2013年4月25日木曜日
排除に傾く瞬間の考察
それに合わないものが入ると排除に傾く。
集団が大きいほど、許容性は一般的に大きくなる。
逆に、その集団の特性を変えることは困難になる。
以上は一般論。(だと思うが、これまで誰も
世に出してないなら、これが初アイデアになる。
世知がない世の中の件による。)
問題は如何に集団が特定因子を排除すると決定するか
である。
これまで幾つもの瞬間を目の当たりにしてきた。
それらは、いつも驚愕を伴うものであった。
昨日まで「仲間」であった者を一夜にして排除対象に
してしまうのである。
この心理を解明したい。可能であれば集団力学として
解明したい。
(これ以降は学会同様、これに着想を得たものは当然だが
これに沿うものや、後発のものは、私のこれの配下になる。
世知がない世の中の件による。)
外国人の日本生活、特に妊娠・育児について
誰かに聞きたいけど聞ける人がいないことがあって困って
いることがある。
うまく同境遇のコミュニティや、地域社会に入り込めれれば
よいが、うまくいかなった場合のセーフティーネットを
作りたい。
体験を通してそう思う。
2013年4月20日土曜日
尊いもの
可能性を秘めたものとして子孫は我々より尊いのである。
それは先祖が尊いのと同等である。
年齢という層だけでなく、そういった層で見えるかどうかが
肝要である。
極小リージョンで生きられるものは幸いである。
2013年4月17日水曜日
視線のつながり
(同様に「注意点」、「臭いのもとを辿る」、「音を聞く」、「触覚を頼りに辿る」など「ベクトル」を伴うもののつながりまで含む。)
そのうち、それについてのスタンダードができる。
私はそういった分野の専門外であるため、そういった門外漢がスタンダードを作ってしまっては、それらを生業にしている人に悪いだろう。
(ただし時間の問題で、誰も作らなければ作るとしよう。一応書いておくとこれがオリジナルで、派生したものまで権利が及ぶので注意。つまりこれが世に出た以上は、これに類したものは、この配下になるのであった。あぁ、世知がない世の中だ。嫌になるが書いておくしかない。念のため先取りして謝っておこう。抜け目なく喜怒哀楽の全てを集約してここに記しておこう。これを毎回書くのも大変なので、とりあえず最大を取って、私の著作/考えたことについては同様のことが言える事としておこう。)
呼び込んでしまう要因の考察
Region : Private
(書きかけ。だけど、アイデアはこれがオリジナルで、派生したもの/これを基に着想したアイデアもこの配下になります。)
悪意を呼び込んでしまう体質や性質は、その個体/集団の「影響力」が要因となっている。
それは悪意に限らないことを鑑みれば自明である。
−−−
問題を嘆くだけでなく、その仕組を紐解き解決するための礎になるものである。
証明写真作成機構(アプリケーション)
任意の画像から証明写真を作成する機構。
切り取り部の選択は以下及び機能の追加が可能。
・範囲選択
・顔認識からの自動選択
切り取り部選択時は「証明写真条件」を判定。(以下に主なものを挙げる。判定要素も機能の追加が可能。)
・顔が正面を向いているか。
・サングラス、帽子していないか。
・解像度は十分か。
出力時は一枚のサイズ(3x4cmなど)及び出力サイズ(Lサイズなど)が選択可能。
出力サイズに一枚のサイズ分を自動で敷き詰める。
このデータをデベロップすれば簡単に自分で証明写真が作成できる。
アイデアをここに公開し権利を取っておこう。
2013年4月13日土曜日
バス・電車
これをバス停に表示すればCSが向上するのにと
何年も思っていたが、都バスでは既導入だった。
カスタマーの声を聞き入れてくれる体制はよい。
都会に出てきてからずっと思ってる、電車の
「到着した駅は結局何処なのか?」はいつ解決
されるのか?
初めての路線でいざ駅に着いた時、停車時間が
短い電車だと「結局、到着した駅は結局何処
なのか?」が分からず乗り過ごした事がない
だろうか?
駅名を探そうにも頼りの「次駅/現駅/前駅」
標識が見つからない/見えない場所にあるとか、
駅内の電光掲示板は「こちらが降車ドアです」
とか明らかに分かり切ったことしか書いてなく
焦燥感を感じたことはないだろうか?
都会に出てきてずっと思い続け、事あるごとに
発信はしているが一向に改善はされない。。。
(単純には駅構内のサインが少ない/駅に着いた
時のアナウンスがない、というのがカスタマーの
不満なのだが。
都会に慣れろというalienation / racism的な
疎外思想が故に敢えて変えないのだろうか?
疎外思想が行き着くところは芳しくない。
(「考える人」であれば常識だが。)
現代に当てはめるならば外国人観光者に対して
優しくなく観光業が振るわない、と言うことで
実感を持ってもらえれば良い。)
「改善」を決断するのであれば、それまで声と
して挙がらなかった幾多の無念の声を汲み上げ
受け止めなければならない。
(それが故に約束に間に合わなかった人、学校の
受験に遅刻し受験資格失効した人、仕事を失った人、
資格を失った人、運命の人を逃した人などなど)
「それが人生/古き良き時代」とも言うが、
技術革新はそういったものと相対しながら
止揚するのである。
と、今回はそんな深い話しに潜らずに済み、単純に
「駅に着いた時に結局、今自分はどの駅に
居るのか?」を分り易くして下さいね、
と言いたいだけであった。以上。
2013年4月12日金曜日
2013年4月11日木曜日
2013年4月8日月曜日
2013年4月7日日曜日
全てを受け入れるもの
全てを受け入れるものでいることは大変であるが、そういう立場に居られることに感謝しなければならない。
来るものが良い物だけであれば良いが、悪いものや悪意も勝手に寄って来てしまうものである。
悪いものや悪意は目標達成においてものすごい障壁になるのだが、それでさえ感謝をもって受け入れて行かなければならない。
そういうもので居られること、そういう星の下に生まれてくることができたこと、そういう星の下に産んでくれたことを感謝しなければならない。
また、この星の下に生まれることを選んでくれたことも感謝しなければならない。
「なければならない」ではなく「成る」のである。
Blogger分離
如何に日記として書いていても、どこかで見られていると思うと思考に邪念が入り、考えを掘り下げることに専念できないため、このブログは敢くまでもソーシャル向けのものとしよう。
取引をしてもらう方から変に思われても仕様がないし。
(Bloggerも最初は良かったんだけど、連携するようになってね。。なんでもかんでもソーシャル化していく時代の流れには逆らえないけど、ソーシャルばかりに浸っていると内面を磨く時間が取れないと思うんだけどなぁ。。。おっとまた始まってしまいそうなのでこれくらいで失礼するとしよう。)
↑これで転載完了。
駒か操か
厳しいことを言うが、
で書くことを忘却してしまった。
多分、駒として生きるか操するものとしてなるかを
理論付けれたらと思って夢想したことなんだけど。
いいか悪いかは別として。(何処だが。)
まぁいつもどおり手記、私記(not public)だからいいんだけど。
当店にご来店、ご利用いただき
あるお店で、「当店にご来店、ご利用いただき、誠にありがとうございます。」とアナウンスしていて、ちょっと違和感を覚えた。
当店にご来店『して』、ご利用いただき、という意味なのだろうが、『して』がないと、「当店に」が、「ご来店」と「ご利用」に掛かってしまい、「当店にご利用いただき」という風に聞こえてしまう。
日本語学的にどうなのだろうか?
「バカは風邪ひかない」という相関について
脱線
「バカは風邪ひかない」という相関について敢えて原因を求めれるならば、「バカは基礎体温が高い」事が一因ではないかと予想する。(個人的にはそれに加えて、本人が気付かない、または認めないことも大きな要因だと感じる。)
逆を言えば、基礎体温が高い人はバカに見られる、と言うことか。
自分の意思、理想に基づいてせわしなく活動してる人は周りの目など気にしないものだ。
言いたいように言わせておいた方がよろしい。
また別の面からは、集団のなかで特出した行動をとる者をマークアップするための組織的自浄機能ともいえる。
この機能が強ければ、統制は強いが特異物の排出機能は弱い集団になり、逆もしかりと。
進化理論に沿うならば、特異物は必要であるが、特異物だらけでは母集団が崩壊する。
その最適のバランスを我々は実生活を通して探っているわけである。
(聡明な国家的機関であればとうの昔に調査してるだろうが。もしかしたら実社会に適用してるだろう。表には出ない/出せないだろうけど。)
逆乗っとりは正当防衛か?
正当防衛として、攻撃者にたいして、逆にウィルス感染、乗っとり等をすることは正当だろうか?
(完全に相手が判明した場合だが。当然通報すればちゃんとした機関が対処してはくれるだろうが、時間的、危険度的に即応性を問われた場合の問い掛けとして。)
マーカーだけでも付けられれば、取り逃がす数も減るだろう。
集合体における「層」理論
だだこね集合体(※1)が、だだをこねて自分のやりたいことを押し通すような現在のレベルに付き合っていても時間が勿体無いので、そういった集合体は表向き「よしよし困った子だね。」と暖かく見守ってあげる事にして、次のレベルまで成長できた集合体同士でちゃんと考えることを始めようと思う。(これまで述べてきたように現状を嘆いていても始まらない。)
そうすれば、だだこね集合体も、自分の浅さを自ずから覚えることだろうと期待する。自覚しない以上は変わらないものだ。
集合体は「層」を形成する。その時々において「階級」や「優位層/下位層」などと呼ばれるが、「集合体を統制する層」や「優位な立場に立った層」が例え別の「層」を排除しようとしても、それは達成し得ないことは、さんざん歴史で学んできた。集合体は自身に含んだ矛盾や、どうしようもないアホタレも、集合体内部で解決して行かなければならない。
(集合体における「層」の力学は別の論でまとめる。)
※1:集合体…ある意思をもった、または明確な意志まで有せずとも何らかの関係において寄り集まった組織の枠組みを指す。その集合体を形成する組成体が整数で数える場合に、N=1の場合も含める。(例えば「人間」であれば、1人の人間でも集合体と呼ぶ。)
また、N=0の場合は、過去において存在した集合体や、将来出現しうる集合体を指す。集合体を形成する組成体が連続的なものの場合は別の理論となるのでここでは割愛する。
実際の社会に集合体を当てはめてみると、例えば、個人、家庭、社会、地域、国、地球、宇宙、意志、政治、宗教、信念などが挙げられる。
無線聴診器。どうとでも。
無線装置(Bluetooth,IEEE802.11a/b/g/n, zigbee(IEEE802.15.4)など)を備えた集音装置。
受信側がイヤホンであれば聴診器のように使用出来る。
PC等で受信しPC上で再生、録音するなど用途が広がる。
集音装置側に広角集音装置を付ければボイスメモ、会議録音など現在一般的となったマイク装置になる。
なかなかマイナーな聴診器がもっと身近になればと思い、特許化せずに公開する。どうぞご自由に製品化してください。
二次、三次の対策
耳や目にすることは一次対応であって、その結果の対応や、またその次の結果の対応という二次、三次の対策がある事は言うまでもない。(そうでなければ、ただ図体だけがでかい脳たりんであり、それはそれで隣人として何されるか気が気ではないが。)
かといって突拍子もない対応もとれないわけで、表面上は妥当な反応を示すしかない。
一般論は以上だが、しばらく続いている土の問題は、シナリオが丸見えなので思惑通りにはいくまい。
(大切な事はその次の展開である。これを1庶民が日記に残す事にも意味があるのかもしれない。)
盲信してしまう
性質
まじめだが指示や命令などお上からの指令に何の疑問も持たずに実行してしまう。
やることはまじめであり、お上を盲信してしまう傾向が強いため、いい方向に動けばよいかが、危険な方向に動くと本当に驚異になる。
今日の持たずにお上に従っているので個人ののびしろも限られており、なぜリーダーが育たないのかと嘆くのはめくらな疑問である。
・プラントの安全性→IEC/ISOの基準を取っただけで、変更発生時の安全性の見直し等の運用のライフサイクルが回ってなかった。(本来はこの時点で規格不適合であるので、認証を取り消さなければならないのではないか。)
目的を見ず、形が大切という考えが端的に発現している。安全神話の格をなすもの。
・指導問題。「自分はこういう指導を受けてきた」ので何の疑問も持たずに実行してる。
なお、ひとつの問題が生じると似たような問題が全国で次々発覚する現象についても、その性質がうかがえる。「ガイドができたから出していいんだ。」
視線サー
視線サー
視線を検知するセンサーまたはその仕組み(画像処理やセンサーまた、それらの組み合わせ)
(追伸)
最近このアイデアを流用したスマホ操作装置がでましたね。
おもしろいたずら書きコーナー
こどもは敏感で鋭い。
「おもしろいたずら書きコーナーを開設したいのですが、肖像権侵害や誹謗中傷等の問題はどの程度から発生するのでしょうか?」
多様性を考える上での前提条件
排除理論と同化/協調理論、その利点、理想とその欠点、極論を理解した上で多様性を考えなければならない。
個体の領域(リージョン)、組織のリージョン、それらの方向性(ベクトル)、それらを体系的に力学していかなければ。
願い事代行サービス
流れ星が見えてる間に願い事を呟くまたは投稿する装置または体系①
並びに
特定時刻に事前登録した情報または任意の情報を呟くまたは投稿する装置または体系②
①
入力:流れ星情報
出力:投稿サイトやSNSなど投稿サイトへの情報の出力
動作:入力の流れ星出現時刻を参照し、出現時刻になったことを契機とし出力を行う。
②
入力:事前登録情報、投稿情報が掲載されているURLなどの参照情報
出力:①と同様
動作:入力の事前登録時刻または参照情報上の契機(トリガー)として特定した時刻を参照し、その時刻になったことを契機とし出力を行う。
以上、勿体ないけど公表します。
Essence Collector
長いこと温めてきたシステムだが、先を越される前に発表して権利を主張しておこう。
「Essence Collector」
以前にも書いているので安心はしているが、一応再掲しておく。
Wi-Fi対応住宅
Wi-Fi対応住宅。
外部には漏れにくいけど家の中なら階層をまたいで電波がよく通るように電導線を効果的に張った住宅。(ここに公表済み。とっくに特許化されているか。。)
旗を立てたことの証明
例えば「ここに旗を立てたことを事実として権利を公認させた。」と紀元前でもいつでもいいのだが、権利を主張すればそこに権利が生ずるのだろうか?
