない。字が読めない人たちを背負わねばならないのだから。責めはしない。読んだら背負う側にきて欲しいだけだ。

これだけ言っても。

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