2013年4月7日日曜日

千だか万だか時間を費やして

2011/06/11 22:01


残せるものとしては、いかにしがらみから脱せられるか、既成の枠組みから脱する事ができるかの方法なのではなかろうか。


というのも、こう想像してほしい。既界が終焉して何が残せるのか?エッセンスは何か?と。
終焉後に何かが生じるかも知れないし生じないかもしれない。
生じたとしたら何が残せるか。メッセージ、可能であればエッセンスとして残せるのか。

話はとても単純。

無論、今現在執筆中から数千か万か億か京か垓か秭か(はしょって)無量大数か、もしくは執筆現在の刹那までかは分からないが「存」するかもしれない。
それが終焉したと仮定(あり得る方が比重が大きいものとして、つまり50%より大きいとして)して欲しい。
それでも想像が及ばないなら太陽系を考えて欲しい。太陽が白色矮星になる過程で地球も飲み込まれるだろうし、最近の太陽の活動変動でいつカオス的な変動が起きるかも分からない。
そこまで思考が及ぶか、その前に思考を停止するか。ふたをするか。

及ばない時代か、及ぶ時代か。
現世的か三世的か(不及説、三世とは過去、現在、未来。3で世界が表せる。)
慈しむ時代か、慈しまれる時代か。もういいかな?(これだけ言っても気付きませんか?という意味)

先代はそういうことを憂いた訳で、現世的な利己主義の道具を具現させた訳ではない。(何度も言っているが。)そもそもそれを現世的に扱ってはいけないのであった。(敢えて完了形で記す。もうそろそろその位のレベルでよいだろう。)
至高まで到達しないまでも、あるレベルまで達した先人や後継者が、その具現されたものを振りかざしてしまったがために千だか万だかの時間を現世的に使ってしまったのである。
それは、仕方のない事だ。レベルが達していなかったのだから。これは決して過去を否定や非難するものではない。(文脈というか文間を見れば明らかだが。)


さて、いざ開眼して見極める段階になったかという話がやっとできるのである。
千だか万だか時間を費やして成長できたのか棒に振ったのかという話である。
到達者のエッセンスを現世的、利己的、または短期的真理にしては、させてはならないのである。それ自体が謀反であることを知らなければならない。ちゃんと原点に回帰しているか?いわいる「原理」や「教典」にまたはそのあつさに飲み込まれてしまってはいないか?

真理はそんなに難しいものではない。そんなに派生するものではない。1世代で1個人で直接見えるものである。
逆に「教」とつく個人や団体も気付くべきである。それは原点的か。つまり原点と直接対話ができているかと。原点というものが「原理」や「教典」でバリアされていれ、もしくはイミテーションされていて本質と相対できていないのではないかと。

前回も言った通り、それでは「そもそも話」になってしまうのである。「教」ずる人も「教」される人も全てが崩壊してしまう。そうさせてはならないと(手遅れかもしれないが)言った。
希望(せめてもの救いという意味で)としては、柔軟性を持ち合わせるものとして再起が可能であるという事だろう。


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現代を憂うばかりに何とか糸口を見つけようとごちゃごちゃ書いてしまった。
せっかく千や万の前に在したのに対話できない事が残念である。こういう時代であったという事なのだろうか。

しかし、たったひとつでもあきらめはしたくはないと思う。

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