その次代、時点のルールに従うのであれば、記録を残す時代、社会外であれば証明は難しい。
グレーゾーンはそこが難しい。辿るところまで辿った人が正しいのか。
ルーツを何処まで辿っても良いが、時代をどこまでもさかのぼっても良いが、それはボトムアップのやり方である。
トップダウンから言えば、いわば今現存する「人類」の築いた「社会」の問題であろう。では「人類」の定義とは何であろうか?期限はそれぞれあるが、交流もそれぞれある。先見の明を持った人が、遙か最果ての地を既に踏破し、当時のルール上、公認だったかもしれない。
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論をかなり飛び越すが、それらは結局、現在の利益の範囲でからしか導かれていない。
ちゃんと読んでちゃんと分かる人用に書いた。
自由意志の侵食の問いかけ
対象は今で言う国や世界レベルのことであり、これくらいのことは公ではないにしても当然考えられていることだろうから、そのことに全く関与していない一般市民がここにそれを記しても何ら問題はないわけである。
生物は生きているその時点で考えている範囲、考えられる範囲、imagineできる範囲がある。
未定義だがだいたい、狭い方から「自分だけ」から始まり「他人、他命、他物のことまで考えられる生物(あるいは物)」があり、「考えうる全てのREGION(虚であり現)」くらいだろうか。
生物として如何なる時点でも、如何なる生物でも最大限の範囲を考える可能性はあり得る。
これが正規分布になるのかどうかは統計を採っていないので分からないが、最小を探すのも最大を探すのも自然任せである。
最初に言っておくが管理の話ではない。
全員が最大者であっても成り立たないのはもはやアホでも知っている。
組織・社会を外部から管理できるかの話である。
自由意識と統制・管理の対峙の話である。
自分の生涯を通しで関わる組織・社会を「関与域」とする。直接関与するものは当然だが、間接的に関わるものも含む。
「関与域」以外を「非関与域」とする。
自分の生涯を通して非関与域からの何らかの働きかけを知覚することがなければ、それは自由意志の侵食にはあたらないのだろうか?
という命題の問いかけである。
良し悪しはともかく、非関与域からの統制・管理はとうの昔から研究され、実践されてきたのであろうことは想像に難くない。
自由と統制の対立は止揚しあう宿命であるので、ここにこれを発表し数ステップ駆け上がることくらいなんら彼らには問題ないのである。(うがったいいかたですが。。。)
「いじめは井の中の蛙」理論
「いじめは井の中の蛙」理論を確立した。
時間を使うだけ勿体無い。
井戸や罪を恨むのであって、個体は恨まない。
如何なる立場のものが属する、属したのだから。
常に属しているのかもしれない。
淘汰の対象
淘汰の対象となるのは一部である。統計的な数字を示して説得力が上がるなら示せば良い。
排除する側もまさか自分が排除する立場とは思っていない。
対象外が如何に気づくか。問題と思うか。
テレビを見て面白かったとか、小説を読んで感動したとか、表層だけの想像を共有するだけで現世に属すると満足しているか。
肌がふれあい、体温が伝わり、血が流れ、物理的に心が繋がる世界を絵空事でしか話をしない、
または、
それをしていると信じきっている、それでいられてしまう現状になんの疑問も持たないこと、
それを捨てれれるか、抜け出せるか。
80%は無理だと思うし、仕方ないと思う。それこそが文明が築いてきたものでもあるし。
80%は人の苦しみを笑って動画を見ていればよいし、いまさら加わっても欲しくもない。
20%でいれて幸せである。
幾多の無念
幾多の無念を。
少なくとも行動、労働、使役を通し活動は保たれていた。
その活動さえ遮り排除されたとしたら。
しかし、最後に意志は残る。それだけは如人にも妨げられない。過去から現在、未来に渡り永劫である。
そこまで虐げられる将来が来ると思うと哀しいが、相であるならその対極を全力を持って考え対抗することのみが希望である。
幾多の無念を。
「内」向きNetworking Service
今はソーシャルという「外」向きのものが発展しているが、いずれ非ソーシャル、つまり「内」向きのものも拡大するだろう。
世知がない世の中なので、ここにそれを発表することで権利を確保しておく。
鉄を敢えて一旦冷ます
鉄は熱いうちに打つのが大切だが、敢えて一旦冷まして、
本当に合ったものであるか確認することも大切である。
熱くなる前から知っていればよいが、熱い状態からしか知らないのであれば尚更である。
意味付け機構の実装。背景つきの文書
物語、広げれぱ言葉の全てに背景がある。
「背景つきの文書」をここに発表する。(小説、ノンフィクション、その他のあらゆる文、文明されない意思表現全てを含む)
物語においてどういった心理的、相互関係的な作用があったのか、とりうる範囲で記す、または微妙な心理、集団的心理を誤解のないように表す、新たな手段となる。
これは文化的、人類的に有益な手法であるため特許はとらず、ここに早々に発表する。
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その時の環境が先ず定義され、(その環境下で )その人達はどう感じ得るかの範囲を付随するのである。(カッコ書きしたのはいかに同一環境でさえも個人の意志は縛れず、その超役範囲は定義しようがないためである。)
もし、その人に、その時の意志の範囲を判然と、偽りなく表せるのであれば良いのであろうが。(表す側、聞く側ともに主観が入るので容易ではないが。)
※以前書いた「意味付け機構」の実装版である。
ファンとコレクター2
以前、「ファン」と「コレクター」の違いにつてい述べたが、1つの判断基準に使えそうではなかろうか?
(敢くまでも本質を知るためとしてであって、決して内面を見るための道具にしてはならない。とここまで言ってもわからない馬鹿がいるのでこまるのである。であれば救済しない方がよっぽどマシだと匙を投げてしまおうと思うのも当然だ。)
客観の極
客観の極をここに創始した。
(ここでいう客観とは 最大主観である。現在の言語レベルで述べただけなので、森が見れる人がわかってくれれば良い。過去の投稿を参照)
「対話のスタンダード」が成り立ってない例
あの問題だって「対話のスタンダード」の問題なのに、今のレベルではまだそこまで問題を落とし込めいないのが残念。あと数十年は掛かるかな。。
それよりも、その先のより大きな問題に焦点を合わせないとね。
下坐行せしものの頭を踏むがごとき
下坐行せしものの頭を踏むがごときは、はやすでに己の成長を放棄するが如し。
踏まれしものは、踏まれることを有り難く受け止め、踏みしものをむしろあわれみの念を持ちて、そのものの救済を祈る。
調査対象との相対
調査と言うのは大変だ。その内面まで見ないといけないから。もしその内面が自分を凌駕してしまっていようとも正に相対しなければならず、つまりその域に達するまでは調査の結果は判定しようがないからだ。
裏を返すと、調査対象と相対せずに内面まで調査できると判断するものは浅はかであり慢心であり、対象に対して礼を欠いている。(礼を欠くと言うことに主観の要素が入ると思ってる人は自己のレベルを見つめ直さなければならない。)
決して「タンテイ」に陥ってはならない。最も卑猥、卑屈な立場に甘んじてはならない意味である。
もしもタンテイや調査をせざるを得ないのであれば、これを理解し(当然これも調査対象になるのだろうが)、結局は自己との対話であることを理解し、決して人が人を評価や管理は出来ないことを遅ればせながら知れば、それで良いのである。
それを知ってなお、事務的に調査報告を出すのであれはそれまでであり、私は匙を投げよう。
その後は知らないが、もうこの議論の対象者からは永遠に追放されるのである。
階層化観測法
同じレベルで争っている以上、そのフィールドの最善解を得たものが勝つ。
問題はその上のレベルの話である。別に優劣の話ではない。
上のレベルになれば下位層は内包しうるものであって、破錠してはならないものである。
「階層化観測法」の概要は以上であり、ここに発表する。
これを適用していけば現在の人間の脳による、または派生的に人間の脳によって把握できた自然現象や動植物のエッセンスから理論的に過去の事象も証明でき、予測もしうる。
(これまで言ってきたように優劣をつけるものではない。そうであってはならないし、この理論をそのために使ってはならない。)
あくまでも理論の上の予測なので決して断定はしないが、今後の世界の動きを知り、それに備えることはできる。
または、いかに浅はかなレベルで闘争しているかを論理を持って面前に突きつけて差し上げうるものともなる。(参照:対話のスタンダード)
貧富や強弱や賢愚のレベルの話しでないことは、悟れるものであれば理解できていて欲しいし、しなければならない。的が絞りきれずにわだかまっていたのであれば仕方ないが、知っていたのに如何にも先駆者ぶっていたのでは。。。(これ以上は言うまい)
結局、目先の損得に魅了されてしまい陥っていくという意識にしか支配されていないものの大きさに嘆くが、これが現在の発展の速度なのだと理解し、少なくともここにそれを公表することで、何かしらの救済になればと思うのみ。
肉マン。どうとでも。
どうして誰もコンビニの肉マンの包装をより良いものに改善しないのか?
もっと簡単に提供できれば、買う人も後の人を気にせず、もっと売り上げが増えるのに。
よってここに肉マンのより簡単な包装方法を特許として発表します。(正しくは特許申請前に公開するため、追随する特許の抑止となる。)
誰も発明しないからやむを得ない。
大欲を知らぬ喜捨
大欲を知らぬまま喜捨するは浅はかにて意を成さぬ。
形式化の意味を創始者と正に同一レベルで考えねばならぬ。
そうでなければ、いかに形式を模範しようとも、
正に創始者の意向に謀反する結果となる。
それだけは、いたたましすぎる。(救済の仕様がなくなってしまう。)
意識世界
書くまでもないが、敢えて記す。
裕福だから文化的かといえば、そうでもない。
貧困だから想像力に欠けるかといえば、そうでもない。
裕福・貧困はこれまで言ってきた、「貨幣=幸福」の基盤上だけの話である。
多次元的に理想と現実の止揚を積み上げてきた。
意識の及ぶ限り、そのアウフヘーベンの極を想像し、その具体像を
具現化できた幸いな人が一世を風靡するのだが、達観者なるものは
さらにその先をいかねば、否、現世の一極という温床に足を浸けるのではなく
達観者ゆえの未開の地を往かねばならぬ。
そこまで意識が届くか。
現世のみの利益、最終的に現在の経営者もこの基準で測ることができるのだが、
方針や理念というものが現世的か、それを超えて、見据えているものかで
よういにその企業の本性がわかるのである。
個に転じても同様。
いやしくも目を閉ずるか、相対するか。
ーーーーー
未だ輪廻を離脱能う個の少なき。それを何千年前に嘆きこと、未だその再認識にしか成長せず。また哀しきや。
Shushin Kyoju roku
1.greeting of d new year
2.born as a human
3.born in this land, this country
4.looking for my life through educating.
5.the road of a educator
6.departure and end of life journey
7.ambition of studying
8.purpose of studying
9. reading
10. respect for your own friends
11.difference between human being and beasts
12. leaving desire is most big desire
「人に迷惑を掛けない」という美徳を持ちながら。。。
「人に迷惑を掛けない」という美徳を持ちながら、アホに成り下がる、成り下がっている現実にさえ気付かない、気づくことさえ放棄している現実を甘受している、もはやその美徳さえもただの言葉として右の糞穴から左の糞穴につつぬけして、それさえも快楽の一部に甘受しているものが、ものの勿体無い「脳」(後述するが、それはもはや「脳」と呼んではいけない結論に達するのだが。)のせめてもの、この世、この生命を受けた時点での生存した証拠として、それを、その意識の刹那に途上することができたにも関わらずそれを意識外に放棄したものへの、「哀しみ」である。
せっかく、それに秀でていると望んでいたのに、失望は期待の数倍にして返るものである。
期待するだけ損だと、前任はよくいったものである。
この「言」さえもまともにみえぬ糞垂れが生長する世の中なのだから仕方が無いか。
しかし、安心してほしい。それでも諦めはしない。放棄はしない。と正にここに記すを持って前任者を踏襲するのであった。と自ら証明するのであった。結果は歴史が示す。
muzukashi koto iranai
muzukashi koto iranaku te, tada [hito ni meiwaku kakenai] wo ika ni matto dekiruka to iu koto ne:D
人間学を超えて、その顛末
結論を言う前に顛末を言うのも変だか、これが世の流れなのだろう。思っているよりも世の中は早く流れるものである。
そして、しばらくの間、これについて議論されるのである。その事に、名を残したい人や業績を残したい人や、利益を残したい人はいかに先見性をもって追いつくかである。
逆に言えば、この抽象概念にいかに早くgoogleが気付くのであろうかと言うことである。
人間学を超えて、その顛末 の 賢くも著作権なる抽象をもはや目に見える形まで形成できた。 そして次なる事の話である。 浅はかに進行すれば、この投稿も無視や無かった事にできるのであろう。 しかしそうならない事は、ここまで広がったNET世界を見れば、またその先駆者であり推進者であるこの仕組みを作った方が一番よく知っているはずである。 Origianlを一般人に先に越された事を公開するのだろうが、それさえも内包していると気付かなければならない。
人間学を超えて
経営者などの教養として人間学が盛んに論じられているが、つまり自身が到達した山頂を皆に教え広めるのはありがたく、良いのだが、果たしてその教えを教授した、従ったものは教授されただけでよいのだろうか。
その背景には、以下に示す特許化した「人間学を超えたもの」があるのである。(せちがない世の中なので特許を主張せざるを得ない。既にここに示される通り事実なので過去完了形で記す。後続の論や文はや文書はこの論の従属だけとなることを、せちがない世の中なので敢えて記しておく。googleに記述の第一優先性があるからこその話だが。)
にわかには絵空事にしか聞こえまいが(達観者はこの言い回し自体に憤りを感じなければならない)、いわゆる、今議論されている「人間学」で取り扱っている視点は狭いものである。(この文は決して過去の批判ではないことは自明である。)
第一章
そもそも崇高なる「人間学」が糞を食らうべきはずの「経営者」の、最近では、「経営者」だけの信奉対象とさえ貶められている現実がある。(所謂、形だけの経営者。自ずから対自己に違うと言える人は除く。)
逆に、上記で言わんとする崇高なる人は、現代では糞を食うしか生きる術がないぼど、レベルは低俗化してしまったと、またそれを甘受する、自己の感覚を麻痺させて受け入れる、それを強いたげる、ただそれだけの虚しいレベルに自己の意識さえも低俗化してしまっている現実さえも気づけないほどの世の中に生きていることさえも認識できないことにさえ嘆けない現実。(現代の言語レベルでは堂々巡りになってしまうが)
それらへの反省の書である。
短期的か長期的か
短期的な私利に環境などの「自己以外」を利用するものを、例えば「馬鹿」と命名する。
長期的に私利を超え(本質的には一種の私利であるのだが。)環境を構築したり「自己以外」を育ていくものを、例えば「非馬鹿」と命名する。
定義は定かではないので、よりよい命名をどうかしてほしい。
「自分勝手」とかでもよいし、
「目先の事しか見えない、ある意味の障がいを持ったもの」でもいいかもしれない。
「巡り巡って自身の下に返ってくるのに、そこまで想像することさえできない程の知性しか持ち得なかったもの」、または単純に「哀れ得るもの」なんてのはどうだろうか。
再考。暗示だったのか。。。
2010.2.14執筆したものを最投稿します。
事実の対戦は集結した。
数年〜数十年の魔境の時代といってしまえば被災者(執筆者注:3.11の震災前であるから大戦のことを表す)から銃で打たれ から銃で打たれ、銃剣で刺され、クワで体を打たれ、のこぎりで延髄を切断され、カマで皮膚を切り刻まれるだろう。
私はたまたま運が良かっただけなのかも知れない。あの時の全ての銃弾はことごとく私の体をかすめ、脇腹の肉片をもぎ取られはするものの、人を人たらしめる内なる蔵は破壊されずに済んでしまったのだから。
あるいは阿呆なのかも知れない。生き抜いてしまったがために、未だ触れられぬ事実と常に同居することで、常人の知るべき感覚がマヒしてしまったのかもしれないのだから。
しかし、いや、それを踏まえて、大罪は終焉したのだと思う。
当時はでありながら当事者でない立場からは、罪と言う名の嵐の一過だったのだろう。
どうか復讐や怨みといった負の繰り返しには陥ってくれぬよう願うことが今出来る事だ。
(当事者に言えぬ事が辛い所ではあるが。)
増しては後生の方々にはそうなっては欲しくない。どうか浅はかに怨みだけを学んで欲しくはない。一部を知る以上、全てを知って欲しい。
一部を知ることは簡単だ。流れに流されるのは簡単だ。それであれば考える必要はない。
しかし、個は個として考えることを知って欲しい。今更なのか、しょっちゅうなのか、当たり前なのか、それとも大き過ぎてその意味が理解出来ないのか。「個々が全体を形成する」事を知っているのか。知れないのか。
裏を返すと、個であることに甘んじるなということだ。所謂「もの」と呼んでいるものは社会生活上発生した概念でしかないのに、いかにも自己所有物であるかのごとく振る舞うこと、利己主義、既成事実に乗っかった自己正当化、そしてそれに、それさえきづかないこと。。。
時として、何故、このような負の元凶が潰えないのかと悲観したりするが、これも又必然なのだろう。
負を消すために法を作る。法の目的、本質を知っている当事者は勿論それを守る。
知らぬ人、知っててもその目的、本質を(頭の足りなさや、足りなく振る舞うこと※で)得ぬ人はそれをかいくぐる事を考える。
法で縛るしかないのだろうかと悲観する。
過半数が悪人なら破滅するのだろうかと悲観する。
しかし、たとえ99人が阿呆だとしても1人でも良く考える人がいれば救われるのだろう。得てしてそういうものだ。
過去の人達も同一の苦を味わい(真苦)、本当の救済を願ったことだろう。言っても無駄だと諦めかけたこともあるだろう。悲しいかな二千年、四千年では未だ判に至らぬか。。。と嘆くは容易い。どうするか。どうすればしめせるか。。。
ーーーーー
※事実を掌握できる健常者でありながら、おしを名乗るのは、卑怯であり障がい者への侮辱であり、自己認識を放棄した、それを自分自身と契約したものである。それは額に「私は卑怯です」と書き、自己認識を一生涯放棄する(発狂が手っ取り早かろう)事を誓ったものである。(人をもののごとく扱ったものに対してなので、「者」ではなく同様に「もの」と表記した。)
以降は自己との契約なのでせいぜい頑張ってくださいとしか、ここでは言えない。
ただの謎解き
2002.10.10の命題
義を通す上での戒を唱ったのが「教」ではなかろうか。
(利を取るか、義を取るか。)
ーーーーー
現在のコメント(2011.10.29 9pm)
濃縮しすぎた^^
本能としての学問
2002.7.5 花輪に行った日
私は幼稚園に行ってないが、字を読むことも、書くことも自然に覚えた。むろん、人としての自然の欲求のまま覚えたと言える。字を教えてくれる所に行かなかったからこそ、「覚える、勉強する」欲求が湧いた。これこそが人を人たらしめる、三大欲求に次ぐ第四の欲求であることは間違いない。
当時を振り返ると、字を覚えようとして覚えたわけではない。つまり「自慢するため」とかのために覚えたわけではない。あくまで純粋な欲求、本能として「学ぶ」事があったと今振り返ればそう思う。(他の利得のためではない。何かを意識してではない。正に無意識が、本能がそうさせたのである。)
露窓
2001.3.29,30
露窓に かける想いの 流れたる 更に流れて 景色を見せよ
ーーーーー
曇る窓。見たいけど、見てしまったら、自分が期待していたことと違う現実が見えるだけかもしれない。それでもよい。それでも見たい。
ーーーーー
近寄れば曇り、離れれば遠くて見えない。このもどかしさよ。
ーーーーー
露窓に 架ける想いの 流れたる しずくの先に のぞむ(しのぶ)景色よ
最も近くても窓の雫でしかいられない。いつか中に受け入れられることをのぞむ。
具有
生破内包
生の極。破の極。極とは頂。
それを内包、具有する。
美の極。醜の極。極とは頂。
それを内包、具有する。
快の極。苦の極。極とは頂。
それを内包、具有する。
老の極。若の極。極とは頂。
それを内包、具有する。
満の極。疎の極。極とは頂。
それを内包、具有する。
ーーーー
その覚悟、それを受け入れる器。
生破内包とは、その覚悟、それを受け入れる器である。
言挙げさえ躊躇する。
次元を超えて/超えさせて…
「人」が「人」を「殺める」「環境」を作ったのも「人」である。
当事者は自らが各人 とも同一に、全て、「自分が正しい」と思っているのである。
そういった人に「やめろ」と言ってももはや声は届かないのである。
それよりかは「あなたは幸せです」と言ったほうが何倍も良いのである。
ーーーー
ここで言うのは、どんなに頭のよい人でも、どんなに敬虔な人でも、どんなにピュアな人でも、それら最悪の環境に置かれてはどのように豹変するかは誰しとも分からないことである。
これは、それら至高に対する無念の言挙げなのである。
ーーーー
次元をごちゃ混ぜにしてはいけない。
この世にだれもバカは存在しない。ただ、次元を知らない人が領分を超えて土足で歩行ってしまう人を産み出してしまう環境を提供しているだけだ。
そして提供することに何ら問題意識を持っていない、ただそれだけである。
のんきなものだ。よっぽど平和なのであろう。
生んでしまう「悪」/生まれてしまう「悪」
母集団が小さければ「悪」は発生しない。(発生率が発生境界を超えない母数であれば。)
もし持ち合わせていても当事者であるので自らの利益に掛かるのである。
母数が増えると、「埋没」できるので自ずと「生じる」。
それは構わない。
以上は、低次の話だが、知るか知らないか。レベルを上げて知るか知らないか。
それでくくられてしまう現状を悲観する。
最大の無感覚を生んだ/助長した環境は?
人類史上最悪と呼ばれる人権問題・集団虐殺が幾多となく発生し、塗り替えられている。
つまり、後追い的に「人類最悪」であって、当事者、当時の周りの人は何もできなかった、厳しく言えば「何も気付かなかった。無関心であった」のか?
だれも当事者のだれかに「N時代に何故Y人の迫害に気付かなかったのか?」や「R国のT族とF族の虐殺に何故気付かなかったのか?」と迫るものではない。
言わんと知るのはなぜそれら「最大の無関心」を生んでしまったのか?ということである。
後追い的に当時の悲惨さを伝えるものはあるが、なぜ、だれもその発生メカニズムを科学しないのかを嘆き、ここに「最大の無関心を生んだ/助長した環境は?」を発表するのである。
これまでも同様の論文を発表してきたが、見よ、関心のなさよ。
結局、当事者だけの話であって、それについて本気で考えている人に対しては無関心なのである。(確かに世の中を見ればわかるが。)
極論を言えば、ニュースを騒がす突発的に聞こえる低俗社会の虐殺事件は、優雅に暮らし自己主体で生きるもの、および生きれると確信しているものの犠牲のもとに発生している現象だけである。
それら「無関心でありながらも無常を乞うもの」がいる限り、この世のものとは思えぬ悲惨な事件は起きるのであり、塗り替えられるのである。
そこで、いかに、いままで言ってきた事に耳を貸すか否かになるのである。
別に絵空事を並べ立ててきたわけではないことは自明である。
善行を成し遂げられた人々は幸いである。
人を殺められる人は幸いである。
何故なら三世を捨てれれるからである。
実感がないなら「生んだ人つまり両親」を蔑ろにできるからである。
その因果を自ら切断する、全くもって自らの意思のみで切断できた、それは三世を掛けてなし得る大業を正に実現できる、貴重な存在であり、いかに誇らしいことであろうか。
「身を流した人」である。
「流れに対して身を抗した人」ではないことを既に自覚している。
「自己」の「欲望」を貫徹できた点において「幸い」である。
それをさせるために多大な苦労を費やした親さえも、ようやく繋がって、繋がっていくであろう未来さえも、「自己」の「欲望」で途絶えさせるのだから。それを、正に実現した、できた、できる人はそういう意味で、誰も成し得なかった点において「幸い」なのである。
ーーーーー
さて、それら流された、流さざるを得なかった「もの」は哀しんで(ひとを「もの」扱いしたので、平等に「もの」と呼ぶ。または言う。表す。)または、悼んで次の話をしなければならない。
十分にその低次の欲求を満たしたことによる満足感を学んだ上で(だれも実際にやれとも言わず、本当にやってしまったことに対しては、なんとかめをつむって、もしくは生存者、遺族の恨魂を汲んで )次の話をしなければならない。
なぜなら、それら低次のものに時間を費やすのはもったいないからである。
ーーーーー
それらはもはや、別に三世もなにもないのだろうが、断ち切ったものとなりはてたものはなんのために糧を潰すのだろう。それこそ「これ見よがしに」潰すことをほこるのだろうか?結局、最後の最後で気づくかどうかのジャッジでしか判別しえないものである。それが正に「もの」である。
案4つ
1.善行を成し遂げられた人々は幸いである。
2.最大の無感覚を生んだ/助長した環境は?
3.生んでしまう「悪」/生まれてしまう「悪」
4.次元を超えて/超えさせて…
発生メカニズム
悪が出来る人は幸いである。
いつでも隠れる場所や隠れきる確信があるからである。
隠れる場所がなければやるまい。
逆に言えば、母集団が大きくなれば悪が自然発生するのである。
それに対する改善はするだろう。
しかし、安定した頃に(前の悪によって指摘されたレベルでの問題点に対する対処法ができた頃に)次なる悪が発生するのである。
イタチごっこであったが、その「悪の発生メカニズム」を知ると知らないとではまた違う。
また、「悪」は我々が遂に「悪の発生メカニズム」を獲得したことも既に知っているのである。
中庸とまとめられるだろうか
ある人または集団のなかで考えられる、最も理想を寄せ集めた仮想世界を仮定する。
「桃源郷」や「ユートピア」と言おうか。または「ノアの方舟」もその一部に属するかもしれない。
現実に築きあげてきたものがある。その終結として「ルール」、「法」、「憲法」と言えようか。
時代、もしくは、または(時間と空間をあわせて「OR」を取る時の言葉を知らないので表現できない。。。いずれ「大衆の自然淘汰」によりふさわしい言葉が現れよう。)地域のなかで それらの最善策が講じられてきた。
以前書いた「淘汰の歴史」の通りだが、迫害やら追放を受けながらもしっかりした真をもった説が残るわけである。所謂、三大宗教が現段階ではあるわけである。
それは理想を説い、また守るべき戒律を説く。
現代においてもそれは通用する。
(大変失礼なことを言うが、そのことが私には驚嘆に値するのだが。誰も分からないだろうが。^^)
敢えてイメージ化して言うならば、
理想というイメージがもわもわと浮かんでいて、
現実から生まれた、でも完全ではないルールがもわもわと浮かんでいて、
それらが重なり、濃縮されたものが実際に生きる現環境であるわけである。
その「もわもわの重なりあい」の一つの解法を示す、または定義しているのが所謂三大宗教でなかろうか。
ーーーーーーー
ここでようやく、前回の「温床」の話につながる。
いわば、現代はそれら三大宗教という温床に浸って、甘んじて、あわよくば苦労をしていると演出していたのではなかろうか?ということである。
いまや誰も本当の救済を考えていない。(温床に甘えているから)
ここで、現実の恐ろしさを言おう。(伝えはしない。教えはしない。)
ご自身が「救済」や「善意」だと思って行動していることの根幹は何か?という問である。
それは、以上で言った「温床に甘えていない救済」か?ということである。
これは前レベルの論法ではあるが「何かしたいからボランティアをする。善意を示したいからとりあえずボランティアをする。」という形式のみ、対外的な目的でしかなければなんの本質も存在しない。
それは「救済」という次元ではただの「駒働き」でしかない。
いまの「理想」で「民族問題」「考え方の問題」の決着を待たなければならいのか?
または「民族問題」、「考え方の問題」を今の「理想」で解決しなければならいのか?
ここに十分に煮潰えたものがあるのに使わない、または目に入らないようにする、または目には入ったが煙たいので目をつぶる(歴史の繰り返しになるが。つまり当事者でありながら歴史の形跡上はただの「野次馬」で終わる人のことになり得ること。)人になることになるかどうかである。
ーーーーー
今のところ、影響が大きすぎるので下書きとする。
Tina
草原を歩く女性。
雪原を歩く女性。
荒野を歩く女性。
砂漠を歩く女性。
それら歩みは一歩一歩力強い。
「母」なる力強さをその一歩に秘める。
秘めなるは可能性。
内からほとばしる可能性。
オーラと呼ぶ。気と呼ぶ。
その序章が一歩を持って、大地を伝う。
真実不虚
築き上げた結果として城が建つ。
築き上げた結果としてそれにあった服を身にまとう。
築き上げた結果としてそれにあった物を食す。
何時の時代も、この現代さえも含み大半の人はその結果のみに
踊らされ、惑わされ、また、踊らされ、惑わされていることさえ
気付かない。
つまり築き上げた人と同じ城に住み、
築き上げた人と同じ服を身にまとい、
築き上げた人と同じ物を食べて、
満足してしまい、その境地に達したを錯誤してしまう。
施政者からすれば扱いやすい。
全国皆中級の日本は特に扱いやすい。
誰も恥さえ感知できない境地に達せられてしまっている。
むしろ、それら温床に浸った人はこの文章を読んで開眼してもらいたくもない。
おとくいの見ざる聞かざるを貫徹していただきたい。
そうでなければ、開眼者にいかに顔向けできようか。
それら温床に浸かってしまった人が、災にもこの文章を読んでしまった場合は
見ざる聞かざるを貫徹して、それが不可能であれば目を潰し、鼓膜を破り、
鼻を潰し、舌を抜き、肌を焼き、意識による認識を封じ(発狂がてっとり早かろう)、
それら温床に浸かった人の世界でとどまれるよう、せめてもの努力をして
いただくことを望むのみ。
ーーーーーー
時の開眼者は世に出すべきか、世に出さず冥土まで持って行くべきか
どれだけ葛藤したことであろう。
対立の解決の歴史
誰も切り開かないので、私が「対立の解決の歴史」という分野をここに切り開く。
1。力による対立の解決
2。意義による対立の解決
2。について残念ながらこれまでは「対立の中に生まれた『聡明な』つまり『両方の立場を理解した』者を待つしか無かった。
もしくは時間という忘却機能を用いて緊張緩和/相互理解を期待するしか無かった。 つまり、双方に対してお互いの立場を理解できる者が必要で、彼らが意思疎通をするという針の穴に糸を通すような偶然を期待し待機しなければならなかった。
ここに記すのは、それら、第三者からすれば何が問題か、解決策は何かが分かるのに当事者外というだけで手をこまねくしかなった歴史への一つの解法を示す、(おこがましいので)「指針」を記すものである。
「当事者」では無いので彼らが殺し合いをするのを手をこまねいて見ているだけでよいのか? 少なくともそれに似た対立は私たちはこうやって解決しましたよ。と助言できるはずである。 その拡張と思っていただければよい。
それらは決して「当事者」の尊厳を傷つけるものではない。
たまたま私が気付いた事であるが、それはとうに、それこそ何千年前に誰かが気付いていることであって、ここに記すのは後追いもいいところであろう。
ただ明確な文書として残ったかどうかの違いだけである。
彼らの無念をないがしろにしてはならない。
中立的な「相」
最も中立的な「相」とは何であろうかと考えた。
陰と陽?
右と左?
+とー?
物質世界と反物質世界?
そもそも対称性のずれがあるため今こうして物質世界で相極を論ずる事ができているので、そもそも「中立」な「相」という仮定自体が間違っている?
「相」と言う以上それぞれ「相違」を持つ。
つまり、それぞれの「相」と呼ばれるもの、思われるものの「共通点」を排除して行って残るものが「相違」であろう。数学的に言えば平行成分を消して行って直行成分を求めるようなものだろうか。
ーーーー世界的な対立への応用ーーーー
世界規模で起きている嘆かわしい対立がある。つまり「相」がある。
お互いのいい分は分かる。
当事者からはお怒りを受けてしまう発言だが、それぞれの「相」を切磋琢磨して見極めている歴史の過程となろう。お互いの「相違点」が明瞭になった時点でお互い理解し合い「相極」として世界は回るのである。その「相極」を煮詰めだすために幾多の犠牲を払った事であろう。
いわずもがなであるが、無駄な対立を助長するよりはより聡明に「相極」を見いだすための一助になれればと思っての考えである事を理解して欲しい。
これを読んで怒るのであれば、それはこの文書を理解していない事を意味する。
AQUAの着想
MacOS 7.5.x や 8.x 時代、インターネットも繋がってなくてツールやおもしろソフトは月刊誌(MacFan とか MacPeople とか)が頼りだった。 そんな中でアピアランス全般をいじることができるフリーウェアがあって使った事がある。 その時、そのツールを使って作ろうとしたものに、「水っぽいもの」があった。その時の設計思想は「画面がとても固すぎる。もっと柔らかいもの、例えば、『水っぽいもの』はどうだろう」的な発想だった。 ウィンドウの角を丸くし艶を出した。スクロールバーはまさしく「水滴」らしくなればよいと思い、デザインしたものだ。 私が途中まで作成したアピアランスはそのまま世には出ずじまいであったが、まさかその(厚かましいが)設計思想が現実の「Aqua」とシンクロナイズしそうとは、あに図らんやである。^^ でずじまいものが何をあつかましいと思われるかも知れないが、「Aqua」が出た時は私の時代感覚はあっている、否、発想は数年前にしているためむしろ先行しているものだと、誰にも分かってもらえない優越感を覚えたものだ。
感情/感覚のシリアライズ化
この前、「感情/感覚のシリアライズ化」を記した。 この威力を一応説明しておこうと思う。 まず、公に公表した事により特権の効力が一般化された。 つまりこの件に関しては何人も、公表後の後追いとなるため特許は認められない。 その範囲はというと、今後世に出る「感情/感覚のシリアライズ化」をした、 またはそれに習った(準じる)文書および表現全てとなる。 あまりにも勿体ないという意見も多数あるが、敢えて公表した。 それは、特許による権益(数十年×1個人)よりもその特許を自由に使用して 得られる権益の方がはるかに大きく、全体として考えたとき(これこそが いままで言ってきた「全体」。分からない人には分からない)の人類/人文的な 最大跳躍の1ツールとなるからである。 近い将来、この意味、この権利の強大さを世間一般が知る事になるのだろうが ここで既に公表されている事を記す事で、そういった個人や局所集団による 利益確保を抑えるものであり、本来の個人意思、個人感情、個人感覚を 保護するための礎となるものである。
統治は「当面の」もの
独裁者は論外だが「統治者」は「完全な統治」をもってすれば「完全な統治」ができるものと思っていたのだろうか?(もしくは思っているのだろうか?) 願わくばもしくは史実として「当面の」ものでしかない。 それを知ってなお、敢えて行使するならばいかに浅はかである事か史実に淘汰されればよい。(その彧段も前の段階の独裁者は取り敢えずその恥ずかしさを知ればよい。文字が読めればの話だが。)
バックボーン
バックボーンを持たず、地から足が離れてしまって、それでも自分が浮いている事さえ気付けない人は哀しい。
気付くのは自分でしかできないのに。
支え、バックボーンがない人は可哀想なものだ。
いつか地に足がつければよいと思う。
兄と弟の差
本日は完全脱線
小さい頃、私が猫の前足のことを「手」と言ったら、兄に大変からかわれた。
当時もそうだし、今以下に論ずる検証をもってしてもなお、感覚的には、なぜそんなに話のねたに取りざたされるだけの意味を有するのか納得には至っていない。
別に動物の前肢を「手」と定義するのか「前足」と定義するのかの論争をしていた訳ではない。ただ何かの雑談で私が「猫の手」と言っただけである。
それに対して兄は「手じゃなかんべ」やら、よりによって夕食のみんないる所で「今日、ヒロ(著者)が猫の前足の事を『手』っていったんだよ」などとやんややんやで言われるものだから、私も困窮してしまった。「『猫の手も借りたい』っても言うべや」という反論もあったのだが、追いつめられて茫然自失してしまった私はただ兄の言うに任せざるを得ずであった。
今思うに兄の論拠はこうであろう。
動物の前肢は「前足」である。学校で習ったのであろう。つまり「手」とは動物には使わないと彼の解釈が入るのである。彼の定義力は愚弟ながら恐れるものがある。(いい意味でね。)また、それを守る責任感は私には到底及ばない。正に「学」を守り、「学」の守護を任せるべき人であろう。
そんな訳で「手」とは人にのみ特別に使用される言葉である事になった。(はずだ)
私の論拠はこうだ。
猫も生きている。頭部があって前肢があって腹部があって後肢がある。猫や犬はしっぽがあるけど人は無い。(あるけど見えてないだけ。)驚く事に構成要素は一緒なのだから仲間である。仲間に対しては同じ呼び方をした方が良い。よって猫の前肢はいつも地面に着いて「足」みたいだけど人からしたら「手」だから「手」と呼ぼう。
無論、ここまで論拠立てて考えていた訳では無いが、感覚としては上記のような発想で「手」と呼んだ訳である。(当時としては((今も若干そうだが))昆虫、鳥、魚、所謂生命体、さらに拡張して無生物、非存在、知覚対象、非知覚対象、有意識、無意識、「有」、「無」までも仲間だと思っていた。いる。)
「定義」からすれば私は敗北した。しかし「概念」からまた私の考えも一理ある事を無言をもって表した。兄は私の「無言」の意味する所をまた知っているのである。論で倒しても心のどこかで腑に落ちない感覚を感じていただろう。
1.封建的にもしくは家族という組織として
家の「長」意識を持たざるを得なかった兄はそれを正当に実現したのである。私も私の体たらくぶりを恥じてはいるのだが、家の事は兄に任せっぱなしであり、頼りっきりである。(しばらく兄に会っていないので、今度兄にあったら雷の一発や二発は浴びるであろう。)
「猫の手」事件も今考えるとそこに帰着するとしみじみと感じ入る。兄は規律、規範、その土台となる「正義」を守っていてくれている。家系の重みを言下に自ら知り、実行する人である。
兄の定義論に対して私の概念論で勝っていると思っている私だが、現に兄には決して歯向かえない。
(定義論と概念論の対立は我々が一緒に住んでいる頃はしょっちゅう起きていた。「戸棚と引き出し」論争も面白かった。今度一本書こう。)
2.兄弟という「相」
恥ずかしいが「兄あって私あり」だと思う。小さい頃は弟の宿命として常に負かされ泣かされていた。子供の反抗心として常にそれにどう立ち向かっていこうと考えていた。論拠に矛盾は無いか、威圧は無いか、定着事実を押し通そうとしてないかなど。
今となっては、それらが全て糧になっていたのだと思う。兄も私の特徴を知っていよう。対立はしているが根底に「そんなことはしまい」という信頼があるのでお互い安心して回転できる。実生活で関わりがなくとも「兄なら何というか」と判断基準として回っていけるのである。
これも一つの「相」である。エッセンスがあると思う。
甘汁を啜るとなす
「和をもって尊きとなす」ものを「和をもって甘汁を啜るとなす」としてはいたいけない。
「和」を尊ぶ人がより勤勉に働いて、「和」を悪用またはちょっとでも甘んじた、寄りすがった人が得をすることをより深く知っている、最低限この文書の意味合いを各個人として吟味する必要がある。すすったまま死んで気持ちいいのかと。無論何も知らぬまま滅してくれればよい。その分、勤勉者が勤勉に働くので。
ちょっと文書、この場合日本語が読めればそれで十分であって、脳みそは腐ってていてもよい。
8割の内に入っていればよい。8割は無為層だと諦めているので。
むしろ何も感じなければよい。感性を捨てればよい。それが突き詰めれば望みなのだから。(そこまで突き詰める前に思考は停止するのだろうが。あなあわれなりや。)
関係ないが
本質から外れるが、最近、会話の途中に脱線する人が多くないか?と思う時がある。
もともと、「これ」について話してたのにそこから脱線して、人によっては帰ってこない人もいる。
これも「受け狙い」社会の公徳だろうか。そこに如何に発展が望めるのだろうか。社会がそうなっている以上致し方が無いのだろうが、エネルギーの有効活用/仕方ないがための消費なのだろうがせめて意義を持ってもらいたいものだ。
働かないアリ8割でいる事を誇張するのも、それはそれで時代の反芻である。それに構っていても時間の無駄である。
Management and technical essence.
Essence wins. No, technique never mind about management, though.
in future, management will grow to the level that they can already control the growth of the technologies, they can be a maker of technique.
somehow, technique never wants to be belong in managements.
Management should try to hunt you. you must absolutely not be bought. That means that you dip in warm water or you become a tender cat. If you belong no-future technology, you should sell your soul to them.
It unfolds from that tragedy / comedy, even now, the fight that would have raised the level of management and will be a battle against absolute absolutely pouring.
However, knowing what the essence, the continuing pursuit of the essence, the group organized engineers never do I place it there is armed to the core and competitive.
However, it is hard to do or rather painful epithet to see what the opposition during the emergency nature has actually won. Growth will also be part of it shall be present.
Meantime they will continue. While it may be growing. Sublation of management and innovation happens at the growing light of the abyss.
I rather it would be the destination.
極値に陥る例
you have time to kill sea lion then, how can you say same things against wheel?
are you blind?
stop your selfish thing forever, anywhere the history resolve your cheap thinking anyway, dont worry ;)
経営と本質の技術。 副題:Steve Jobs 悲報に捧げ
経営と本質の技術。
本質が勝つ。否、本質は経営など二の次、三の次だ。
将来、経営がそこまでコントロールする/できるレベルまで成長するだろう。イノベーション製造機として。ただただそこに/それに飼われたくはない。
レベルを上げて獲得してくるはずだ。ただただ飼われてはならない。それはぬるま湯につかる事を意味する。それに甘んじる技術であればよかろう。技術者サイドとしては決して魂は売ってはならない。
今現在でさえ喜劇/悲劇が繰り広げられているのだから、レベルを上げてくるであろう経営との戦いは絶戦につぐ絶戦となるだろう。
しかし、本質を知るもの、本質を追い求め続けるものは、決して組織化された技術者集団には負けないものがある事をコアに携えておけばよい。
ただ、いざ本質が実際に勝った時に反対勢力を見る事の何と痛々しいというか形容しがたい事か。それに立ち会わなければならない事も成長の一環であろう。
これらが当面は続くのであろう。成長する間はそれでよい。成長の極みを鑑みた所で経営と革新のアウフヘーベンが起ころう。
私はむしろその先が気になる。
秩序と混沌。その仮定概念。
秩序と混沌が入り乱れた世の中。
秩序と混沌は人類の切り口で見たものであって、別の視点ではまた違った意味合いかも知れない。
秩序を生み出すもの、混沌を生み出すもの、その原因を仮定して歴史は様々な憶測を行ってきた。正しいか間違いかではなく、その時代時代での淘汰された到達点である。
その仮定は天と地であったり、天使と悪魔であったりする。分かりやすいように、またはその時代の表現方法のレベル的制約から、それら抽象概念に人格を与えて表現したり、単に「秩序」「混沌」と名称を与えたりして表現してきた。
それらは、仮定概念をくくるために用いているものであって、大切なのはそれが何を本当に意味しているのかを知ることである。
捕らわれていてはいけないし、過去の到達点を無視してもいけない。そう思うだけで、今または一生を通じて成すべきことは計り知れないほどあることに思いつく。
皆が到達者であれば、本質の協議が推し進められるのにと嘆く。
開拓
誰も開拓してないので開拓するとしよう。
いかに未開拓値が多き事か。勿体ないという発想まで思想が及ぶに至る人はそんなに限られているという事か。(8割以外の2割の中のさらに少数という事か。)
一瞬のSerialize化技法
今、この時は一瞬である。
先般言った技法は正に一瞬のSerialize化の技法である。(特許申請)
時代を変える事になんと「いかに現代的、自分の時代だと思えるか」が多様な事か。それを正に伝える事が私の目的である。(この目的からして特許としたい所だが。最低限、履歴として残れば時間的、発想的根拠となる。)
意味付け機構
手段:文書または非文書で表されたものにたいしてその意味、または限定できる意味を著作者の合意のもと表す事とする。
これまでに、このような明確な試み、権利的な事柄はされてこなかったため、これをもって明確な枠組みとする。以下、同様の宣言が発生する場合もこの宣言に準拠する。(文化的、人類的に有用なため、ここに規範を設け、過去のような誤った類推は排除する。それこそが文化的、人類的にな権利を最大限に守る為である。)
いつからでも変えれることも能力
経営者、政治家など、公人のおおくが大局観を持たなすぎだ。(前回言った公人のスタンダード参照)
公人なのに小人の発言になってしまっている。若しくは小人の言いなりになってしまっている。
(出る杭は決して出させない環境の成果とも言えるだろう。トップを置かないと決めたなら組織の形態も変えねばなるまいが。)
育ってしまったものを変えることは大変であるが、また、いつからでも変えれることも能力である。
相互監視
相互監視の方法として「三つ巴」を歴史を通して会得した。
「公人度合いチェック」のような仕組みを作り、完全独立の第3者機関が随時監視をするのはどうだろうか?
(以前書いた、企業倫理監視のようなもの)
問題は、はたしてこのチェックをしたときに、現在の公人は何人残れるかという事だろう。
一からの出発になる。
bottom up
言わんとする事が分かる人ならそれでよい。
分からない人のため、というかボトムアップの手法もあるという事で。
ーーーーーーーーーーーーーー
公的な立場であれば所謂「自己」を離れて物事を判断しなければならないし、する必要がある。
言わんとする事が分かる人ならこれだけで十分であるが、分からない人、分からないのに公的な立場になってしまった人のために。
公的立場が強まるほど「自己」を離れる度合いも強くなる。
現状はというと、もはや記述するだけ労力の無駄なので省略するが、ひどいありさまではなかろうか。
ではやはり「規制」という哀しさの結晶を作って対抗しなければならない。(こういうものを作る事が、また、作らなければならない事がどれだけ哀しいことか。)
これまで述べた通り、それらは得てして人格に依る所が大きいのであり、それは人格育成の環境や社会に影響を受ける。(既述の論文を参照)
無論、環境を整える事も重要であるが、環境が整備される事に委ねる事もよいのだが、もうちょっと切り口を設けようと思う。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
歴史は個人の自由獲得の歴史であるが、ようやっと「多数決」による「平等」を勝ち得たと陶酔してきた。しかし現実は、やはり理想を知らずに表面上の「公人」となり、自我をこれでもかと奮ってしまう哀しい人々が発生してしまってきた。
(公共を唄ったS主義が現状としてもっと悲惨な結果になってしまった事についてはもはや目も当てられないが。)
本来の目的を知らない、理解できない人ほど怖いものはない。なぜなら、何の疑いもなく目的とは180度正反対の事をしてしまうからだ。しかも自分が間違っているなどとは毛頭気付くこともないのだから。もうこのような暴れ子馬になったら周りから何を言っても制止不可能となる。ちょっとは文字でも読めるくらいの脳を有してくれれば良いのだが。(と、ここまで書いてもなお、まさか自分の事ではあるまいと読み過ごしてしまうのだろうが。)
ここまで理想と現実が離れてしまっては、自然発生的に、本来の目的を嫌でも分からせるべき何かしらの規制が発生するだろう。
学生に自由時間を与え自己管理の元で活動するようにしたら、自由の意味をはき違えて騒動まで起こしてしまったがために、以降は自由時間は無くし、騒動が起こらないように規制が追加されたようなものである。
我々はそれを多いに恥じなければならない。
目的はあるのに理解できずに規制で縛らなければならないのだから。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
大原則として「対話のスタンダード」(既述論文)がある。
これを元に「公人のスタンダード」を作らなければならないのだろうか。。。
最大の秘匿2
まさか最強国が、最大国が、最極国が秘匿を備えていないはずがないと思う事だろう。まさかあの国が表面上は共産的に運営していてそれはあくまでも表面上であって、その次のレベルを見越しての事であると、あえてやっている事だと思わない人はあるまい。
資本主義についても以下同様。
世界の最強国が、最大国が、最極国がまさか目先1世代、否、自己生涯のみについてのみ思案が及ばざる低レベルであるはずがないと思わないはずがなかろうと思うはずである。(論理云々干々前)
そういった最大の秘匿との対話である。上で言った最強国、最大国、最極国との対等の対話である。
もしも、あり得はしないが、存在しなかった場合にはボトムアップの最初の口開になる。
存在した場合は上記の通り秘匿との対話である。
ようやく現実界の土俵ができた。。。
目に見える枠組みが完成した。。。
長かった。
完全な秘匿
個人に完全な秘匿があるなら、組織に完全な秘匿があるなら、国家に完全な秘匿があるなら、世界に完全な秘匿があるなら、それは必然的にこれまで言ってきたものになるだろう。
アホには分からない。アホな国家には分からない。アホな組織には分からない。アホな個人には分からない。
分からない側にたつか、分かる側にたつか。これで十分だ。
(それとももっと説明が必要か?)
分からない事に恥を感じなければならない。以下は「恥の研究」参照。
無論既政者には脅威だろう。個人を止めれると思い定めたのであれば止めればよい。組織を止めれると思い定めたのであれば止めればよい。国家を止めれると思い定めたのであれば止めればよい。世界を止めれると思い定めたのであれば止めればよい。宇宙を止めれると思い定めたのであれば止めればよい。以下同文。各人の可能な限り、その先のレベルをあげてくれればよい。
思い定まったのならば、ここに記した事のように個人が犀の角のようにまっすぐ進めばよい。組織が犀の角のようにまっすぐ進めばよい。国家が犀の角のようにまっすぐ進めばよい。世界が犀の角のようにまっすぐ進めばよい。宇宙が犀の角のようにまっすぐ進めばよい。
無論その都度都度に淘汰が入る。淘汰される側である事を知るがよい。知るを恐れぬがよい。
つまり歴史を知り個人の能力を知る事であろう。漢的には温故知新だろう。
ないがしろにした代償の産物。
悔いればよろしい。
別に手遅れとは言わない。
それさえも包容してのことだから、せめて文を、先ずは文ぐらいは読めるレベルに達してくれる事を望むのみ。
もっと先の話ができる人はいつのことだろうか。
(先人が悔いるのも最もだ。恐らく何のこめんともないのだろう)
本質を捉えているか
終焉後に生じたことものに対して残せるものとしては「離脱」「解脱」「くいあらため」等という「言」になるだろうか。現世でもちゃんと残らないように「言」として残すのでは後継パーセンテージが芳しくないようである。
本質を表すのは難しい。概念だから。
本質を表すのは簡単だ。概念だから。
千だか万だか知らないがこれしか残せない事がとても哀しい。それだけに振り回された時代に生きた事が哀しい。
しかし前世はそれより粗悪な時代でさえも生き抜いてくれた事を思えば現世に多少なりの希望を託したいと思うのである。(シャカニブツと同一思)
幸い母数が増えているので到達者の全体数も増える事だけがせめてもの救いだろうか。(これを読んで憤りを感じなければならない)
数が増えれば言い訳ではない事は明前であり、エッセンス、本質を捉えているかに依る。
既成から脱する事のエッセンス
/*
残せるものとしては、いかにしがらみから脱せられるか、既成の枠組みから脱する事ができるか
の方法なのではなかろうか。
*/
捕われずに在してきた集団があり、個人判断でむしろもっとも俯瞰できる個人をもしくは集団を排出できた事実がここにある。これを残すべきだろう。(最低限として。)そして可能であればそのエッセンス、和文では本質を抽出し残さねばなるまい。
(敢えて記すが、いつ、どこで、だれが、誰に対して、どのように、なぜ、どのように、と聞くのであれば、「之」が「この」ように答えると記さねばなるまい。14)
何度も言うが、むしろ三相の頂(再始点)が知っている事であって、(後輩として彧人も、別始点として彧人も)、その本来であって、それさえ、それこそ残さねばならないものだとようやっと再認しただけの事である。千だか万だか掛けて、である。
言いたくはないが哀しくなるし、後世に悲しまれる時代で終わってしまう事になってしまい何とも言えない状態になってしまう。
むしろそうなれない(ならない)状態のもののほうが幸せなのだろう。(現代では。)
それは全て後世の負の遺産になる事を、最低限気付いた人が背負っていかなければならない。とても重い。支えきれるか心配だ。が、仕方がない。字が読めない人たちを背負わねばならないのだから。責めはしない。読んだら背負う側にきて欲しいだけだ。
これだけ言っても。
危機に陥ったとき
いざ、危機に陥ったときに「先人は何をやっていたのか」と思うのか。
では、現在先人を乗り越えて、踏襲してやってきたのか?
また、後世は意思を継いで残してくれるのだろうか?
もはや地球を離脱せねばならない段階で、やっとロケットを飛ばせる「明」だったら失望されるだろう。
数千年前に「見いだして」、すでに計画、実行していたら尊ばれるだろう。
。。。
行き過ぎると馬鹿だと思われるのが世の常だ。思われる分には構わないが、小さい領域での利己主義に捕われたまま発展(成長という意味であって、つまり利己主義の成長であって、「明」的な発展ではこの部分では意味していない)はしてほしくないものだ。
もはや、ここに記すものでもなく淘汰されていくのであろうが。(よっぽどのものでなければ。つまり、ここに記すのはあくまでも予防線として一個人として記すのである。)
こんなへたれた文章がよりどころであってはならない。
千だか万だか時間を費やして
残せるものとしては、いかにしがらみから脱せられるか、既成の枠組みから脱する事ができるかの方法なのではなかろうか。
というのも、こう想像してほしい。既界が終焉して何が残せるのか?エッセンスは何か?と。
終焉後に何かが生じるかも知れないし生じないかもしれない。
生じたとしたら何が残せるか。メッセージ、可能であればエッセンスとして残せるのか。
話はとても単純。
無論、今現在執筆中から数千か万か億か京か垓か秭か(はしょって)無量大数か、もしくは執筆現在の刹那までかは分からないが「存」するかもしれない。
それが終焉したと仮定(あり得る方が比重が大きいものとして、つまり50%より大きいとして)して欲しい。
それでも想像が及ばないなら太陽系を考えて欲しい。太陽が白色矮星になる過程で地球も飲み込まれるだろうし、最近の太陽の活動変動でいつカオス的な変動が起きるかも分からない。
そこまで思考が及ぶか、その前に思考を停止するか。ふたをするか。
及ばない時代か、及ぶ時代か。
現世的か三世的か(不及説、三世とは過去、現在、未来。3で世界が表せる。)
慈しむ時代か、慈しまれる時代か。もういいかな?(これだけ言っても気付きませんか?という意味)
先代はそういうことを憂いた訳で、現世的な利己主義の道具を具現させた訳ではない。(何度も言っているが。)そもそもそれを現世的に扱ってはいけないのであった。(敢えて完了形で記す。もうそろそろその位のレベルでよいだろう。)
至高まで到達しないまでも、あるレベルまで達した先人や後継者が、その具現されたものを振りかざしてしまったがために千だか万だかの時間を現世的に使ってしまったのである。
それは、仕方のない事だ。レベルが達していなかったのだから。これは決して過去を否定や非難するものではない。(文脈というか文間を見れば明らかだが。)
さて、いざ開眼して見極める段階になったかという話がやっとできるのである。
千だか万だか時間を費やして成長できたのか棒に振ったのかという話である。
到達者のエッセンスを現世的、利己的、または短期的真理にしては、させてはならないのである。それ自体が謀反であることを知らなければならない。ちゃんと原点に回帰しているか?いわいる「原理」や「教典」にまたはそのあつさに飲み込まれてしまってはいないか?
真理はそんなに難しいものではない。そんなに派生するものではない。1世代で1個人で直接見えるものである。
逆に「教」とつく個人や団体も気付くべきである。それは原点的か。つまり原点と直接対話ができているかと。原点というものが「原理」や「教典」でバリアされていれ、もしくはイミテーションされていて本質と相対できていないのではないかと。
前回も言った通り、それでは「そもそも話」になってしまうのである。「教」ずる人も「教」される人も全てが崩壊してしまう。そうさせてはならないと(手遅れかもしれないが)言った。
希望(せめてもの救いという意味で)としては、柔軟性を持ち合わせるものとして再起が可能であるという事だろう。
ーーーーーーーーーー
現代を憂うばかりに何とか糸口を見つけようとごちゃごちゃ書いてしまった。
せっかく千や万の前に在したのに対話できない事が残念である。こういう時代であったという事なのだろうか。
しかし、たったひとつでもあきらめはしたくはないと思う。
文魂
文により意思を表した。
意思により魂を表さねば。
そして、魂によりその高次の何かが表されるだろう。その一部でいられ、携われる事に有難味を感じる。
文は意思を共有するための媒介であった。
意思は魂を共有するための媒介であらねば。
未だ定義が判然としないが、魂に依って共有される高次の何かもあり、それが目標であり、それを意思レベルでは捉えがたいが、ふと感じる事ができる事に言い知れない感覚を覚える。
(「魂」もこの定義でよいのかまだ曖昧であるが。)
ーーーーー
ことごとく、意思に翻弄されるものは哀しい。いわんや未だ本能に翻弄されるものをやである。
そこに気付くかどうか。つまり如何に本気であるかどうかでだろう。
逆にそういう温床に浸かって甘んじるものは、幸せであろう。
何世代も重ねて、またそれを感じて成長するものだから。
浸かれるものは温かく見守って次の機会に成長する事を望むのみ。
ーーーーー
無論、これまでの事は、まやかしや偽りではなかったろう。
しかし、開祖の本当の至った相を、真に理解せねば。
どんなに組織が大きかろうと、勢力を拡大しようと、それでは逆に開祖の意思に逆行している事になってしまう。こんなに哀しい事はなかろう。
今一度、開眼の時期にようやく達したのではなかろうか。
あくまでも自己の問題である。
自己が1で、たまたま同じような考えを持ったもの同士が集まって組織となる。(する必要も本当はないのだろうが。)
それを、巧みに逆転させては本末転倒である。(気がつかなかったのであれば仕方がない。それに気付けぬレベルだけであった事だから。)
だからこそ、本当に考えねばならない。千年か二千年か知らないが無為に帰せてはならない。
極値に甘んず
現世の人には厳しい言葉かもしれないが、
「極値に甘んずるな。」
と言う事だろう。
別の言葉では
「どんぐりの背比べ」
でしか無くなってしまう。
(「歴史」として残るなら、また、そこまで残れたとしたら、いざ顧みて「恥ずかしい」遺産を残しては恥ずかしかろう。)
内外
主体は何処。
外で内は影響/形成されるが、如何なる理不尽な外にも内は勝る。
内に依存した外、乃至、依存外観、極値外観により制圧が生ずる。
これまでの歴史、勢力がこれにより表された。
正に2千年か4千年か幾万年かは測り得ないが、ようやく次のステップへあがる事ができる事への足がかりを得た事をここに記念す。
たまにはボトムアップで
大手であれば企業倫理がちゃんとしてないと立ち行かないレベルになったが、森を見ずに表面上の看板だけ掲げる企業もでてきている。
そこで、第三者がそれをちゃんと検査してあげればよいのではないだろうか?いわばヒューマンライツウォッチの企業版である。
ヤ企業の検査となれば危険も伴うが外部的に大々的にデファクトな標準になれば何も言ってこまい。(無論、ヤ企業はそれでもかいくぐる道を探すのだろうが。ちまちまと探す事に恥を感じないのだろうか。)
そもそも敢えて森を見ない人乃至集団の存在意義とは何であろうか?人でなしと括ってもよいが何の解決にもならない。ちょっとは知って恥ずかしさを感じればよい。(以下は過去発表の「恥の理論」参照)
船。吹き飛ばしうる言葉。
2011/04/23 18:58
船と出発点は違うが、結果として同様の着想に思いついた事がある。
発想は簡単ではある。
吹き飛ばす、吹き飛ばしうる言葉がある。確かにこれに依って残るか残らないか二分されるのであろう。
船はある意味、願望でもある。
自己を認識できた存在が持った願望であろう。いつまでそれに固執するのか?そろそろこの話についてこなくてはならない。(現代風に言えば「乗り遅れる」だろうか。)
船によって理想郷が確立されるかというと、先代はそこまで検証する想像が及ばなかったのだろうか?
くそたれやアホは集団である以上存在するのであって、先代はしょうがい者を差別する結論になってしまうではないか。船を考えた「自己を認識できる存在」およびその集団は無論そんな無慈悲ではないはずだ。つまりここに矛盾が生じる。アウフヘーベンしなければ、である。
すでに、以上の内容が「吹き飛ばす」威力がある事をスマートな「自己を認識できる存在」であれば気付いているはずだ。全ての「自己を認識できる存在」が「自覚」すれば大きく変わるはずだ。
そこで起きる問題が既施政者や大きく「枠組み」を整えてきた人乃至集団の今後の采配や変革であろう。
取り敢えず、この投稿を公表や翻訳できないように規制するのが手っ取り早いのではないだろうか。
ファンとコレクタ
ファンとコレクタを一緒にしないほうがいい。本質か表層かので全く異なるものだから。
この意味において、コレクタが指導者になるのは危険である。盲信になってしまう(ジャンルは問わない。
分野も問わない。
敢えて言うなら宗×も問わない。)。
本質を知ってあげなければ先代はいたたまれまい。同様にそれを盲信してしまった人々が。この意味において二次概念や派生概念を広めてしまったことは嘆かわしい。
過ぎてしまったことなれば、責められもせず、ただ盲信者を哀れむとともに、浅はかさを更正あとうことを望むのみなり。
せめて、そのくらいまでは思いを馳せねは折角巡り合わせた人生が勿体あるまいが。無論本人次第が故、不能説。
戦うツール
戦うツールといて「規定」ができた。
最強のツールはできたのだから恐れる必要はない。「対話のスタンダード」。「個人のスタンダード」。
無論、イタチごっこは続くのでそれをかいくぐるものはでてくるだろう。(森を知っておけばいつかは防げる。そこにとらわれてはならない。)
もはや自明であるのになぜこだわるのか?そんなに盲(めくら)なのか?メクラである事をアピールして何が楽しいのか?まず、人として恥ずかしいと思わなくてはならない。ここまで「個」の問題に落としても分からないのだろうか?では字を教えればよいのか?赤子から育てればよいのか?
いかに匙を投げようと思うか、思うに至ったかを想像するのは容易だ。
でもあきらめない。私は。
十数億人いるのにこれだけ
6千年だか4千年だか2千年だかしらないが、十数億人いるのにこれだけかと思われてよいのか。
その問いかけで十分だが。笑われてしまう。数十万。数千年に。
人は恥ずかしいと自覚しないと成長しないものだ。以上。
ぶんぶん2
大きな真理があるのにブンブンに振り回されて自己真理に陥る。
それは違うといくら言ってももはや声は届かない。とらわれているから。
見てくれ。ちゃんと見てくれ。
何人に届いたかな?
逆にこれが届かない事を望む人もいよう。拒んでもかまわない。たとえ完全に遮断しても自然発生するのもだ。遅らせる、つまり足を引っ張る事に対してたった個人の、せいぜい一組織の快感を満たすものだから、せいぜい頑張るがよい。(その前に空しさに気付いてくれればそれにこしたことはない。)
自己真理に陥らせる事も戦略。それで幸せであればよいのか?では放棄すればよい。
現段階のレベルでは自己は自己でありたいと思うのが標準だ。
自己では判じ得ないレベルでコントロールされていないかを考えなければならない。はやくそういったレベルまでいかなければならない。同世代のレベルにとどまってはならない。(ならないというかつまらないだろう。判じたのであれば。)
自己真理に陥る事ほど哀しい事はない。(何人もいる)
自分がそうではない事を望むのみ。
(無論これも私書として残すのみ。公開はしない)
本質の抽出
妨げても防げない。それを知ればよい。
恐れてはならない。全階級に対して言える。しがみつくな。が、言葉にした場合の一つだろう。(ちゃんと汲み取れば)
森を見ればそれは唯の一言でしかない事は言うまでもない。(あほらしいが語弊をなくすためにあえて記す。「森を見ればそれは唯の一言でしかない事は言うまでもないがその通りである。」)
ちゃんと全真理を、つまりCやBやI(三大と言われるが)や、真理に達したまたは真理を目指した全ての考えに対してを汲み取れば自ずと分かるはずである。ただ、自ずと分かると言っても分からない「」がいるのでやっと翻訳しているのである。そこにはどれだけ哀しい涙が流れた事か。どれだけ「」のために涙を流した事か。
全真理を会得する気概がこんなに衰退した時代を誰も嘆かないとは勿体ない。あきらめるのも当然だ。誰もがサラリーマンでも社長でも元首でも主権でも批評家でも「全世界を語れる人」でも、本当の意味での「全体」言い換えれば「自分」を放棄すればよかろうが。
人一人を怒らせるという事はそういう覚悟を持った上でやる事だと知る事だ。(知らなければ幼稚園ぐらいからやり直せばよかろうが。)
ぶんぶん
ブンブンぶれる。ゆれる。もはや真理とは何ぞやと問う素質を自ら放棄するぐらいに。
手遅れになると一生すがるものを失う。波の中で藁さえ掴めず、否、藁があるのに自ら放棄するが如しい。(新語:如しい)
では、帰着者を待っているのか?帰着などないのか?過渡期として帰着点が必要なのか?過渡期として帰着双が必要なのか?
道があった。無論今もある。現代においてはブンブン揺れる。避ける道もある。反すれば避けられない。そうゆうことだ。
道を行くが揺さぶられる。何ら昔と変わらない。以上。
如何に嘆き上手かどうかだ。何ら昔と変わらない。以上。
個人でしかいられなかった
千年単位は個人だった。
なぜ全体でいられなかったか。
帰着した事を責めはしない。(上から下から)
ただ「勿体ない」。
当然と言えば済む。(済ませてはならない。と思わなかればならない。と読まなければならい。批判は簡単だ。以下は「批判心理」参照)
番外編「規定について」
犯罪/ずるいこと/倫理に反する事(人もしくは動物/生命/非生命/存在/非存在としての生きるルールに逸脱した事柄)についていろいろな、すばらしい規定が制定されてきた。(倫理として人の中にあるものを表面化する点において、「発見」であるべきだが。)
これらは森を詳細に記す行為である。規定する人は森を見ている。しかし見てない人は脱走路を見つけようとする。その歴史である。
制定した立場からすればよい規定ができたと思うのだが、いくらでも抜け道はある。いはゆるイタチごっこだろう。
あるレベルに達すれば「森を見よ」という一言を追加する事で抜け道を塞ぐ事はできなくならないものだろうか?習熟度による。
※人と記したが、組織、意識、全体、個に存在する意識、意識外を含む。(現在の概念ではもはや「人」ではない。)
(「資質」は「時間」を含んでいるため、うまく分解できていない。申し訳ない。)
結局を言うと、「勿体ない」(時間、資質などが)と言う事だ。(これが「森」)
(「資質」は「時間」を含んでいるため、うまく説明できていない。申し訳ない。)
「平衡状態」「減衰状態」になったとき
数千年から今まですでに横たわっている事だが、「平衡状態」「減衰状態」になったときの話をしなければならない。
これらはもちろん「個人のスタンダード」、「組織のスタンダード(現世の「国」概念を含む)」を準拠したレベルである。(いまあえて記すのは現世がまだその段階に達していないからだ。後生で笑ってもらえれば幸いだ。)
逆アプローチとして
自由獲得の歴史であった。
しかし自由獲得/確保がゴールではない。
施政者に「私利ではない」と言わせる制度であった。
しかし最後に「自分が幸福であればよい」と言うためのものではない。
S主義によって現段階では全体を達観する事により「真摯さ」がおぼろげながら見えてきた。つまり行き着くと私利ではなく全体の構成である事を、事後的に発見する行程である。
S’主義では、いくら理想が高くとも夢としての目的と現実の目的が一緒では思考/理想/経済/個人は回らないという事が発見できた。(前段として「全体理解」が必要だが現段階でははなはだ乏しいことが嘆かわしいと言った所か。はやく追いついてほしい)
※発見とは後生、デファクトスタンダードになったことまで含む。
先人にならう
逆に言うと、これくらい考える人はいないのか。
人受け主義はここまできたとアピールしているのか。
またそれを恥ずかしいと、もはや気付けない段階にきているのか。
こういった空しさはあるが、先人はあえて伝えたのでそれにならう。
早すぎた理想
常々言ってきた事だが、貨幣社会でいかに人が育つかと、施政者が考えているかという事だ。
貨幣社会なのにS主義をしいて如何に人が育ったかを、してきた人はわかるべきだし、してなくても施政者はわからなくては恥ずかしい。
一事実(いちじじつ)を如何に取り扱うのか?
「恥ずかしい」と気付けばよい。気付かないからこそ問題だ。もはや気付かない事を誇っているとしか見受けられない。以前、「大きすぎるものを背負ってはいけない」と言った。重すぎる。人類や全生命、全存在、全非存在を背負えるというのだろうか?歴史において恥ずかしいと気付けばよいのだが。(その前に滅してしまっては残念だ。せめてこの文書を読んでからにしてほしい。)
貨幣社会なのに、それ以外の人は如何に夢を追えというのか?。もしくは資本主義以上の夢を民に夢見させる事ができてきたのか?(これからするというのか?いつ?いかに?)
ある意味、早すぎたのだ。それで納得すればよかろう。理想が先行しすぎたのだ。そう思えばよかろう。
人を資源と思った時点で間違いだ。資本を生むための駒と考えた時点で破綻している。生きる事、食べる事を施政者が全て賄える、もしくは採算が完璧に把握できる時点で生じる思想であった。早すぎた。
そんな時代がくるかはわからない。
貨幣以外の原動力が発見/発明、つまり生じるのか発生するのかわからないが、そういった時代に通用する思想である。今は明日の自由がやっと計画できるレベルに達した所だ。下手をすれば明日の自由は簡単に崩れる時代だ。
そっとずつ、ちょっとずつ築いてきたものだ。それを駒と思ってはならないし、あまりにも浅はかだ。
いつでもそうだが、何も新しいものではない。築いてきたものであって、幸い発見しただけだ。気付いただけだ。
突き詰めて「人のスタンダード」
すまない。もちろんこんな事を言えるものではない。しかしいつか誰かが言わねばならないために言う。
「こんな状況でよくそんな事が言えるものだな。」
それに対する応えでありたい。
それはこの基準を得ていない/体得していないがためである。許してほしい。
致し方がない。なぜなら知らなかったのだから。
もはやそれは人として恥ずかしいものである。一気に次のレベルに昇ってもらえれば本望である。
動物であってはならない。本能の権化であってはならない。
(動物は尊い。本望は尊い。)
当事者になって問われる。品位と言われるものか?
知ってしまえばもはや恥ずかしくて実行し得まい。読んでしまえばもはや恥ずかしくて実行し得まい。
(嫌であれば読まなかったものと思い込めばよい。忘れればよい。自己否定すればよい。)
そういうものだ。
可能性の抑圧という点において
矢継ぎ早になってしまうが、急務なので致し方ない。
これもまた、あるところからすればえらいことになってしまうが記さねばなるまい。
またはついに出たかといったところか。
タイトルで既に完結しているが、なぜ可能性は抑圧されてしまうかという事である。
身分的なもの、社会的なもの、個人的なもの、組織的なもの、コントロールによるものなどなど。
(以下は草案なので意味をなさない。)
平和ぼけの結果、受け狙いの社会ができた。また人々はそれで満足している。いつまでも閉じていればよい。
(/)
1.1 身分による可能性の抑圧
士農工商による例。封建社会による例。これは逆に可能性の発揚につながった。(多くの文献を望む)(「可能性の発揚」参照)
1.2 社会による可能性の抑圧
資本主義/社会主義による人材の抑圧。(多くの文献を望む)
これもまた、逆境による嘆かわしい反乱がある。(「可能性の発揚」参照)
1.3 個人的なものによる可能性の抑圧
いじめなどに関する例。(多くの文献を望む)
TVに新しい。(「可能性の発揚」参照)
1.4 組織的なものによる可能性の抑圧
以上で述べた組織以外による組織による被害の例。最なるものは企業か?とどめたいがために能力を伸ばさない。ただ対外的/対象物には知らせない。巧みである。
全体に言える事であるが、当事者に悟らせないための技巧は正に巧みである。
(論文外)
それでいかにのせられてしまい可能性を閉ざされてしまった人の多き事か。それだけで嘆かわしい。
(/論文外)
脱線
現代の、一般的な論文の発表はネットが利用できて便利になった。第一発案/発見者がちゃんと評価されるようになった。(本当は相対的時間において最初に発案/発見した、つまり意識に上った人が該当者になるのだろうが。)
(無論、現在はちゃんとした論壇にのせなければならない。未来を見越しての発言と見れくれればよい。いかに発案/発見者の利権を守るかはまだまだ論争のある所だ。いわば、発表直前の論文を一学生がネットで速報したがために権利がその学生に言ってしまうのかといった問題だ。)
私の論文は世間の良心にゆだねてみようと思う。(試験的に。たいしたものでもないのでちょうどよかろう。)
第一章 環境として
環境による可能性の発揚性について記そうと思う。
1.1 気候的環境
温暖な気候の民族は温暖な性格を持ち、寒冷地帯の民族は冷静/冷徹な性格的変更を持つという。かといって自由への反乱は気候的環境を問わず起きている。蜂起するものは蜂起する。つまり人または動物としての本能として過剰な抑圧に対しては自己を主張するものである。寒冷地帯の民族は細かいが、温暖地帯の民族は大らかだと言う。寒冷地域でも大らかにやって成功する人も入れば、温暖地帯で細かくしきって成功するものもいる。温暖だからといって、いざ怒ると怖いという。主張はするが個が強すぎて集団として生活しにくいという。気候的/地域的環境は個性に影響があるかもしれない。また環境が個人に影響しているかもしれない。(科学されてないならこれが最初の分析になるだろう。新分野として発表しようと思う。)
目的は、それらがどのように発揚されるかだ。あくまでもサブ論文として。
発揚者はあくまでも自己意識として発揚している点である。
(全体:仮説。要参考文献)
1.2 生育的環境
東大排出の子育てがあるという。また、全世界を見ればどこのどういった人が(本当の意味での)大学に入ったのか、世界に台頭する会社の社長になったのか、政治的トップになったのかその人の生育環境の影響を考える事ができる。(本当の意味というのは本当にその人の可能性を増長したのかということである。)それは対外的な(政治的/宗教的など)影響を排しての生育的な環境を考える事ができる。いわば帝王学とも言われるように特殊なもののように思われるが、所謂一般庶民からもトップに上り詰める人材もいるからもわかるように決して特殊なものではない。つまり生育環境によって本人の可能性/モチベーションを高く保たせる何かがあるのではないだろうかといった科学である。
この場合も同じく、いかに自覚して発揚するかに掛かっている。
1.3 生活的環境
自己の意識以前から虐げられてきた。もはや生命が我慢である。それでも乗り越えて上り詰めてきた。そういった環境についてである。強く政治的/宗教的な環境に左右されるが、ピュアな環境(つまりあまりもしくは全く政治的/宗教的な環境に左右されない環境)で考える例がある。(日本に多い?要参考文献)つまり、そういった人々の中で育った上で台頭者になった者の例である。
これについてはその生活環境、つまり自由主義かその反対(封建か?社会か?)についての検討となるため2章に詳細を記す。
ただ、強く虐げられてきた(本人の自覚として、もしくは第三者からの判断として)環境ではその傾向が強いと言えるのではなかろうか?
1.4 政治的環境
政治とは何か?遡るのであればそこから始まる。それは組織を動かすための組織である。であれば構成員の全ての意見を聞き入れるべきである。しかし組織が大きくなれば意見がまとまらないという事で「代表」と言う考え方が出てくる。ただし、直接の監視ができないため監視するための組織も必要になってくる。そしてお互いの利権を第三者の視点で判断する必要も出てくる。この対等な3角関係もままならない組織がある事が哀しいが、そういった組織の軋轢にあって逆に可能性を発揚した者の例である。
ソクラテスやガリレイから始めればよいだろうか?
そして現代としては。。。
1.5 宗教的環境
以前、「虐げられ、そのまま忘れ去られてきた人/ものがいかにあったか」という論文を書いた。ここで掘り下げる問題でもないが、ちゃんといま正対すべき問題である事は確かだ。(最終的にはとどまる事は勿体ないということだ。)
森を見よう。その最終目標は何か?みんな一緒であるはずだし、あるべきだ。(そんなに小さいものを言っているものではないし、そんな小さいものに執着するものを輩出するために解いたものではない。しってるものはしっている。)
つまり、越えたもの。達観者の例である。
いくにんもいるが、それが、その到達点がただしく伝わらなかったのがこれまでの問題点であろう。これについては別冊/別論文としよう。
序章
批判を恐れずに言うなれば、これは無惨を遂げた無数の意思の救済でもあり、無数の穀潰しの救済である。統計学から言えば「優位層の増大」と言えてしまうのである。
無論、例外なく救済できればよいのだろうが、まだ途上である。また救済などときれいごとを言える筋合いのものでもないと自ら言っておく。ただ「それに少しでも加担できれば」と、若輩ながらのため息である。公表する気はない。するだけの意味も意義もないと一時は思った。なのであくまでも日記としてここに記す。
以前、「対話のスタンダード」と言う論文を出した。つまり、相互理解時の相互準備基準ともいうべきか、個人対個人として対話する場合の最低限の条件で、それを外れるという事はつまりコミュニケーションの何たる可を知っていないので、対話以前の話になってしまうという論だ。公的な対話は最低限このスタンダードを準拠していなければ、そのものは相互理解の何たるかをしってない恥ずかしいものだと相手に気付かせるものである。
これまでは相互理解を無視しても力でなんとかなる時代だったが、それはあくまでも偏りが見せた幻想であって、相互理解なくしてはお互いの理解、つまりコミュニケーションはなりたたないということにいつまでたっても気付かない人々のために書いた。
もはやそんな所に時間を費やすのは勿体ない。人類として浪費を感じないのだろうか?
今回の論も、そういった、「知らなければ人として恥ずかしい」レベルのものである。
なお、この論文はほとんどが仮説に乗っ取っている。言い換えれば偏見と言われてしまうかもしれない。よく批判者からは論拠をつつかれるが、論弁者からすれば目的が最大であり、またその過程が大事なのであり、全体を見渡してほしいというのが論弁者皆の主張であろう。(いうまでもないが。)なので、これは仮説だけの空論だと思ってもらって差し支えない。(最小をとれば。)ただし、言いたいのはこれまでの歴史を踏襲した、培ってきたものの凝縮だと感じてくれれさえすればよい。(森を見てほしい。)
最終は中和。何も起きない状態。それがよいのかよくないのかは判らない。温度均衡の状態。そこに分子の反応は発生しない。(真空レベルでは発生するがもはや分子レベルでは干渉されない。縮小のスープ状態)それまでに何ができるか。その問いは一気に全宇宙に広がる。この宇宙が中和されるのはいつか?たった意識のレベルでこれだけのいざこざがあるのにその更何彧層の「いざこざ」(表現しきれない。表現しきれない事が分かるかな?最低限そこに触れれば面白い。)があるのか?この感覚が何千/何万/何光年先の感覚かはわからないが今感じれる事を記念しておく事に意味があると思う。)つまり、何千/何万/何光年先の存在がこういった歴史を刻む事のできた、歴史を残すこののできた我々文明の文化を残したことをいつか見直してくれることを願って残すのである。
はたして残らなかった文明もある。そうならない事をただ願うのみである。全世界のサーバに残るからといって安らかではない。最後はいつも一緒だろう、如何に心に残るかだ。
一つの正解として
緊張と緩和の中間。
酷使されすぎて可能性を失う(可能性を発揮する機会を失う)。満たされすぎて何も欲求も湧かない。
環境にもよる。技術者/科学者/心理学者であればこのへんの力学を科学したくなってくる。これを欲求力学としてここに発表しようと思う。
達観者はすでにこの重要性に気付き、歴史に残してきた。ただ現代者がその真意を汲み取れてなかっただけなので、後発の論文でしかない事をここに明記しておく。
先に言ってしまうが、いかに個人をこの環境/領域に住まわせ、人としての可能性を発揚させうるかという事ではないだろうか。本当の発展はそれからだろう。
2013年4月6日土曜日
助走/序奏
2011.2.24 23:06
助走をつけて潜る。無意識の深奥まで。
助走をつけて飛ぶ。有意識の漂流まで。
助走とは経験もしくは歴史。(スパン/オーダー次第)
深奥と漂流とは正にかたちつくるもの。
こんなところだろうか。
いきついたものが勿体無い。
遅すぎると嘆かれる。
ようやっと千年ぶりの因数がかえられる。(5倍から10倍くらい掛かったのか?10分の一から5分の一で済んだのか。)
千年周期
千年周期だったとは嘆くだろう。もしくはようやくそういったレベルになれたと喜ぶべきなのだろうか?
もしもこのまま埋没すれば後退するだけだ。当事者として全体として同時に判じれるかに掛かる。
苦労の無い人は居ない
人はそれぞれ苦労の無い人は居ない。
史しか求めてはつかめない。むしろ史外にこそ心裂してこそでは。(現代(西暦2011年)は前者のさらに前々段のレベルといったところか。だれもなさけなくならないことになさけない。とくいみもないとだんねんするのもとうぜんだ。)
大問題になってしまうが、成長も統計上に乗ってしまっている。因子を変えねば。いつまで今の因子に固執するのか。固執しては抜け出せぬ。固執は簡単で浸かり易いが、それでは統計の一因子でしかいられない。
三世や三位に対して相見えまい。誰がもが主体であれば。誰がもが全体であれば。こえねば。
(三が前後する事に意味はない。気になれば転地するがよい。要は森を見よという事だ)
流れ
2011.2.18 21:59
統制を知り、自由を知る。
人生のスパンでは測りがたいが、それをいかに知るか。もしくは、人はそれを知る事ができたからこそ今がある。
部分であり、全体。
脈々と流れるものに流され、流れを知る。
部分に執着せず、全体に拡散せず。
存在にとらわれず、かといって散漫ならず、客観的に知覚外をとらえる。
表現の進化ではなく、個に執着する背反として流れてきたものの抽象を知る。または、その繰り返し。
一部分でいられ、同時に全体でいられる。それでよかろう。全個々がまたは全体がそれを知ったらどうだろうか。
組織の根
会社も然り。どんなに大きかろうと根っこが腐っていればつぶれる。(例えを言う必要もなかろう。)仲間と思えるかどうか。それを広げるだけの事だが。
一度はまるとなかなか抜け出せない。こういう事はむしろ、抜け出せない人のためのものだろう。知ってる人は知っていればそれで良い。
それが本来であって、目的であってはならない。してはならない。
本性において
(2002.7.14(日) 明日は月曜日)
本性において美しい。「何故か」という問いは存在しない。理由など存在し得ない。そういう意味でなんと尊いものか。
理由のない感動を伝えるのがいかに難しい事か。理由があるなら元を辿って、順を追って伝えれば伝わる。そういうものではない。そういう意味で芸術は意味を持つ。芸術が何を伝えているかと言えば、心の動き、つまり感動であろう。絵画、音楽、詩、小説、文字、そういうもので何故か感動する。(人とはそういうものだと結論したとしても何の解決にもなっていない。)
つまり、いかに感動するか、何故か分からない感情を如何に受け止めるかが本来である。
「芸術は難しくない」理由などないから。
「最も難しい科学」理由が突き止められないから。
人を愛する。何故かは判らない。でもこれこそが生き甲斐であり、最も意味を持つ、人生の意味を教えてくれる、人生に意味を持たせてくれるものであると自覚する。(理由がないのに自覚できるとは何と矛盾であり、あえて表現するなら「素晴らしい」ものか)
アピールについて。(ソクラテス講話術)
(2002.5.10 pm12:00ごろ 面接について)人は一生上、自分をアピールする事が必要なものなのだろうか?アピールとは事実をあくまでもそのまま見てもらうことだ ろう。あくまでも実績がなければ意味はない。自分を知ってもらうには、唯、自分を見てもらえばよい。
目的が先行してはならない。(いう必要もないが。)究極をいえば、伴侶を得るためのプロポーズだけが最大で、最終のアピールだろう。
自分のいい所を口先だけで言う事は本当はしたくない事だろう。自分を美化する事に空しさが募る。言いようによっては自分自身を追い込む結果になりかねない。公前と自分の生き様をさらす訳で、その場で勢いで言ったがために身動きが取れなくなってしまっては困り者だ。
自分自身の考えを公前にさらす必要性は、本来の人間に必要なのだろうか?
個人対個人とか個人対多数とかは関係ないはずだ。自分の考えが相手に伝わりさえすればよい。唯、自分の考えさえ持っていればよい。
口で変えたり惑わせたりする人は哀しいものだ。コミュニケーションの何たるかを知るべきだ。
それをふまえて初めてソクラテスの講話術などがでてくるのだろう。その何段階も後退してしまった。「相手を知る」。それがいつからなくなってしまったのか?本来は日本人の得意分野のはずなのに。
左の総括
一応ようやく結果が出たようなので総括しておく。 (いつも通り具体を避けて抽象的に述べるので読みづらくてすいません。。) とは言ってもこれまで散々述べてきた通り、あちらの根本は「利己」であるということの繰り返しであるが。 まぁそれが象徴的に民意として「流石に目に余る」という結果にな...
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私が子供の頃は「転生」というのは、ゲームの女神転生くらいでしか聞いたことのない単語であった。(その時分も「女神転生」という固有名詞という認識で、果たして「転生」とはどう言った意味を持つものかということまで深く考えたことはなかったし、同世代を生きてこられた、当時子供だった方々も同じ...
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真しやかに言われているが、都民が愛想を尽かして東京から流出することで首都圏一極集中の解消・地方再生を狙うためにあえてとんでもない人がドヤ顔で出てきているということ。 (つまり本人には気づかれないように道具となってもらうということ。) 冗談なので深くいうまでもないのであるが、冗談を...
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医療費の増加が話題になってるが、聞けば聞くほど当然というか「成る可くして成っただけ」とも言える。 言われている通りなので詳細は割愛するが、これだけ大量に薬を処方されたり、高血圧だ血糖値だ減塩だとか騒がれたり(つまり高齢者の医療費)と言った感じである。 ちょっとしたことでも大量の薬...